第八話
「宗一郎やー!」
家の外から、やたらとよく通る声が響いた。
倫太郎はノートパソコンから顔を上げた。
「……誰だ?」
向かいでは、そらが頬杖をついてパソコンを眺めていた。
そらも窓の方を見る。
「宗一郎ー!おるかー!」
もう一度。
間違いなく、この家を呼んでいた。
倫太郎は立ち上がった。
「ちょっと見てくる」
「うん」
玄関を開ける。
家の前には一台の軽トラックが停まっていた。
荷台には段ボールや籠。
そこからトマト、ナス、キュウリ。
夏野菜が山ほど顔を出している。
その隣に、日に焼けた老人が立っていた。
古びた帽子。
首にはタオル。
腰は少し曲がっているが、声だけ聞けば倫太郎より元気そうだった。
老人は玄関から出てきた倫太郎を見て、眉を寄せる。
「なんじゃ、お主は」
「……潮見倫太郎です」
「潮見?」
「宗一郎の息子です」
老人は倫太郎の顔をしばらく眺めた。
「あぁ」
ようやく何か思い出したらしい。
「息子がおるっちゅう話は聞いとったが、お主がそうだったか」
「はい」
「宗一郎はおらんのか?」
倫太郎は一瞬黙った。
「……父は、先日亡くなりました」
老人の表情が止まった。
「……なんじゃと」
さっきまでの大声が消える。
「少し前に。急だったんです」
老人はしばらく倫太郎を見ていた。
やがて帽子を取る。
「……あいつ、亡くなっとったんか」
「はい」
「知らなんだ」
老人は頭を下げた。
「すまんかったなぁ」
「いえ」
「そうかぁ……」
老人は軽トラックの荷台を見る。
「言われとった野菜、持ってきたんじゃがなぁ」
倫太郎もそちらを見る。
宗一郎は、この野菜を受け取るつもりだった。
少なくとも。
これを頼んだときには。
今日も。
明日も。
当たり前に続いていくつもりだったのだろう。
「……ありがとうございます。いただきます」
「おう。俺一人じゃ食えねぇけ、持ってけ持ってけ」
老人がそう言ったところで。
「誰?」
背後から声がした。
そらが玄関から顔を出している。
「ああ?」
老人は普通にそらを見る。
「なんじゃ、もう一人おったんか」
そして軽トラックの荷台へ手を伸ばした。
真っ赤なトマトを一つ掴む。
「ほれ。食うか?」
そらがトマトを見る。
「え、はい」
「おう。食え食え」
「ありがとうございます」
そらは慌てて両手で受け取った。
倫太郎は横からそれを見る。
「冷やしたら美味しそう」
「もう食べる気満々じゃん」
老人がカッカッカと笑った。
「若ぇもんはしっかり食うくらいがええ」
「若いって言っても、俺は三十五ですよ」
「十分若いわ」
「そうかなぁ……」
老人は何かを思い出したように手を打った。
「あぁ、そうじゃ」
「はい?」
「宗一郎に畑手伝ってもらう約束もしとったんじゃ」
「親父が?」
「おう。ちょっと人手が足りんでな」
老人は少しだけ黙る。
「まあ、しゃーない」
「……そうですね」
倫太郎も頷く。
そのまま話が終わると思った。
老人は倫太郎を見る。
上から。
下まで。
「白いが、なかなかいい身体してるの」
「……はい?」
「若ぇし」
嫌な予感がした。
「いや、だから俺三十五――」
「よし」
老人は軽トラックを指差した。
「それじゃ、今から行くべ」
「え!?」
「ほれ、乗れ」
「なんで!?」
「宗一郎の代わりじゃ」
「そんな代役あります!?」
「ちと臭うが宗一郎の分で着替えも用意しとったから」
「いや、大丈夫ですよ!」
そらが横から言った。
「行くの?」
「行かないよ!」
老人がそらを見る。
「お、一緒に来るか?」
「行く」
「お前はなんで即答なんだよ!」
「暇だから」
「またそれか!」
老人は満足そうに頷いた。
「よし。じゃあ、いくぞ」
「決定なんですか!?」
倫太郎の予定など最初から聞く気がないらしい。
数分後。
倫太郎とそらは軽トラックの荷台にいた。
「……なんで俺、荷台なんだよ」
そらは隣で楽しそうに景色を見ている。
「風、気持ちいいよ」
「そういう問題じゃない」
運転席の窓が開く。
「お主らじゃ狭いからなー!」
眼鏡をかけた老人の声。
倫太郎は前を見る。
「じゃあ俺が助手席でもよかったでしょうが!」
「売る野菜乗っとるわ!」
「俺より野菜!?」
「潰れたら困るじゃろ!」
「俺は潰れていいの!?」
そらが笑った。
「なんか楽しいね」
「どこが!?」
家並みを抜けると、軽トラックは畑へ続く細い農道へ入った。
この先は、畑へ向かう車くらいしか通らない。
少し揺れる、いや、かなり揺れる。
「うおっ」
倫太郎が荷台の縁を掴んだ。
そらが横を見る。
「怖いの?」
「怖くねえよ」
「今、声出てた」
「揺れただけ!」
前からまた声。
「落ちんなよー!」
「落ちないように運転してください!」
「カッカッカ!」
「このじじい、聞こえてんのかよ!」
そらはずっと笑っていた。
着いた畑は、想像していたより広かった。
夏の日差しの下。
畝がいくつも並び、その奥には小さな作業小屋。
老人は軽トラックから降りる。
倫太郎も荷台から下りた。
「……腰痛え」
「まだ何もしてないよ」
「荷台がもう疲れるんだって」
老人が倉庫へ向かい、一本の鍬を持って戻ってきた。
それを倫太郎へ差し出す。
「ほれ」
倫太郎は受け取らない。
「……なんですか、これ」
「鍬」
「それは知ってます」
「それじゃ使えるな」
「そういう理屈!?」
老人は畑の一角を指差した。
「そこ、すまんが、適当に起こしておいてくれ」
「今から?」
「だから来たんじゃろ」
「連れてこられたんですよ!」
老人はもう倫太郎を見ていない。
そらの方を向く。
「さてさて、」
「はい」
「お主はこっちじゃ」
籠を渡す。
「ナスとトマトでも採ってくるか?」
「分かりました」
「なんでお前はそんな素直なんだよ!」
そらが倫太郎を見る。
「野菜採るだけでしょ?」
「俺は土を耕すんだぞ!」
「頑張って」
「他人事か!」
老人が笑う。
「若ぇんだ、よう働け」
「あぁ、はい、もうそれでいいですよ……」
鍬を振る。
土を起こす。
もう一度。
「……っ」
また振る。
「くっ……」
まだ大して時間は経っていない。
なのに暑い。
腕が重い。
腰が痛い。
汗が止まらない。
「ぜぇ……ぜぇ……」
顔を上げる。
少し離れたところで、そらがナスとトマトを籠に入れていた。
涼しい顔をしている。
「……そら」
「なに?」
「代わって」
「え、嫌」
「早い!」
「私、こっち頼まれたし」
「絶対そっちの方が楽だろ!」
老人は倫太郎の横で淡々と作業している。
「お主は、案外体力ないのぉ」
「……これは普通にキツいですって」
「若ぇのに」
「若くない!」
「いんや、まだまだ若いねぇ」
「基準が七十代だからでしょ」
老人はカッカッカと笑った。
倫太郎は鍬に身体を預ける。
「ちょっと休憩……」
「まだ早い」
「鬼だ……」
「なんじゃ、何か言ったか?」
「何も言ってません……」
また鍬を振る。
しばらくして。
老人が何気なく口を開いた。
「宗一郎もなぁ」
倫太郎の手が少しだけ止まる。
「……はい?」
老人は土をいじりながら続ける。
「お主の話さ、しとったなぁ」
倫太郎は老人を見る。
「俺の?」
「あぁ、そうだったな」
老人は笑う。
「『あのバカ息子は東京行ったっきりで母親の墓参りにもろくに来んわ』とか言っとったわ」
「……悪口じゃないですか」
「カッカッカ!」
笑い声が畑に響く。
「そう言いながら、嬉しそうに話しとったわい」
倫太郎は何も言わなかった。
父親が。
自分のいないところで。
自分の話をしていた。
そんなこと。
考えたこともなかった。
「……そうですか」
「おう」
老人はそれ以上言わなかった。
倫太郎も聞かなかった。
掘った土が崩れた。
「ほれ。手ぇ止まっとるぞ」
「……今、ちょっといい話してたでしょ」
「話しながらでも動けるじゃろ」
「余韻とかないんですか」
「そんなもんで畑は耕せんて」
「パワー系すぎる……」
老人はまた笑った。
昼過ぎ。
ようやく休憩になった。
倫太郎は木陰に座り込み、水を一気に飲む。
「あーーー!……生き返る」
そらが隣に座る。
老人にもらったトマトを食べていた。
「すごく美味しい」
「よかったな……」
「りんたろー食べる?」
「今はいい……」
「そう」
「俺、顎動かす体力もない」
「大袈裟」
「お前はナスとトマト採ってただけだから言えるんだよ……」
そらは気にせずトマトを齧った。
倫太郎もぼんやりと畑を見る。
そのとき。
「……ん?」
畑の端。
古い木箱の近く。
何かがいる。
小さい。
ぼんやりとした影。
目を細める。
以前より。
なんとなく。
輪郭が分かる気がする。
倫太郎は身体を起こした。
「……そら」
「ん?」
「あそこ」
そらも同じ方を見る。
「うん」
やっぱりいる。
倫太郎は少し嬉しくなった。
今回は。
そらに教えられる前に、自分で見つけた。
そのとき。
老人が言った。
「なんじゃ」
倫太郎とそらが振り返る。
老人も畑の端を見ていた。
目を細める。
「そこにもおったんか」
倫太郎は老人を見る。
「……あれ見えるんですか?」
「あぁ?」
老人はさらに目を細めた。
「まあ、うっすらぼやーっとな」
「え?」
「昔は、もうちっと見えたんだがなぁ」
倫太郎は畑の端を見る。
そして老人。
「あれ……いったい何なんです?」
老人は少し考える。
「ああいうのか」
「はい」
「勿怪じゃ」
「……もっけ?」
「おう」
老人は何でもないことのように言った。
「そう、勿怪」
倫太郎は聞き慣れない言葉を繰り返す。
「何なんですか、それ」
「何っちゅうてもなぁ」
老人は首に巻いたタオルで汗を拭いた。
「なにも、そーんな恐ろしい奴じゃない」
畑を見渡す。
「どこーにでもおるんだよ」
「どこにでも?」
「お前さんらが気ぃつかんだけじゃ」
倫太郎は畑の端の影を見る。
「爺さんは、ずっと見えてたんですか?」
「昔はもっとなぁ」
老人が笑う。
「今じゃ、何もかんもぼやけちまって」
目頭を人差し指と親指で何度も揉んでいる。
「もう、眼鏡かけんと新聞も飯も見えなくなっちまったわ」
「カッカッカ!」
「笑って誤魔化してるだけでしょ」
老人は楽しそうに笑った。
「まあ、運転の時は困っけど、別に見えんでも困らんよ」
「そういうもんですか?」
「おるもんは、おるでええ」
それだけ。
老人にとっては、本当にその程度のことらしい。
倫太郎はもう一度、畑の隅を見る。
小さな勿怪は。
何をするでもなく。
そこにいた。
「……もっけ」
そらが呟く。
老人が立ち上がる。
「さて」
倫太郎が顔を上げた。
「何です?」
「さぁ、休憩終わりじゃ」
「え!?」
「続きやるぞ」
「まだ全然分かってないんですけど」
「儂も分からんもんは分からんて」
老人はもう畑へ戻っている。
「それじゃあ、儂と一緒に来てもらおうかな」
「はーい」
そらも立ち上がる。
「そらまで普通に戻るな!」
「休憩終わりだって」
「いや、そうだけどさ」
倫太郎は畑の端をもう一度見る。
勿怪。
その名前だけが。
妙に頭に残った。
夕方。
ようやく農作業が終わった。
倫太郎は軽トラックの荷台にもたれかかる。
「……もう無理」
「お疲れさま」
「お前、元気だな……」
「ナスとトマトいっぱい採ったよ」
「知ってるよ……」
老人が作業小屋から野菜を抱えてきた。
籠いっぱいのトマト。
ナス。
キュウリ。
それを軽トラックの助手席へ積み込む。
倫太郎はぼんやり眺めた。
「それ、全部どうするんです?」
「少しお前さんとこ持ってく」
「え?」
「働いた分じゃ」
「さっきも貰いましたよ?」
「お主じゃなく宗一郎の分もある」
倫太郎は少し黙った。
「……ありがとうございます」
「ええ、ええ」
老人はドアを閉め眼鏡をかけた。
「ほれ、乗れ」
倫太郎が助手席を見る。
野菜で埋まっている。
「……また後ろ?」
「売る野菜潰れるじゃろ」
「やっぱり俺より野菜なんですね」
「お主は多少潰れても、つばでも付けとりゃ戻るだろ」
「戻らないですよ!」
そらはもう荷台へ乗っていた。
「りんたろー、早く」
「なんでそんな慣れてんの?」
「楽しいから」
「俺もうさ、身体中痛いんだけど……」
倫太郎も荷台へ上がる。
軽トラックが夕方の道を走る。
行きより少し涼しい。
どこかでヒグラシが鳴いているのだろうか。
昼間の熱気が残った畑。
遠くに見える海。
島の家々。
風が頬を撫でていく。
倫太郎は荷台に座り、ぼんやり景色を眺めていた。
そらが隣で言う。
「あれ、勿怪っていうんだね」
「……そう、みたいだな」
今まで。
風鈴のそばにいたもの。
ゲーム屋にいたもの。
海で会った、面倒くさいやつ。
ずっと。
何なのかも分からなかった。
「どこにでもいる、か」
倫太郎が呟く。
「そう言ってたね」
「俺、今まで見たことなかったんだけどな」
「最近はなんか見えてるね」
「……なんとなくな」
そらは流れていく景色を見る。
倫太郎もそれ以上は何も言わなかった。
ただ。
以前なら見えなかったものが。
少しずつ見えるようになっている。
理由は分からない。
けれど。
島へ戻ってから。
自分の知らなかったものばかりが目の前に現れる。
勿怪も。
父親のことも。
軽トラックが潮見家の前に停まる。
「さて、着いたぞー」
二人は荷台から降りた。
「……あぁ、身体痛ぇ」
「まだ今日だよ」
「明日もっと痛いってこと?」
「……多分」
「聞きたくなかったな……」
老人が助手席を開ける。
野菜の入った籠を取り出した。
「……ほれ」
倫太郎は受け取る。
ずしりと重い。
「多いな……」
「若えんだ、食え食え」
「二人じゃ食べきれないですよ」
「それじゃ、近所に配りゃええ」
「……そうします」
老人は運転席へ戻りかけた。
そして振り返る。
「また手ぇ足りん時は、来るからな」
倫太郎は即答した。
「もう勘弁してください」
「若ぇんだから」
「関係ないっす」
「まだそんなこと言うとるわ」
老人が笑う。
「じゃあな」
「今日はありがとうございました」
「おう」
軽トラックが走り出す。
老人は窓から手を振った。
そらと倫太郎も軽く手を上げる。
車が見えなくなるまで見送った。
隣でそらが野菜の籠を覗く。
「今日、何作る?」
「もう飯の話?」
「お腹すいた」
「お前は元気だなぁ……」
倫太郎はため息をつく。
それから。
昼間の老人の言葉を思い出した。
――『あのバカ息子は東京行ったっきりで母親の墓参りにもろくに来んわ』
倫太郎は目を伏せ俯いた。
「……バカ息子って」
「なに?」
「なんでもない」
籠を抱え直す。
父親がどんな暮らしをしていたのか。
誰と話し。
何を頼み。
どんな顔で自分の話をしていたのか。
自分は、何も知らなかった。
それでも。
父親がいなくなったあとになって。
知らなかったものが。
ひとつずつ。
倫太郎の前に姿を現し始めていた。
倫太郎は母親の前に今日取れたきゅうりとナスを精霊馬にして手を合わせた。
盆は少し過ぎてしまったが、母親ならきっと許してくれるだろう。
遺影の母親の表情がいつもより優しく見えた気がした。




