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勿怪の幸せ  作者: 小鳥遊 佑鷹


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第十話

「……まだまだあるな」

倫太郎は台所の戸棚を開けたまま、息を吐いた。

父親が一人で暮らしていた家だ。

それほど物は多くないと思っていたが、いざ片付け始めると、奥から次々に物が出てくる。

古い鍋。

使いかけの調味料。

何年も使っていそうな保存容器。

賞味期限の切れた乾物。

「これ、捨てる?」

背後から声がする。

振り返ると、そらが小さな鍋を持っていた。

「それは使う」

「これは?」

今度は蓋のない保存容器。

「……それはいらないかな」

そらは床に置かれた箱へ入れた。

倫太郎は再び戸棚へ向き直る。

奥へ手を伸ばす。

「よいしょ……」

少し重いものを引っ張り出した。

「……ん?」

大きめのすり鉢だった。

隣には、すりこぎもある。

倫太郎は手に取る。

「ずいぶんと新しいな」

他の調理器具に比べて、明らかに使用感が少ない。

表面にもほとんど傷がない。

「親父、こんなの持ってたっけ」

昔から家にあったものではない。

少なくとも倫太郎には覚えがなかった。

その近くには、昆布や薄口醤油、塩。

どれも特別な高級品ではない。

ただ。

普段の父親が買っていたものより、ほんの少しだけ良さそうなものだった。

「……珍しいな」

「なにが?」

そらが横から覗く。

「いや。親父、こういう道具とか調味料とかを気にする人じゃなかったから」

「そうなの?」

「安けりゃ正直何でもいい、みたいな人だったよ」

倫太郎はすり鉢をもう一度眺めた。

買った理由までは分からない。

「まあ、いいか」

脇へ置いた。

それ以上は考えなく作業を進めた。

昼を少し過ぎた頃。

片付けにも飽きてきた倫太郎は立ち上がる。

「そろそろ買い物行くか」

「なに買うの?」

「夕飯」

「なに食べる?」

「それを今から決めるんだよ」

そらも立ち上がった。

二人で町へ向かう。

夏の日差しはまだ強かった。

けれど、吹く風にはほんの少しだけ涼しさが混じり始めている。

買い物袋を片手に歩きながら、倫太郎は夕飯を考えていた。

野菜はある。

あの爺さんからもらったものがまだ大量に残っている。

あとは肉か魚でも買えば十分だろう。

そんなことを考えていると。

そらが足を止めた。

「……」

「ん?」

倫太郎も止まる。

そらは一軒の店を見ていた。

魚屋。

氷の上にはアジやイカ、小さな鯛が並んでいる。

「魚食べたい?」

「別に」

「ずっと見てるよ?」

「なに?」

「食べたい時、最初に絶対『別に』って言うだろ」

「言ってない」

「スイカの時も言ってたよ」

そらは返事をしない。

視線だけは魚から離れなかった。

倫太郎は笑った。

「まあ、今日は魚にするか」

店へ入る。

「こんにちは」

奥にいた女性が顔を上げた。

「あら」

少し目を細める。

「倫太郎くん?」

「はい。お久しぶりです」

「帰ってきてたんだねぇ」

「まあ、色々ありまして」

女性の表情が少しだけ曇る。

「そうだったわね、ごめんなさい……お父さん、大変だったわね」

「いえ、ありがとうございます」

倫太郎は軽く頭を下げた。

「それで、今日は何にする?」

「何かおすすめあります?」

「今日はアジがいいよ」

倫太郎が隣を見る。

少し離れたところで、そらが魚を眺めている。

「じゃあ、四匹ください」

「はいよ」

女性が魚を取り上げる。

「捌いとく?」

「お願いします」

包丁の音が響く。

倫太郎は店先に並んだ魚をぼんやり眺めた。

ジャッ、ジャッ。

トン。

しばらくして。

女性が何気なく口を開いた。

「そういえば宗一郎さんも、前にアジをよく買ってたわね」

「親父が?」

「奥さんが好きだったものを作るって」

倫太郎の視線が止まった。

女性は手を動かしたまま続ける。

「息子も帰ってくるからって、いいの選んでったよ」

「……」

包丁の音だけが。

妙にはっきりと聞こえた。

「……えっと、俺が?」

「他に誰がおるんよ」

女性が笑う。

けれど。

倫太郎は笑えなかった。

何かが。

頭の奥で。

ゆっくりと開いた。

――数年前。

東京で。

仕事に失敗した。

それなりに大きな仕事だった。

任されて。

自分ならできると思っていた。

けれど。

駄目だった。

何度も頭を下げた。

上司にも。

取引先にも。

後輩にも迷惑をかけた。

家へ帰っても。

そのことばかり考えていた。

眠れない夜が続いた。

会社へ行くのが怖い、嫌だ、行きたくない。

そんなことを本気で思った。

そんな時だった。

何年もまともに帰っていなかった故郷へ。

倫太郎は帰った。

理由は。

自分でもよく分からなかった。

……正直全部から逃げたかっただけなのかもしれない。

最終便で港へ着く。

久しぶりの島。

潮の匂い。

変わらない家。

玄関を開ける。

親父がいた。

『……どうした、急に』

『いや、休み取れたから』

『……そうか』

それだけだった。

宗一郎は。

仕事で何があったのか聞かなかった。

東京で上手くいっているのかとも聞かなかった。

倫太郎も話さなかった。

翌朝は、

宗一郎は普通に朝起きて。

普通に出かけて。

普通に飯を作った。

『飯できたぞ』

『うん』

それだけ。

一緒にテレビを見ても。

ほとんど話さない。

倫太郎は昼まで寝て。

ぼんやり一人で海を見に行った。

宗一郎は何も言わなかった。

東京では。

自分の失敗を知らない人間はいないような気がしていた。

けれど。

この家では。

何も変わらなかった。

倫太郎は。

ただ。

息子だった。

ただ、この島にどれくらいいたのかは、あんまり覚えていない。

東京へ戻る日。

宗一郎の車で港まで送ってもらった。

車内でも。

大した会話はなかった。

『忘れ物ないか』

『多分』

『多分じゃ困るだろ』

『大丈夫だって』

『……そうか』

それだけ。

港へ着く。

倫太郎が荷物を下ろす。

宗一郎も車から降りた。

『じゃあ』

倫太郎が言う。

宗一郎が。

何かを差し出した。

『ほら』

『なにこれ』

『弁当』

『いや、それは見れば分かるよ』

宗一郎が眉をひそめる。

『船で食え』

『そんな長く乗らないよ』

『どうせ腹減るだろ、食え』

『……はいはい』

倫太郎は弁当を受け取った。

その時。

宗一郎が。

思い出したように言った。

『あぁ、そうだ』

『ん?』

『再来年、母さんの法事だからな』

『再来年?』

『その時ぐらい、また帰ってこい』

倫太郎は。

少しだけ父親を見る。

『……分かったよ』

宗一郎は黙っていた。

倫太郎は続けた。

『今度はちゃんと帰るよ』

『……そうだな』

それだけだった。

倫太郎は船に乗った。

窓の外。

宗一郎が小さくなっていく。

船が港を離れてから。

倫太郎は弁当を開けた。

卵焼き。

鮭。

煮物。

相変わらず。

綺麗とは言えない。

高校時代と。

何も変わっていなかった。

『なんだよ、これ』

昔の自分の声が。

ふと頭に浮かんだ。

倫太郎は。

少し笑った。

一口食べる。

「……前より、うまい」

小さく。

呟いた。

東京へ戻った。

翌日。

会社へ行った。

すぐに何かが変わったわけではない。

失敗した事実も消えない。

怖くなくなったわけでもない。

ただ。

もう少しだけ。

やってみようと思った。

そこからは我武者羅だった気がする。

倫太郎は仕事をした。

失敗を取り返そうとした。

任されたものを断らなかった。

残業した。

出張した。

後輩ができた。

任される仕事が増えた。

また。

仕事をした。

気づけば。

故郷のことを。

考えなくなっていた。

「はい、お待たせ」

声に。

倫太郎は我に返った。

魚屋。

目の前。

袋に入ったアジ。

「……あ」

慌てて受け取る。

「ありがとうございます」

「どうしたのよ?ぼーっとして」

「いや……」

倫太郎は袋を見る。

「ちょっと、思い出しただけです」

「そう?」

女性はそれ以上聞かなかった。

倫太郎は頭を下げる。

店を出た。

そらが隣へ並ぶ。

「りんたろー」

「ん?」

「どうしたの?」

「……なんでもない」

「ふーん」

倫太郎は前を向いた。

「少しだけ思い出した」

「昔?」

「あぁ」

それ以上。

話せなかった。

――再来年。

母さんの法事。

――その時ぐらい、また帰ってこい。

――今度はちゃんと帰るよ。

倫太郎は。

帰らなかった。

法事の日がいつだったのか。

今なら分かる。

もう。

とっくに過ぎている。

父親から。

連絡はなかった。

『約束しただろ』

とも。

『なんで帰ってこない』

とも。

何も。

倫太郎も。

電話をしなかった。

忘れようとしたわけではない。

嫌だったわけでもない。

ただ。

毎日仕事をして。

気づけば。

忘れていた。

「……なんで」

小さく漏れた。

「え?」

「いや」

倫太郎は首を振った。

なんで。

こんな大事なことを。

忘れていたんだ。

家へ戻る。

買ってきたものを台所へ置く。

そらが窓の外を見た。

「りんたろー」

「ん?」

「私、海見てくるね」

倫太郎はそらを見る。

「今から?」

「うん」

少し前なら。

一人で大丈夫か。

とか、そんなことを聞いたかもしれない。

けれど。

「……そっか」

倫太郎は買ってきた魚を見る。

「飯できるぐらいには帰ってこいよ」

「はーい」

そらが玄関へ向かう。

「行ってきます」

「ん」

扉が閉まる。

潮見家が。

静かになった。

倫太郎はしばらく。

台所に立っていた。

それから。

朝見つけたすり鉢を手に取る。

洗う。

すりこぎも。

水で流す。

買ってきたアジを取り出した。

スマートフォンで。

すり身の作り方を調べる。

母親がどうやって作っていたのか。

覚えていない。

父親が。

あの日。

どうやって作ったのか。

知らない。

倫太郎は包丁を持った。

魚を細かくする。

すり鉢へ入れる。

すりこぎを握る。

ゴリ。

ゴリ。

魚の身を擦る。

『再来年、母さんの法事だからな』

ゴリ。

『その時ぐらい、また帰ってこい』

ゴリ。

ゴリ。

『……分かったよ』

倫太郎の手が。

少しだけ止まった。

「……」

また。

動かす。

『今度はちゃんと帰るよ』

ゴリ。

ゴリ。

「……」

あの時の会話が思い出してくる。

魚の身が。

少しずつ滑らかになっていく。

塩を加える。

生姜。

少し。

鍋に水を張る。

昆布を入れる。

朝見つけた。

少し良いもの。

火をつける。

湯気が上がり始める。

倫太郎は。

その鍋を見つめた。

父親は。

これを買った。

すり鉢も。

調味料も。

魚も。

自分が帰ってくると思って。

『息子も帰ってくるから』

魚屋の女性の言葉が。

頭の中に残る。

それから……

『あのバカ息子は東京行ったっきりで母親の墓参りにもろくに来んわ』

あの老人も。

『そう言いながら、嬉しそうに話しとったわい』

倫太郎は。

鍋へ視線を落とした。

「……俺、本当にバカ息子だな」

乾いた笑いが。

少しだけ出た。

すり身を丸める。

鍋へ落とす。

ぽちゃん。

ぽちゃん。

丸く。

浮かんでくる。

薄口醤油。

塩。

少しずつ。

味を整える。

匂いが。

台所に広がった。

倫太郎は。

目を閉じた。

懐かしい。

ような気がした。

でも、なにかが違う気がする。

「……」

小皿に汁を取る。

少し冷ます。

口へ運んだ。

飲む。

「……」

美味い。

出汁も。

魚も。

悪くない。

むしろ。

初めて作ったにしては。

上手くできていると思う。

でも。

違った。

倫太郎は。

もう一口。

飲んだ。

「……違う」

母親が作っていたものとは。

違う。

もっと。

何かが。

決定的に違った。

じゃあ。

どんな味だった?

倫太郎は。

思い出そうとした。

母親が台所に立っている。

小さな自分。

宗一郎。

三人。

湯気。

器。

そこまでは。

ぼんやり浮かぶ。

でも。

味が。

出てこない。

「……こんなんじゃ」

声が。

少し震えた。

もう一口。

「……なかったよ」

分からない。

覚えていない。

宗一郎が。

法事の日に作った味も。

知らない。

帰らなかったから。

「……」

倫太郎は。

小皿を置いた。

目の奥が。

熱くなった。

「なんで……」

視界が。

滲む。

「なんで、忘れてんだよ……」

一滴。

落ちた。

倫太郎は。

目元を拭った。

けれど。

「俺、帰るって……」

声が。

上手く出なかった。

「帰るって言ったのに……」

息を吸う。

喉が詰まる。

「俺……」

涙が。

止まらなくなった。

「しんどい時だけ帰って……」

声が震える。

「親父には……何も言わなかったのに」

それでも。

宗一郎は何も聞かなかった。

飯を作って。

帰りには。

弁当を持たせた。

倫太郎は。

東京へ戻った。

少しだけ。

前を向けた。

なのに。

「立ち直ったら……全然帰んなくなって……」

倫太郎は。

顔を覆った。

「……ごめん」

誰もいない台所。

鍋の中で。

静かに湯気が上がっている。

「ごめんよ……親父、母さん」

肩が震える。

「本当に、ろくに帰ってこなくて……」

涙を拭っても。

また出た。

「……ごめん」

どれくらい。

そうしていたのか。

分からない。

やがて。

少しずつ呼吸が落ち着いた。

倫太郎は。

濡れた顔を洗った。

鏡を見る。

目が赤い。

「……ふぅ」

小さく笑う。

台所へ戻る。

吸い物を。

小さな器へよそう。

仏間へ持っていく。

母親の遺影。

そして。

まだ新しい。

父親の遺影。

二人の前に。

器を置いた。

倫太郎は座る。

手を合わせた。

「……母さん」

一度。

息を吐く。

「味、全然覚えてなかったよ」

少しだけ。

口元が歪む。

「……ごめん」

それから。

父親を見る。

「親父も……ごめん」

目の奥が。

また少しだけ熱くなる。

けれど。

今度は。

涙を拭わなかった。

「俺、今度はちゃんと帰るって言ったのにな」

静かな仏間。

返事はない。

「……ほんと、ごめん」

頭を下げた。

しばらく。

そのままでいた。

やがて。

玄関が開いた。

「ただいまー」

そらの声。

倫太郎は。

ゆっくり顔を上げた。

「……おかえり」

足音が近づいてくる。

そらが居間から顔を出した。

髪が乱れている。

「なんか、いい匂い」

「魚の吸い物」

「できたの?」

「あぁ」

そらが倫太郎を見る。

少し。

首を傾げた。

「りんたろー」

「ん?」

「目、赤くない?」

倫太郎は。

一瞬だけ黙った。

「……別に」

「ふーん」

そらは。

しばらく倫太郎を見る。

けれど。

それ以上は何も聞かなかった。

「早く食べる」

「はいよ」

二人で食卓へ座る。

倫太郎が器を置く。

そらは。

すり身を一つ箸で持ち上げた。

口へ運ぶ。

「……」

「どう?」

そらは。

もう一口。

汁を飲んだ。

「おいしい」

倫太郎は。

少しだけ目を細めた。

「そうか」

「うん」

倫太郎も。

もう一度。

飲む。

やっぱり。

母親の味とは違う。

多分。

宗一郎が作った味とも。

違う。

けれど。

さっきより。

少しだけ。

美味しく感じた。

そらが聞く。

「これ、なんて料理?」

倫太郎は。

少し考える。

「……さあ」

「知らないの?」

「母さんが作ってたやつだよ」

「そうなの?」

「うん」

倫太郎は。

仏間の方を見る。

そらはよく分からないという顔をした。

「ふーん」

そして。

また食べる。

「私はこれ好きだよ」

倫太郎は。

少しだけ笑った。

「そうか、ありがとう」

「また作ってね」

「気が向いたらな」

外では。

夕暮れのヒグラシが鳴いていた。

仏間には。

二人分の遺影。

その前には。

湯気の消えかけた。

一杯の吸い物が置かれていた。

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