第55話 霧の里、はじまりの地へ
交渉が済んだのち、クラウスは仮面の梟との詳細な打ち合わせのために部屋に残り、ハルカとノアは外に出た。
霧がうっすらと晴れ始めた隠れ里の道を、ふたりは無言で歩く。
「……本当に、もう戻るの?」
ハルカがそう問いかけたのは、小道の途中。スフレが木の根元に鼻を押し当てていたときだった。
ノアは少しだけ立ち止まり、振り返らずに答える。
「君を預けた以上、長居はできない。僕の立場もあるし、ここに僕がいれば……かえって目立つから」
その言葉に、ハルカは何かを言いかけて——けれど、飲み込んだ。
ノアはその気配を察したように、ふと振り向く。
そして、少し笑った。
「……そうやって、また引き止めようとしてた?」
「……別に、そんなつもりじゃ……」
ハルカが戸惑いながら答えると、ノアはからかうように首をかしげた。
「ふふ。残念。……もうちょっと甘えてくれたら、考えたかもしれないのに」
ハルカが目を丸くして、少しだけ頬を赤くする。
その様子を満足そうに眺めながら、ノアはしゃがんでスフレの頭を撫でた。
「頼んだよ。……彼女のそばにいてやって」
くぅん、と一声。
小さな命が、確かに返事をした。
立ち上がったノアは、ハルカの方を振り返る。
少しだけ、目を伏せて。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「……前に君が書いた言葉、覚えてるよ」
「“わたしのせかいに、ノアがひつよう。どうしようもなく”——って」
ハルカの目が、驚きに見開かれる。
——あの、たどたどしい字で綴った言葉。ノアに見せたかどうかも、もう定かじゃない。
でも彼は、覚えていた。
「僕の生きる場所はどこかって、ずっと考えてた」
「で、ようやく答えが出た。……君の世界で、生きるってこと」
ただのからかいじゃなかった。
ふざけた調子でもなかった。
それなのに——なぜだろう。
心がふっと熱くなって、顔がほんのり火照るような感覚があった。
ノアはふっと笑って、ひらりと片手を振る。
「……じゃあね、ハルカ。
次に会うときは——君のほうから、僕が必要だって言ってもらえると嬉しいな。……できれば、甘めの声で」
「な……っ」
思わず息を呑みかけたハルカに、ノアはくすっと笑い——
まるで「それでこそ君だ」と言いたげに、背を向けた。
歩みはゆっくりと、でも確かな足取りで遠ざかっていく。
ハルカは、動けなかった。
ただその背を、ずっと見つめていた。
(君の世界で、生きるって——)
その言葉が、胸の奥で何度も反響していた。
スフレが、そっと彼女の足元に体を預ける。
(また会える、きっと)
(そのときは——)
胸に小さく、けれど確かな決意の火がともる。
* * * * * *
山間にひっそりと隠された集落は、朝な夕なに霧に包まれていた。
木造の平屋が並ぶその場所は、もとは宿場町だったらしいが、今は革命軍の本拠地として再利用されている。
舗装もままならない坂道には警戒の目が光り、兵舎代わりの小屋には見張りが常駐している。
クラウスは一時的に王都へ戻り、報告任務に就くという。出発の朝、彼はハルカにポーチをひとつ手渡した。
「庁舎から応急処置用の救急セットを分けてもらった。お前なら、使い道があるかと思ってな」
「……ありがとうございます」
王都と隠れ里を結ぶ山道は険しい。クラウスの背中が霧に消えていくのを、ハルカはしばらく見送っていた。
* * * * * *
霧に包まれた山間の隠れ里。そこが、革命軍の本拠地だった。
粗末な家々が点在するこの地には、物資の蓄えも通信手段も乏しく、生活環境は決して良いとは言えない。
だが一方で、“沈黙の帳”改良型による外部遮断は極めて強固であり、魔力探知や座標追跡すらも完全に封じられている。
潜伏と拠点維持を両立させた、籠城地——それがここだった。
革命軍を率いるのは、“仮面の梟”と呼ばれる若き指導者——その正体を知る者は限られている。
黒いフードと、鳥を模した異形の仮面。
彼の素顔を知るのは、ごく一部の幹部のみであり、
さらにその仮面の下に隠された真実——“失踪した王子レオニス”であることを知る者は、ほんの数名しかいない。
彼は素性を伏せ、「この国を変える」というただひとつの意志のもとに立ち、
その仮面を通じて、圧倒的なカリスマと静かな威圧感をもって仲間たちを統率していた。
その右腕が、参謀カイネル=ストラウス。
かつて煌聖騎士団の軍司として王妃に仕えていたが、
王妃の魅了魔法に抗したがために“反逆の嫌疑”をかけられ失脚。
全てを失いながらも、今は革命軍の頭脳として再び前線に立っている。
戦闘部隊の中核を担うのは、気の強い女性幹部・エレナ。
仮面の梟からハルカの存在を聞き、かつて彼女に興味を抱いて監禁場所を訪れた。
以来、敵意と好奇心を入り混ぜたような視線でハルカを見ていたが、今ではその態度にも少しずつ変化が現れ始めていた。
他にも、魔導技術の開発を担うヴィス=ネブラをはじめ、各分野の精鋭が集まり、それぞれの役割を黙々と果たしている。
革命軍の構成員は、ほとんどが元騎士や軍属出身の戦闘要員で構成されていた。
その多くが地方出身者であり、王妃ヴァレリアの圧政によって故郷や家族を奪われた者たちだった。
王妃は、表向きには王に忠節を誓う理想の王妃を装っていたが、
実際には魅了魔法で王や重臣たちを従わせ、政治を裏から操っていた。
贅沢を極める一方で、地方には軍資金や贈賄のための重税が課され、
財政は崩壊寸前、冬を越せない村もあった。
疲弊する村々の声は、王都には届かない。届いたとしても、何も変わらない。
そしていつしか人々は、“王は王妃の傀儡に成り果てた”と、密かに囁くようになった。
——そんな中で仮面の梟が掲げた「この国を変える」という言葉は、
彼らにとって唯一の拠り所であり、戦う理由そのものになっていた。




