第54話 革命軍の隠れ里
ノアは気を失っていた。
背中の傷は浅かったが、出血と、五日間の極度の疲労が限界を越えていた。
ハルカは彼を支えるようにして床に座り、動揺を押し殺しながら、結界の補修と応急処置に取りかかった。
スフレも、足元に寄り添うように伏せている。
(私が、狙われた。……私のせいで、ノアが——)
胸がきゅっと締めつけられる。
このままでは、また誰かを失う。
扉が静かに開き、クラウスが入ってきた。
ノアの様子を一目見るなり、彼はため息をつく。
「……寝たか。いや、ついに倒れたってとこか」
ハルカは黙って頷いた。
その瞳に揺れる恐怖と不安を、クラウスは見逃さなかった。
「聞いたよ。結界を破られて、直接侵入されたって」
彼は簡易魔導端末を起動し、残留魔力の波形を確認する。
「この魔力……狙いは完全にお前一人だな、ハルカ。手口からして、仕留める気満々だった」
わかっていたことだった。でも、誰かに言葉にされると、どうしようもなく現実味を帯びてくる。
「……ノアが庇ってくれた。……でも、もう限界だったんだと思う。ずっと寝ないで、私のそばにいてくれて……」
そう絞り出すハルカの声に、クラウスは一拍の間を置いて静かに告げた。
「——そろそろ、考えろ。逃げることを」
「え……」
「このまま王都にいても、次は防げない。今度は“君が死ぬ”か、“ノアが死ぬ”かだ。
でも、王妃一派の手が届かない場所が一つだけある。革命軍の隠れ里だ」
クラウスの声は、いつになく真剣だった。
「俺が連絡を取ってやる。そっちに身を寄せるなら、話は通しておこう。
ノアが目を覚ましたら——選ばせてやれ。お前を“生かす”ために、何を捨てるか」
その言葉が落ちたとき、ノアが微かに身じろぎした。
「……革命軍、か……」
うわごとのように呟いた彼の声には、まだ焦点がなかった。
「……君を、生かすためなら……僕は、なんだってするよ……」
言葉の端に、深い苦悩と決意が滲む。
ハルカはその手を、そっと握りしめた。
(守られるだけじゃ、もういけない。
——わたしも、動かなきゃ)
その胸に、ゆっくりと小さな火が灯る。
* * * * * *
王都を離れて三日。
一行は人の通らぬ山道を、ひたすらに歩き続けていた。
昼は黙々と進み、夜は火を囲んで簡単な食事をとる。
クラウスは時折方位と周囲の気配を確認しながら、先導役を務めていた。
「……この先を越えた谷が、あいつらの隠れ里だ。明日のうちに辿り着く」
そう告げた彼の声に、ハルカは小さく頷いた。
けれど、その眼差しの先には、見えない不安と、まだ言葉にならない焦りが宿っていた。
その夜、一行はかつて旅人のために使われていた古びた宿場跡で野営することになった。
崩れかけた庇の下、焚き火の明かりがほのかに揺れる。
ノアは膝を立てて座り、その足元に寄り添ってきたスフレの毛を、ゆっくりと撫でていた。
「……本当は、君も置いていきたくないんだよ」
その声は静かで、少しだけ寂しげだった。
スフレがくぅんと鼻を鳴らすと、ノアはくすっと笑う。
「でも……君は、彼女のそばにいるべきだと思う」
向かい側で小さく焚き火に当たっていたハルカが、顔を上げた。
「ノア……」
ノアはちらりと彼女に視線を向け、ほんの一瞬だけ優しい目をした。
「君のそばにいると、スフレはよく笑うんだよ」
「犬が笑うってのも妙な話だけど……まあ、感情が読めるだけ、君たちよりわかりやすいかもしれないね」
「そんな……私、笑わせてあげられてるのかな」
ハルカがぽつりとこぼすと、ノアは淡く笑った。
「少なくとも、僕といるときよりは確実に楽しそうだよ。……少し悔しいけどね」
クラウスが焚き火の奥で、「……嫉妬か」と呟いたのを、ノアは聞こえないふりをした。
焚き火のぱち、という音が空気を切る。
山の夜は冷え込んでいたが、そこにはほんの少しだけ、柔らかい温度があった。
スフレが丸くなって眠りにつき、ノアも目を伏せる。
——そして、夜が明ける。
霧の中、一行はまた歩き出す。
その先に、まだ見ぬ隠れ里がある。
* * * * * *
霧が、森の奥へと流れていく。
岩肌を這うように築かれた山道の果てに、それは静かに姿を現した。
——革命軍の隠れ里。
谷のくぼ地に築かれた石壁の内側、木々に覆われるようにして、いくつもの家屋と監視塔が点在している。
その全貌が見える前に、一行は門扉の前で足を止められた。
「止まれ。身元を確認する」
門番の男たちが無表情で前に出る。
全身を覆う防護布、武骨な槍、そして……敵意に似た鋭い目。
ハルカは反射的に身をこわばらせた。
だがその隣で、クラウスが一歩前に出る。
「王都特例調査庁、クラウス=ラルヴァ。王妃派の襲撃対象である彼女を一時的に匿う交渉に来た。通してもらおうか」
静かに、だが揺るぎのない声音だった。
門番たちが顔を見合わせる。そのうちのひとりが、ノアをちらりと睨んだ。
「青の魔導士、……いや、王立魔導研究所の主任までご同行とは。これは、どういう——」
「個人的な判断だよ」
ノアが遮るように言った。声は静かだが、語尾はきっぱりと断ち切られている。
「君たちに判断を仰ぐ気はない。ここに来たのは僕の意思だ」
その一言に、門番たちは目をすがめたが、クラウスが淡々と続ける。
「仮面の梟に通してくれ。事情は彼に伝えてある」
しばらくの沈黙ののち、門扉がゆっくりと開いた。
その先に広がるのは、霧の切れ目に浮かぶ異なる世界——王政の手の届かない領域だった。
* * * * * *
踏み入れた隠れ里は、思った以上に整っていた。
簡素だが実用的な建物、中央の共有広場、見張り台の上では弓兵が視線を巡らせている。
ハルカは足元を確かめるように、ゆっくりと一歩ずつ進んだ。
スフレが先導するように、彼女の前を小さく駆ける。
(……ここが、私の避難先)
胸の奥に、まだ不安が渦巻いている。
それでも——
(前に囚われた場所とは、違う。あのときの地下牢じゃない。
でも……あの場所も、魔導技術は、すごかった)
思い出すのは、どこまでも静寂に包まれた“沈黙の空間”。
——〈沈黙の帳〉。
魔力すら外に漏らさない、かつて王宮の極秘牢で使われたとされる禁術級の結界。
その結界を、ノアは——突破した。
(スフレが、結界の“隙間”を感じ取って、ノアが……)
視線を横に向けると、ノアが立ち止まって、じっと建物の外壁を見つめていた。
淡く埋め込まれた術式痕。空気の微細な揺れ。
「……やっぱり、ここにも使われてるか。〈沈黙の帳〉……しかも、改良型だ」
低く、独り言のようにノアがつぶやく。
その声は淡々としていたが、奥底にわずかな緊張が混じっていた。
「波長の切断処理が、旧王宮の設計に近い。まさか、ここでまた見るとはね……」
ふと、足元のスフレが立ち止まり、耳を伏せた。
しっぽの動きがぴたりと止まり、空気の匂いを探るように鼻をひくつかせる。
「……覚えてるのか、スフレ」
ノアは小さく笑みを浮かべ、しゃがんでその頭を優しく撫でた。
「君がいなければ、あのとき彼女にたどり着けなかった。……また君の鼻に助けられたな」
スフレが、くぅんと鼻を鳴らした。
ノアのその声には、あの地下牢での、極限の静けさの中で感じた“救えた”という確かな記憶がにじんでいた。
そして今、同じ空気がここにもある——
けれど、ハルカの足取りは、あのときとは違う。
今度は、逃げるためじゃない。
自分の意思で踏み込むための、一歩だった。
* * * * * *
案内されたのは、里の中心部にある石造りの建物の一室だった。
薄い灰色の石壁と、重厚な木製の扉。中に入ると、暖炉の暖かさと、墨のような微かな香りが鼻をかすめた。
クラウスが軽くノックし、扉を押し開ける。
部屋の奥には、一人の男がいた。
黒いフードに身を包み、顔には革と金属で形作られた梟の仮面。
目元を覆う造形は精緻で無機質、その奥に潜む表情は読み取れない。
ゲームで何度も目にした、革命軍の象徴——仮面の梟。
男はゆっくりと椅子から立ち上がり、仮面越しに視線をノアへ向ける。
「……まさか、こんな短期間でまた顔を合わせることになるとはな」
低く、抑えた声。だが言葉の端々には皮肉が滲む。
「王立魔導研究所の主任にしては、ずいぶんとフットワークが軽いじゃないか。
……もしかして、王政よりこっちの生活の方が肌に合ったりする?」
仮面の奥から放たれる言葉は飄々としていながら、どこか探るような鋭さを孕んでいた。
冗談のような口調に乗せて、本音の刃を見せている。
ノアは応じない。ただまっすぐ、彼を見据える。
そして、ふいに——ハルカの背を軽く押した。
彼女が一歩、前に出る。
「この子を——頼みたい」
その声は、静かで澄んでいた。
けれどその中にあったのは、いつもの理性的な調子でも、皮肉でもない。
「魔導障壁も破られた。王都の保護も、監視も、もう限界だ。
……僕は、王に仕えている立場だ。だからこそ、ここでは無力になる。
でも……どうしても、この子だけは……生き延びさせたいんだ」
銀灰色の瞳には、はっきりとした願いが宿っていた。
仮面の梟は、ほんの数秒だけ言葉を失ったように沈黙し——やがて、ふっと吹き出す。
「……お前、そんな顔もできるのか」
その声音は冗談のように聞こえた。
けれど、どこか本気で驚いているようでもあった。
「へえ。いつも冷めてて、何考えてんのか分かんねえお前がさ。
そんな必死な顔して、他人を“生かしたい”なんて言うんだな」
ノアはそれに、何も言わなかった。ただ、しっかりと頷いた。
仮面の梟は頭をかきながら、肩をすくめる。
「わかったよ。いいよ、預かろう。
……でもその代わり、こっちのルールには従ってもらう。彼女も、君もな」
一瞬、ノアの眉が動いた。
だが彼はすぐに、短く「ありがとう」とだけ返す。
その声は少しかすれていた。
けれど、どこか——肩の力が抜けたような安堵もにじんでいた。
ハルカは、その背中を見つめながら、静かに息を吸った。
(この人は、今、自分の持っているすべてを……私のために差し出してくれた)
(それなのに、私はまだ——)
心の奥で、何かが小さく鳴った。
それは、彼に守られてばかりではいられない、という予感だった。




