第53話 第二の襲撃
「矢尻に刻まれていたのは、王妃の紋章で間違いない」
クラウス=ラインバーグは、無造作に眼鏡を押し上げながら淡々と言った。王都特例調査庁の調査員。
飄々とした物腰のくせに、その言葉には奇妙な重さがあった。
「つまり、これは王妃一派による犯行と見ていいだろう」
私の背筋が凍る。スフレが助けてくれなければ、私は……。
ノアの表情が、ひどく険しくなっていた。
「研究所内の魔導装置にも、外部からの微弱干渉の痕跡が検出された」
クラウスは、何気ない調子で資料をめくりながら続ける。
「けっこう入り組んだ術式だった。普通の侵入者じゃ、まず無理だね」
ノアは黙ったまま拳を握り締めていた。
この場所は安全だと思っていた。
でも今、ノアの中に芽生えていた。
——狙われているのは、ハルカ。君だ。
* * * * * *
夜。簡素な部屋に、本来ひとつだけのベッドに加えて、もう一組の簡易ベッドが持ち込まれていた。
「……なぜ、私の部屋にノアがいるのか。もう一度、説明してくれない?」
私が言うと、ノアは少しだけ目を伏せてから答えた。
「君の護衛だよ。正確には“観察対象の安全確保”。それとも、同じ部屋が嫌だった?」
「嫌とかじゃないけど……」
ベッドと簡易ベッドは、近すぎず遠すぎず、視線を交わせば届く距離。
どちらがベッドを使うかで、しばし譲り合いがあった末、私が簡易ベッドを使うことで収まった。
それでも——寝返り一つで、シーツの擦れる音がやけに耳に残る。
「……隣、気になるなら、やっぱり別室に」
「大丈夫。……ノアがそばにいてくれるなら、安心だから」
小さな声でそう答えると、ノアはほんのわずかに眉を下げた。
ベッドと簡易ベッドの距離は、手を伸ばせば触れ合いそうなほど。
室内の明かりが落とされると、静寂が深くなる。
しん、とした空気の中。寝返りを打つたびに、シーツの擦れる音がやけに大きく聞こえた。
ふと、視線を感じてそっと顔を向ける。
闇に溶け込むようにして、ノアもこちらを見ていた。
「……眠れないの?」
「……君こそ」
そう答えて、ふっと苦笑が漏れた。
言葉は交わさなくても、気配が伝わる。呼吸の音、静かにまばたく音すら感じられる距離。
そのままどちらからともなく、互いに目を閉じる。けれど、眠気はなかなか訪れなかった。
この一夜が、永遠に続けばいいのに——そんな考えが、不意に心をかすめた。
* * * * * *
しんと静まり返った夜。
灯りも落ちた室内に、ノアの低く囁く声が落ちる。
「……もし、このまま、二人でどこか遠くへ逃げようって言ったら——君は、どうする?」
私は半分まどろみの中にいた。
けれど、その言葉だけは、確かに耳に届いた。
胸の奥が、かすかに揺れる。
(逃げる……?ノアと二人で……?)
目を閉じたまま、私は答えを探していた。
——そのころ、窓の外。
黒い影が、音もなく忍び寄る。
スフレがふいに耳を立てた。
「……きゃぅ」
低く、警戒するように唸る。
それは、確かな“異変”の気配だった。
* * * * * *
朝の光が、厚手のカーテン越しにぼんやりと差し込んでいた。
目を覚ました私は、ゆっくりと身を起こす。簡易ベッドの上、まだ少し身体に緊張が残っている。
隣を見やると——ベッドは空だった。
(……ノア?)
室内を見回すと、ノアは机に向かっていた。報告書らしき紙を手にしていたが、目はそこにはなかった。
ただ、静かに、私のほうを見ていた。
「おはよう。……ずっと起きてたの?」
そう尋ねると、彼は苦笑したように眉を下げる。
「……ああ。君が眠るまで、ちゃんと見届けたかったから」
冗談めかしていたけれど、その声には、どこか張り詰めたものがあった。
* * * * * *
その次の日——。
夜が更けても、ノアは椅子に座ったまま、じっと扉を見つめていた。
目は閉じず、微動だにせず。ただ静かに、警戒を続けている。
スフレが足元に寄り添い、小さく鼻を鳴らすと、彼はそっとその頭を撫でた。
ひどく優しい仕草だったが、その手には、かすかに震えが宿っていた。
「……寝ないの?」
そう尋ねたハルカに、ノアは短く首を振る。
「君のことを、守りたいだけだよ」
その言葉に、ハルカの胸がちくりと痛んだ。
(こんなふうに見つめ続けて、瞳の色が、少しずつ翳っていくのに——気づかないはずがない)
* * * * * *
昼は研究所での勤務、夜は仮宿舎での監視。
丸一日、ノアは休むことなく行動し続けていた。
その肩は目に見えて沈み、背筋にはかすかな揺らぎ。
だが、眠る気配は一向にない。
「少しでも横になったら? ねえ、お願い……」
ハルカの声には、心からの不安と願いがにじんでいた。
けれどノアは、かすかに笑って、また首を振った。
「眠っているあいだに何かあったら、僕は……きっと、自分を許せなくなる」
その声に宿るのは、ただの心配ではない。
未来に起こるかもしれない後悔を、先に抱えてしまったような——焦燥と、恐怖。
* * * * * *
その夜、ハルカはいつもより早く自室に戻った。
ノアに限界に近づいている。
彼は同じ場所で、同じ姿勢を貫いていた。
椅子に腰かけたまま、何度もまばたきを繰り返す。
意識が遠のきかけるたび、肩が小さく跳ねる。
限界を感じたハルカは、とうとう彼の前に立ち、必死に訴えた。
「お願い、少しでいいから横になって……!」
「もう、こんなの限界だよ。……ノアが壊れていくのを、見ていられない……っ」
彼女の声は震えていた。
けれどノアは、かすかに微笑むと、ゆっくりと指先をかざした。
「……ごめんね。君には、ちゃんと眠ってほしいから」
その瞬間、術式が静かに発動する。
魔力の気配もなく、穏やかに、やさしく、眠りを誘うような波動。
「……っ、ま、待って、やめて、そんなの……っ」
抗おうとしたが、まぶたがどうしても重たくなる。
床に力が入らず、ふらりと身体が傾いた瞬間——
ノアがそっと抱きとめてくれた。胸に頬が触れたとき、彼の鼓動が驚くほど速くて、涙がにじんだ。
「……ごめん、ハルカ。……大丈夫だから」
彼の囁きは、もう霞んで聞こえなかった。
──その直後だった。
扉が小さくノックされ、ほんの隙間から顔を覗かせたのはクラウスだった。
「……もう、五日だぞ」
低く、真剣な声だった。
「魔導式の自動警戒網を敷いてるとはいえ、人の目が一番確実なのはわかる。……だが、お前が倒れたら終わりだ」
「……大丈夫だよ」
ノアは短く答えたが、その声には張りがなかった。
クラウスはしばらく沈黙したのち、そっと扉を閉じた。
その目には、深い憂いがにじんでいた。
ノアはそのまま、視線を扉からハルカへと戻す。
彼女は静かに眠っていた。術式の影響で深く穏やかな呼吸を続けている。
(……無事でよかった)
ノアは椅子に深く腰を沈め、背もたれに体重を預けた。
思考はゆっくりと鈍り、視界もほんのわずかに滲んでくる。
沈黙が部屋を包む。
時計の針の音がやけに大きく響き、灯りの魔導石が淡く脈動する。
そのまま、どれほどの時間が過ぎただろう。
数分だったか、数十分だったか——もはや感覚は曖昧だった。
ノアは、もう一度だけ扉を確認するように視線を送り、そして……ゆっくりと、目を閉じた。
(……大丈夫。……今日も、何も起こらない)
そう思った——その一瞬。
ほんの数十秒、ノアの瞼が閉じる。
……その隙を待っていたかのように、風もないのに窓辺のカーテンが揺れた。
スフレが低く唸る。
そして、ハルカのベッドの影に、もうひとつの影が忍び寄っていた。
* * * * * *
スフレの低い唸り声に、ノアの目がぱちりと開かれた。
刹那、肌を刺すような“異物感”が空気を満たす。
——結界の内側に、何かが入り込んでいる。
「……っ!」
反射的に右手を掲げ、術式を発動しようとした。
だが、魔力の流れが鈍い。
頭ではわかっているのに、連日の疲労が指先を支配しない。
(間に合わない……!)
ノアは即座に術式を放棄し、床を蹴った。
椅子を倒して飛び出し、ハルカのベッドへ。
その身体を覆い隠すように、自らの身を投げ出す。
黒い影が突っ込んできたのは、ちょうどその瞬間だった。
襲撃者の腕が、ノアの背をかすめ、布が裂ける音がした。
「ぐっ……!」
だが彼は、歯を食いしばってそのままハルカを抱きしめる。
ハルカを守ること。それだけを考えて。
「スフレ!」
鋭い声に反応して、スフレが襲撃者へ飛びかかる。
影の手首に食らいつき、フードがめくれる——
金糸混じりの髪が、月光を反射してきらめいた。
襲撃者は即座にスフレを振り払い、窓枠へ跳び退く。
ノアは体勢を戻し、もう一度術式を詠唱しようとする——
だが、間に合わない。
影は結界の歪みから、まるで闇そのもののように姿を消した。
「……逃げられた……っ」
息を切らせながら、ノアはハルカの肩を抱き寄せる。
「……ハルカ、大丈夫か……?」
しばらく返事はなかった。
けれど、やがて微かにまぶたが震え、彼女の唇がかすかに動く。
「……ノア……?」
その声は細く掠れていたが、ゆっくりと意識が戻ってきているのがわかる。
「……よかった。もう……大丈夫だ」
ノアは安堵の息をつき、そっと額を彼女の髪に預けた。
スフレも無事。
ノアは結界を確認し、歯を食いしばった。
「……破られてた。しかも、結界の構造ごと、精密に——」
詠唱妨害ではない。設計そのものが切り取られていた。
ノアは手を握り締め、目を伏せた。
「僕が……僕が、目を閉じたから……」
スフレが足元で鼻を鳴らし、寄り添う。
ノアはその小さな頭に手を伸ばし、ふっと笑った。
「……ありがとう。君がいなかったら、本当に……」
そして、ゆっくりと顔を上げる。
銀灰色の瞳が、鋭く光る。
「明らかだった。今のは、君だけを狙っていた。
連れ去るでも、観察でもない。あれは……殺しに来てた」
その言葉に、ハルカが息を呑む。
——命を狙われた。
それはもう、偶然なんて甘いものじゃない。
ノアは、ぐっと息を吸い込んだ。
「でも……君が無事で……良かった」
ほっとしたように微笑む。
——その笑みが、あまりにも安堵に満ちていて。
だから、次の瞬間、彼が崩れ落ちたことに——誰も、すぐには気づけなかった。
「ノアっ!?」
ハルカが声を上げる。
ノアは、背中の傷から血をにじませたまま、ぐったりと彼女にもたれかかっていた。
「……あ……はは……ごめん……ちょっと……休ませて……」
そう呟いた声には、疲労と痛みが滲んでいた。
目を閉じる直前——ノアの口元には、どこか無防備な、優しい笑みが残っていた。




