第49話 沈黙の帳
目覚めた時、私は見知らぬ部屋の簡素な寝台に横たわっていた。
(……ここ、どこ?)
記憶があいまいだ。けれど、頬に触れる布のざらつきや、額に滲む汗の重みが、現実だと告げていた。
たしか、あの夜……レオニスに捕まって——。
そのまま、どこかに連れていかれて……。
(ここが……革命軍の拠点?)
体が熱い。喉が渇く。だるさで、指一本動かすのも億劫だった。
その時、扉が静かに開いた。
足音は静かだったが、床板がわずかに軋む。
そして、見慣れない姿が視界に入る。
黒いフードと、金属の仮面——梟を象った異様な装具が顔を覆っていた。
(……仮面の梟)
あれほど整った顔を見た後では、なおさら異質に映る。
その仮面越しに放たれた声は、低く、冷ややかだった。
「……起きているか」
(レオニス。……やっぱり、そうだよね)
あの時、素顔を見た。名乗られた。
彼が誰であるかは、知っている。
でも今、こうして“仮面をつけた彼”を見ると——
まるで別人のように感じてしまうのは、どうしてだろう。
(この人には、顔を見せるときと、隠すときがある)
(レオン、レオニス、仮面の梟。全部同じ人のはずなのに……)
静かに息を呑んだ。
「……」
何も言えずに見つめる私に、彼はため息をつきながら木盆を差し出した。
「熱を出していた。少し冷ましたから、食えるはずだ」
盆の上には、質素な粥と水の器。スプーンもある。
「……ありがとう……ございます」
掠れた声でそう言うと、レオニスはちらと目を細めた。
「革命軍にも病人は出る。対応には慣れている。それだけだ」
その言葉のわりには、器を置く手はやけに丁寧だった。
* * * * * *
一方その頃、王立魔導研究所——
「……不可能です。《沈黙の帳》が張られている可能性が——」
報告を受けたノア=アルフェリアの表情が凍りつく。
掌中の魔導端末は、沈黙したまま、何も示さなかった。
(……まさか。革命軍の手に落ちていたとは)
旧王宮の術式技術——かつて封印された“遮蔽式魔術結界、《沈黙の帳》”。それが、ハルカの魔力反応を完全に覆い隠していた。
「……くそっ」
ノアが机を叩いた。普段なら考えられない、感情的な動き。
ハルカが消えたと知った瞬間から、胸の奥にこみ上げてくるこの苛立ち——焦り——恐怖。
(君は、どこにいるんだ。……早く、見つけないと)
主任研究員の仮面を脱ぎ捨て、ノアは初めて“個人”として、誰かを追い始めていた。
彼の指は、微かに震えていた。
「……ここにいても埒が明かない」
その言葉とともに、ノアが扉に手をかけた、その時——
「ワンッ!」
勢いよく、足元に飛び出してきた白い影が、彼の進路を塞いだ。
「……君は……」
スフレ——ハルカが連れてきた子犬。その体は細かく震え、瞳がノアをじっと見つめている。
「……どけ。僕は急いで——」
吠える。さらに、扉の方向へ視線を向け、尻尾をぴんと立てたまま動かない。
ノアの視線が鋭くなる。
「……まさか。君、ハルカの魔力に——“共鳴”しているのか?」
感知術も、探知装置も沈黙している今、唯一反応しているのは——この小さな命だった。
ノアは一度目を伏せると、静かに呟いた。
「……悪くない“導き”だ」
そして、スフレを抱き上げると、再び扉を開けた。
「案内してくれ。……君の大切な“飼い主”を、迎えに行こう」
白い毛並みが、夕焼けの空に照らされて、柔らかく光っていた。
* * * * * *
私は、ぬるくなった粥をゆっくりと口に運ぶ。
味は、ほとんどしない。けれど、喉を通る温もりが、ほんの少しだけ心を落ち着かせた。
(ここが……革命軍の、拠点)
レオニスはすでに部屋を出て行った。
思いのほか長く滞在せず、無言で背を向けて出ていったその背中が、なぜか記憶に残っている。
——今は、逃げようにも、逃げられない。
食べ終えた器を見つめていると、再び扉が開いた。
「……やっと、起きたのね」
現れたのは、小柄な少女だった。
少しウェーブのかかった赤髪を揺らし、緑の瞳でこちらを鋭く射抜く。
ただの監視要員ではない——直感でそう思った。
その姿には、訓練を積んだ者特有の、隙のなさがあった。
「立てそう? 起き上がれるなら、顔ぐらい洗ってきなさい。あんた、ひどい顔よ」
いきなりの物言いに、私は目を瞬かせた。
(誰、この人……)
「何よその顔。名乗るほどのもんでもないけど、そうね、私はエレナ。ここで、ちょっとは力になってるつもりの者よ」
言いながら、彼女は腰に手を当ててこちらを見下ろす。
「仮面の梟に“預かりものがある”って言われて、顔くらい見に来てやったの。
……べつに、心配してたわけじゃないけど?」
強気な口調の裏に、どこか人懐こいものが混じっている気がして、私は小さく微笑んでしまう。
「……ありがとう」
たった一言で、彼女の眉がぴくりと動いた。
「へえ。……ま、礼ぐらいは言えるのね。意外と育ちがいいのかしら」
皮肉か、それとも素直な感想か、判別はつかなかった。
「……で、アンタ」
エレナは一歩、私の寝台に近づく。
「“どこの誰か”ってのは、仮面の梟からある程度聞いてるけど、私はあんたの口からも聞いておきたいの。
どういう経緯で、ここに来たのか。何ができて、何を知ってるのか。……そして、何が“目的”なのか」
その瞳は、ただの敵意ではなく、確かな確認のためのものだった。
まるで、私自身の“選択”を試すような。
私は、浅く息を吸い込んだ。
「……わかりました。話します」
そう答えた私に、エレナは小さく口角を上げた。
「いい返事ね。さ、ゆっくりでいいから話しなさい。……今なら、ちゃんと聞いてあげるから」
そうして、彼女は傍らの椅子に腰を下ろした。
* * * * * *
一方その頃——。
石畳の続く裏路地を、風を切るように駆け抜ける影があった。
ノアはフードを深く被り、スフレを片腕に抱えたまま、迷いなく路地を選び進んでいく。
「……こっちか」
小さなスフレの身体がぴくりと震え、短く吠える。その鼻先が、今度は左へと向く。
「わかった。君の嗅覚、信じるよ。ハルカの魔力と“共鳴”しているんだな……」
ノアはつぶやきながら、懐から手帳のような小型端末を取り出す。
そこには、通常の探知術では検出不能とされた一帯——魔術結界によって覆われた区域の座標が示されていた。
「やはり……“沈黙の帳”か。これほど精度の高い遮蔽結界が張られているとは」
まるで、何も存在しない空白のような領域。
だがその“無”の中心に、確かに魔力の“揺れ”がある。
「……仮面の梟、君の仕業か。いや——もっと技術的な支援者がいるな」
彼は歯を食いしばり、足を止めた。
目前には、無人の倉庫のような建物。
スフレが、ぴたりとその前で動きを止めた。低く唸り、ノアを振り返る。
「ここか……」
ノアは深く息を吐くと、手をかざし、結界の構造を読むための解析式を展開する。
「くそっ……解析不能。王家由来の鍵付き術式——“閉ざされた記憶”か」
額に汗が滲む。
彼のような研究者でさえ、手出しが難しいとされる、旧王宮技術の系譜。
だが、彼の隣には、今確かに“鍵”があった。
ノアはスフレを見た。
「……君は、ハルカの魔力に触れ、なおかつ“彼女の存在”を受け入れた存在だ。
つまり、君の魔力は、あの中にある結界と“同調”できるはず——」
静かに扉へ近づき、そっとスフレを地面に降ろす。
「行って。ハルカのところへ。……扉を開けてくれ」
スフレは一瞬ノアを見上げた後、くるりと向きを変え、扉の前に座った。
そして、短く「ワン」と吠えた瞬間——
結界が、波紋のように揺れた。
ノアの目が見開かれる。
「まさか、こんな方法で開くとはね……!」
風が、微かに吹いた。
そして、結界の扉が、音もなく開かれていった。
その奥には、夕焼けの光が差し込む、静かな通路が続いている。
ノアはスフレを抱き上げ、決意の色を帯びた瞳でその中へと踏み出した。
「もうすぐだ。……もう一度、君に会える」
足音が、静かに廊下へと響いていった。




