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勿怪の幸せ  作者: 小鳥遊 佑鷹


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9/10

第九話

「……身体中が痛い」

朝。

倫太郎は居間の椅子へ座るなり、低い声を漏らした。

腕が痛い。

腰も痛い。

立っていても痛いし、座っていても痛い。

日頃の運動不足は理解していたが、ここまで痛みが来るものなのだろうか。

昨日、畑で散々振り回した鍬の感触まで、まだ手のひらに残っている気がする。

向かいでは、そらが倫太郎の顔をじっと見ていた。

「昨日より酷くなってない?」

「なんかね……」

「若いんじゃなかったの?」

「誰の基準だよ、それ」

そらが少し笑った。

倫太郎は机の上に置いたノートパソコンを開く。

父親が亡くなってから、会社にはいろいろと事情を説明した。

休みが明けたあとも、しばらくは実家から仕事をすることで話はついている。

幸い、持ち帰れる仕事も多かった。

画面を立ち上げる。

エアコンの低い稼働音が、部屋の中に響いていた。

その向こう。

窓一枚隔てた外では、蝉が朝からこれでもかというほど鳴いている。

「こいつら、東京より元気なんじゃないか?」

そらは窓の外を見る。

「夏だから」

「それはそうなんだけどさ」

倫太郎はキーボードへ手を置いた。

カタカタと音が鳴る。

エアコン。

蝉。

キーボード。

それから。

ぱらり。

紙をめくる音。

少し離れた畳の上で、そらが漫画を読んでいた。

倫太郎が昔使っていた部屋から、勝手に持ってきたものだった。

「それ、俺が中学生くらいの時に読んでたやつだぞ」

「そうなの?」

「そう。まだあったんだな」

そらが色褪せた表紙を見る。

「ふーん」

そらはまた漫画へ目を落とした。

ぱらり。

ページをめくる。

倫太郎も画面へ戻る。

しばらく。

部屋の中には、同じような音が続いていた。

蝉。

エアコン。

キーボード。

時折、漫画のページ。

カタカタ。

カタカタ。

「……」

倫太郎の手が止まった。

何かが静かになった気がした。

画面から顔を上げる。

蝉は相変わらずうるさい。

エアコンも動いている。

違う。

倫太郎は畳の方を見る。

「……寝てる」

そらが横になっていた。

読んでいた漫画は手元から少し離れたところに置かれている。

亜麻色の長い髪が畳の上に広がり、その一部が頬にかかっていた。

すぅ。

小さな寝息。

倫太郎はしばらくその姿を見た。

いつもなら。

暇だとか。

おじさんだとか。

変態だとか。

好き勝手言っているのに。

寝ていると、妙に静かだった。

「……」

改めて見る。

整った顔立ち。

長い睫毛。

閉じられた瞼。

白い頬。

――綺麗な顔してるな。

ふと。

そんなことを思った。

「……」

倫太郎は瞬きをする。

自分が思ったことに、自分で気づいた。

「……何考えてるんだ、俺」

小さく呟き、パソコンへ向き直る。

手をキーボードへ戻す。

けれど。

少しして、もう一度だけそらを見て倫太郎は立ち上がった。

押し入れから薄手の夏掛けを取り出す。

そらを起こさないよう、そっと身体にかけた。

「……」

反応はない。

変わらず、小さな寝息を立てている。

倫太郎はそのまま机へ戻った。

「さて、と」

パソコンを見る。

さっきまで読んでいた文章が、何故か頭に入ってこなかった。

「……仕事するか」

誰に言うでもなく呟いた。

日が幾分か傾きかけてきた。

いつの間にか、蝉の声も聞こえなくなっていた。

「りんたろー」

「んー?」

「終わった?」

「あとちょいかな」

倫太郎が画面を操作する。

保存。

閉じる。

「……よし」

大きく手を上げ背伸びをした。

「終わったの?」

「今日はな」

「ふーん」

そらは畳の上に座っている。

昼寝から起きたあとも、結局ずっと漫画を読んでいたらしい。

横には三冊ほど積み上がっている。

倫太郎はそれを見る。

「結構読んだな」

「暇だったから」

「便利な言葉だな、それ」

そらの横には、昼間倫太郎が掛けた夏掛けが畳まれていた。

「これ、りんたろー?」

「あぁ」

それだけ。

そらはまた漫画へ視線を戻した。

「……それだけ?」

「ありがとう?」

「疑問形で言うな」

そらが小さく笑う。

倫太郎はため息をついた。

「ちょっと町行ってくるかな」

「何しに?」

「買い物。あと郵便出したい」

そらが漫画を閉じる。

「私も行く」

「はいはい」

それがあまりにも当然のようだったので。

倫太郎も、もう何も言わなかった。

町へ出る頃には、昼間より少しだけ暑さが和らいでいた。

それでも。

海沿いの道を歩けば、しっとりと汗が滲む。

「自転車じゃないんだ」

「昨日のせいで足まで痛いんだよ」

「昨日頑張ってたね」

「あの爺さんすごいよ」

「りんたろーはおじさんだね」

「それは違う」

「一緒じゃない?」

「違ってくれ」

そらが笑う。

倫太郎はその横を歩いた。

町の中へ入る。

昔に比べれば、閉まっている店は多い。

それでも。

夕飯の買い物をする人。

自転車で走っていく学生。

店先で話をする老人たち。

島なりの時間が流れている。

倫太郎が郵便を出し、買い物へ向かおうとしたところで。

「あれ」

足を止めた。

一軒の店。

古びた看板には、薄くなった文字で写真館の名前が残っている。

子供の頃からあった店だった。

店先には段ボール。

古い額縁。

写真を入れる台紙。

いくつもの物が外へ運び出されている。

その中で、一人の老人がしゃがみ込んで作業をしていた。

「お、倫太郎か?」

老人が顔を上げる。

「あ、カメラのじいちゃん。こんにちは」

「おお。久しぶりだなぁ」

倫太郎は店先を見る。

「何してるんです?」

「んー」

老人は腰を叩きながら立ち上がった。

「ここも、もう畳むことにしてなぁ」

「……そうなんですか」

倫太郎は改めて店を見る。

昔。

入学式のあと。

学校の制服を着て、ここで写真を撮った記憶がある。

「俺も昔ここで撮りましたよね」

「撮った撮った」

老人が笑った。

「お前さん、ちっともじっとしとらんかったぞ」

「そんなでしたか?」

「親父さんに頭無理くり押さえられとったわ」

「……全然覚えてないな」

「そんなもんだ」

老人はまた段ボールへ手を伸ばした。

「まあ、もう客も減ったしなぁ。歳だしな」

「寂しくなりますね」

「そうだが、十分やったさ」

老人は何でもないように笑った。

倫太郎もそれ以上は言わなかった。

「……中、見てもいいです?」

「おう。好きに見てけ。どうせ片付けるだけじゃ」

「すみません、ありがとうございます」

倫太郎が店へ入る。

そらは軽く会釈をして何も言わず、後からついてきた。

店内には。

古いカメラ。

使われなくなった照明。

木製の椅子。

壁には、昔撮られた家族写真や学校写真がいくつも飾られている。

白黒のものまであった。

「すごいね」

そらが写真を眺める。

「昔からある店だからな」

「りんたろーもここで撮ったの?」

「そうみたいだね」

「覚えてないの?」

「朧気だけどね」

棚の上に置かれた古いカメラを見る。

「どっか探したら残ってるかもな」

「見たい」

「なにを?」

「小さいりんたろー」

「ヤダ」

「なんで?」

「なんでも」

そらが不満そうな顔をした。

倫太郎は店の奥へ歩く。

そのとき。

足元に何か落ちていることに気づいた。

「ん?」

古い写真だった。

端が少し黄ばんでいる。

倫太郎はしゃがみ込む。

そして。

「……あれ」

写真のすぐ横。

何かがいた。

小さい。

両手に収まりそうなくらいの大きさ。

ぼんやりとしている。

けれど。

今までよりも。

その輪郭が分かる。

「……そら」

そらもしゃがむ。

同じものを見ている。

「いるね」

「……見える」

倫太郎は目を細めた。

「前より、見える気がする」

小さなそれは、写真の横から離れない。

ただ。

そこにいる。

そらが顔を近づける。

「こんにちは」

「……」

返事はない。

倫太郎は写真を拾い上げようとした。

すると。

小さな勿怪も、その写真の端を持って一緒に付いてきた。

写真には。

若い女性と、小さな男の子が写っていた。

女性は椅子に座り。

その横で、まだ五つか六つくらいの男の子が笑っている。

倫太郎は店の入口へ戻った。

「じいちゃん」

「んー?」

「これって、どうするの?」

老人が写真を見る。

「どれ」

受け取る。

しばらく眺めた。

「あぁ、これか……」

「知ってるんですか?」

「いやぁ」

老人は写真を裏返した。

「これ、まだ残っとったな」

裏側には。

古い字で名字と、日付。

それから地区の名前らしいものが書かれていた。

「受け取りに来なかったんですかね?」

「そうなんじゃろうなぁ」

「覚えてない?」

「何年前だと思っとる」

「そうですよね」

老人は目を細める。

「ただ、この名字なら……」

写真の裏を見る。

「昔、向こうの集落におった家じゃないかのぉ」

「まだいるんです?」

「さあなぁ」

老人が頭を掻いた。

「息子の方なら、まだ島におるかもしれんの」

倫太郎は写真を見る。

男の子。

隣で笑う母親。

その下。

小さな勿怪は、まだ写真の上から見ていた。

そらが静かに聞く。

「この写真、届けたいの?」

小さな勿怪は答えない。

ただ。

ほんの少しだけ、身体が揺れたように見えた。

そらが倫太郎を見る。

「多分」

「……だろうな」

倫太郎もそう思った。

何となく。

分かるようになってきた。

「じいちゃん」

「あん?」

「これ、借りてもいい?」

老人は写真と倫太郎を交互に見る。

「……まぁ、ええだろ」

「いいんです?」

「もう店畳むんじゃ。捨てるよりええ」

「ありがとうございます」

倫太郎は写真を受け取った。

写真館を出る。

少し歩いたところで、そらが聞いた。

「探すの?」

「まあ」

倫太郎は写真を見る。

「ここまで残ってたんだしな」

「うん」

「それに」

倫太郎は写真の端を見る。

小さな勿怪が両手でぶら下がっている。

「……なんか、くっついてるし」

そらも見る。

「そうだね」

「分かりやすいな」

小さな勿怪は、何も言わない。

二人は歩き出した。

写真の裏に書かれていた名字。

地区名。

それを頼りに、何人かへ話を聞いた。

「ああ、その家なら知っとるよ」

「昔、あっちに住んどった家じゃなかったか?」

「息子さんなら、まだ島におるはずだぞ」

小さな島だった。

名字一つ。

昔住んでいた場所一つ。

それだけでも。

辿っていけば、誰かが誰かを知っている。

倫太郎は苦笑した。

昔。

それが嫌だった。

誰がどこの家の子供で。

誰の息子で。

何をしているのか。

誰かが知っている。

退屈で窮屈で仕方がなかった。

それなのに。

今日は、その繋がりに助けられていた。

「ここかな」

古い一軒家の前で、倫太郎は立ち止まった。

教えられた住所。

表札の名字も合っている。

呼び鈴を押す。

しばらくして。

「はいはい」

中から老人が出てきた。

「どちらさん?」

「突然すみません」

倫太郎は軽く頭を下げる。

「ちょっと、お聞きしたいことがあって」

写真を差し出す。

「この写真、心当たりありませんか?」

「写真?」

老人が受け取る。

「……なんだいこれ?」

眉を寄せた。

しばらく。

何も言わず見ている。

倫太郎も黙って待った。

そらも隣で写真を覗く。

老人の目が。

次第に大きくなった。

「……これ」

指先が。

写真の中の小さな男の子へ触れる。

「俺じゃないか?」

倫太郎は何も言わない。

老人はさらに写真を見る。

今度は。

隣に座る女性。

笑っている。

若い女性。

老人の口が、わずかに開いた。

「……母ちゃん」

声が小さくなる。

何度も。

写真を見る。

「こんな写真……撮っとったんか」

「写真館に残ってたんです」

倫太郎が言う。

「今日、店を片付けてて」

「そうか……」

老人は写真から目を離さなかった。

「母ちゃん、ずいぶん前に死んじまってな」

指先で。

写真の端をそっと撫でる。

「顔は覚えとるつもりだったんだが」

老人が少し笑った。

「……こんな顔で笑っとったんだな」

そらが。

何も言わず老人を見ていた。

倫太郎も。

その横で。

ふと。

小さな勿怪を見る。

さっきまで。

写真から離れなかったそれが。

老人の足元にいた。

以前より。

少しだけ。

はっきりと見える。

どんな顔をしているのかまでは分からない。

けれど。

何故か。

笑っているような気がした。

やがて。

輪郭が薄くなる。

少しずつ。

光に溶けるように。

消えていく。

倫太郎は目を細めた。

「……消えた」

そらが頷いた。

老人が顔を上げる。

「ん?」

「いえ、なんでもないです」

倫太郎は笑った。

「その写真、持っててください」

「いいのか?」

「元々、あなたの写真ですから」

老人はもう一度。

写真へ目を落とした。

「……そうか、ありがとう」

「俺はただ持ってきただけですよ」

それから少し話をして。

二人は家をあとにした。

夕方の道。

少し伸びた二人の影が、ゆっくりと並んでいる。

そらが言った。

「写真って、残るんだね」

倫太郎は前を向いたまま歩く。

「まあな」

「本人が忘れてても」

「忘れてたっていうより」

倫太郎は少し考える。

「思い出すきっかけがなかっただけかもな」

そらが倫太郎を見る。

「きっかけ?」

「写真見たら、ちゃんと思い出しただろ」

「……うん」

「覚えてないように思っててもさ」

倫太郎は海の方を見る。

淡い緑色の海に夕日の赤が重なり、水面を金色の光が揺れていた。

「何かあれば、急に戻ってくることもあるんじゃない?」

そらは答えなかった。

少しだけ。

歩く速度が遅くなった気がした。

倫太郎も立ち止まらない。

「……そうなのかな」

しばらくして。

そらが呟いた。

「そうなんじゃない?」

倫太郎はそう返した。

それ以上。

二人とも何も言わなかった。

夜。

潮見家。

倫太郎は押し入れの奥から、一冊のアルバムを引っ張り出していた。

「やっぱりあった……」

手で払う。

居間のテーブルへ置き、開いた。

昔の写真。

小学生の自分。

まだ若い父親。

母親。

運動会。

海。

どこかへ出かけたときのもの。

覚えている写真もあれば。

全く覚えていないものもある。

ページをめくる。

そして。

手が止まった。

一枚の写真。

若い宗一郎。

母親。

真ん中に、小さな自分。

三人とも。

カメラの方を見ている。

倫太郎には。

その日がいつだったのか。

どこへ行ったのか。

何を話したのか。

何一つ思い出せなかった。

けれど。

写真の中には。

確かに三人がいた。

「……」

倫太郎はしばらく見つめた。

それから。

静かにアルバムを閉じた。

「りんたろー」

居間の向こうから声がする。

「ん?」

そらが顔を出した。

「お腹すいた」

「……また?」

「またってなに」

「昼も結構食ってただろ」

「もう夜だよ」

時計を見る。

「……ほんとだ」

思っていたより時間が経っていた。

倫太郎は立ち上がる。

「何食べたい?」

「なんでもいいよ」

「それ一番困るやつ」

「じゃあ、昨日のトマト」

「それだけじゃ飯にならないだろ」

そらが笑う。

倫太郎は台所へ向かう。

その後ろを。

そらが当たり前のようについてきた。

エアコンの低い音が夜の潮見家に響いていた。

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