第七話
そらが潮見家に来てから、何日かが経った。
朝。
倫太郎が洗面所へ入る。
コップの中には、二本の歯ブラシ。
自分のものと、緑色のもの。
もう、それを見ても足を止めることはなくなっていた。
顔を洗い、髭を剃り、居間へ向かう。
「おはよ」
「おはよう」
縁側には、そらが座っていた。
片手には麦茶の入ったコップ。
いつの間に場所を覚えたのか、最近は自分で冷蔵庫を開けて勝手に飲んでいる。
「朝飯、食べるか?」
「食べる」
「じゃあ、ちょっと待ってて」
「うん」
倫太郎はそのまま台所へ向かった。
以前なら、今日こそ帰ってもらうだとか、家はどこなんだとか、そんなことを考えていたはずだった。
いつから聞かなくなったかも自分でもよく分からない。
ただ。
そらが縁側に座っている光景は、何となく絵になっていいなと思ってしまった。
朝食を終えたあと。
倫太郎は家の奥にある物置の前で、大きく息を吐いた。
「……さて」
戸を開ける。
段ボール。
古い工具。
使わなくなった家電。
いつのものか分からない紙袋。
何に使うのか分からない木の板まで立てかけてある。
「うわぁ……」
「汚いね」
後ろから覗き込んだそらが言った。
「人のモノを見て一発目がそれ?」
「でも、汚いよ」
「まあ……否定できないけどさ」
父親が亡くなってから、少しずつ家の整理はしていた。
とはいえ、生活に必要な場所を片付ける程度で、本格的に手をつけたわけではない。
この家には、宗一郎が残したものがまだ山ほどあった。
いつまでもそのままにしておくわけにもいかない。
倫太郎は段ボールを二つ用意した。
一つには、残すもの。
もう一つには、捨てるもの。
「よし。やるか」
「私もやる」
「手伝ってくれるの?」
「暇だから」
「……そっすか」
最近、その理由をよく聞く気がする。
二人で物置の中身を引っ張り出していく。
「これは?」
そらが古い雑誌を持ち上げる。
「捨てる」
段ボールへ。
「これは?」
古びたタオル。
「捨てる」
段ボールへ。
「これは?」
どこかの店の名前が入った湯飲み。
「捨て……」
倫太郎は止まった。
「……待って」
そらも手を止める。
「いるの?」
「いや……」
湯飲みを見る。
別に思い入れがあるわけではない。
高価そうにも見えない。
ただ、昔から食器棚にあった気がする。
「……一応、そっち」
残す方を指差す。
そらは湯飲みをそちらへ入れた。
「全然片付かないね」
「今の一個だけだろ」
「さっきも同じことしてたよ」
「……そうだっけ?」
「うん」
「よく見てんな」
「暇だから」
「はいはい」
倫太郎は次の荷物へ手を伸ばした。
物置はある程度片付いていたが、まだまだ終わる気配がしない。
倫太郎は少しその物量を見て溜息が出た。
何気なく物置の奥を見ると、細長い袋があった。
「……ん?」
埃を払い、ファスナーを開ける。
中から出てきたのは一本の釣り竿だった。
「これ……まだあったんだ」
「なに?」
そらが隣から覗き込む。
「釣り竿」
「お父さん、釣りしてたの?」
「たまにな」
「ふーん」
倫太郎は竿を手に取った。
持ち手の部分は少し色褪せている。
けれど、思っていたより状態は悪くない。
昔。
たしか父親に連れられて海へ行った記憶がなんとなくある。
まだ小学生上がりたてぐらいだっただろうか。
釣れないとすぐに飽きて、石を投げたり、蟹を追いかけたりしていた。
宗一郎はそんな倫太郎を横目に、黙って海へ糸を垂らしていた。
……そんなこともあったっけな。
倫太郎は竿を軽く振ってみる。
「まだ使えるかな」
「使うの?」
「うーん」
そらを見る。
「釣り、したことある?」
「ない」
「海好きなのに?」
そらが少し眉を寄せる。
「海が好きなのと、釣りは別でしょ」
「まあ、そうだけど」
倫太郎はもう一度竿を見る。
そして物置の大量にまだある荷物を見る。
今日は天気もいい。
風もそれほど強くない。
遺品整理を始めたのに放り出すのもどうかと思ったが。
少し面倒になったところだし、気分転換に出よう。
「……行ってみる?」
「どこに?」
「釣り」
そらは少しだけ目を丸くした。
それから。
「行く」
返事は早かった。
昼過ぎ。
二人は海沿いの道を自転車で坂を下りていた。
倫太郎の肩には釣り竿。
曲がったカゴの中には、小さな道具箱。
家の物置を探したところ、仕掛けやら浮きやら、釣りに必要そうなものも一通り残っていた。
「親父、ちゃんと取ってたんだ」
「物持ちいいんだね」
「捨てられなかっただけかもよ」
「りんたろーと同じ?」
「……否定できないな」
海が見えてきた。
適当なところに自転車を止めて砂浜まで歩いて行った。
日差しを受け、青い水面がきらきらと揺れていた。
そらは少し前を歩いている。
いつもより足取りが軽い気がした。
「そんなに海好きなの?」
倫太郎が聞く。
そらは振り返らずに答える。
「うん」
「毎日見てるよね」
「それでも好き」
やっぱり自分にはよく分からない。
岩場から少し離れた、足場のいい場所を選ぶ。
倫太郎は釣り竿を伸ばし、慣れない手つきで準備を始めた。
「……あれ?」
糸が絡む。
「どうしたの?」
「いや、ちょっと待って」
「だいぶ絡まってるね」
「見れば分かるよ」
結局、倫太郎がなんとか解いた。
「よし」
「やっとなんだねー」
「久しぶりなんだから仕方ないだろ」
「でも、まだ始まってもないよ」
「うるさいな」
ようやく準備を終え、倫太郎は竿を振った。
仕掛けが海へ落ちる。
ぽちゃん。
「……それで?」
そらが聞く。
「待つ」
「それだけ?」
「それだけ」
そらは倫太郎の隣に腰を下ろした。
「やらないの?」
「見てる」
「何が面白いんだよ」
「分かんない」
「分かんないのかよ」
波が岩に当たる。
ざぁ。
ざぁ。
遠くで海鳥が鳴いていた。
しばらく待つ。
何も起きない。
さらに待つ。
「……まだ?」
「釣りってそういうもんなんだって」
「暇だね」
「お前がそれ言う?」
また待つ。
そのとき。
竿先がわずかに揺れた。
「……ん?」
倫太郎が身体を起こす。
もう一度。
ピクッ。
「来た!」
竿を立てる。
「うおっ……!」
糸を巻く。
海面から、小さな魚が飛び出した。
倫太郎の手のひらより少し大きい程度。
「……」
そらが魚を見る。
倫太郎も見る。
「……ちっさ」
「釣れたね」
「もうちょっと喜べよ」
「うわー、りんたろーすごいねー」
「顔が全然喜んでないんだよ」
倫太郎は魚を針から外した。
食べるほどでもない。
そのまま海へ返す。
小さな魚は勢いよく水の中へ消えていった。
「次はもっと大きいの釣るからな」
「ふーん、頑張ってねー」
妙に棒読みだった。
「もう飽きたんだろ」
そらが少し笑った。
再び糸を垂らす。
しばらくした頃。
そらが海とは違う方向へ顔を向けた。
「……あ」
「どうした?」
返事がない。
この反応。
倫太郎にも、なんとなく分かるようになっていた。
「……いる?」
そらが倫太郎を見る。
「うん」
「やっぱり」
「分かるの?」
「なんとなく、そんな顔してるから」
そらは倫太郎の少し横。
岩の上を見ている。
倫太郎には何も見えない。
「どんなやつ?」
「……なんか丸い?」
「丸い?」
「うん」
「それだけ?」
「丸い」
「説明下手だなぁ」
そらは何もない場所へ耳を傾ける。
「魚、釣ってほしいんだって」
「魚?」
「うん」
倫太郎はさっき釣った海を見る。
「今釣ったじゃん」
そらが何かを見る。
少し間。
「違うって」
「何が?」
「違う魚」
「魚に指定あんの?」
そらはまた耳を傾ける。
「もっと大きいの」
倫太郎は眉をひそめた。
「……注文多くない?」
返事はない。
見えないはずなのに、なんとなく偉そうな顔をしている気がした。
倫太郎は再び竿を握った。
「よし」
「やるの?」
「……ここまで言われたら釣ってやろうじゃん」
「意地っ張りなんだね」
「うるさい」
待つ。
釣れない。
待つ。
やっと来た。
巻く。
さっきより少し大きい。
「よし!どうだ!」
そらを見る。
そらは丸い何かを見る。
そして倫太郎へ視線を戻した。
「違うって」
「はぁ!?」
魚を逃がす。
もう一度。
今度は小さい。
「これは?」
「違う」
「だよな!」
また。
何も釣れない。
しばらくして。
「……もう一回聞いてみて」
「何を?」
「どんな魚がいいのか」
そらが聞く。
少し待つ。
「大きいの」
「それは聞いた!」
さらに聞く。
「なんか、美味しいやつ?」
「知らねえよ!」
そらが口元を押さえた。
「お前、笑ってるだろ」
「笑ってない」
「絶対笑ってる」
「頑張って」
「他人事だなぁ!」
倫太郎は再び海へ仕掛けを投げた。
どれくらい経っただろう。
日差しは少し傾き始めていた。
倫太郎は完全に意地になっていた。
「今度こそ……」
「りんたろー」
「ちょっと待って、今いい感じだから」
「りんたろー」
「なに」
「多分、違う」
「何が?」
倫太郎がそらを見る。
そらは勿怪のいる場所を見つめていた。
「この子、魚じゃないかも」
「……は?」
倫太郎もそちらを見る。
当然、何も見えない。
「じゃあ何がいいって?」
「りんたろー」
「俺?」
「うん」
「……なんで?」
そらは首を傾げた。
しばらく、何かと話している。
「よく分かってないみたい」
「こいつが?」
「うん」
「自分の願いなのに?」
「そうみたい?」
倫太郎は竿を置いた。
「……めんどくさいなぁ」
そらが少し笑う。
「声出てるよ」
「知らねえよ。見えねえし」
倫太郎は海を見た。
波がゆっくりと寄せては返している。
釣れたかどうか。
魚が大きいか小さいか。
そんなことより。
さっきから、この場所でずっと糸を垂らしている。
そらも隣にいる。
見えない何かも、多分そこにいる。
「……もしかしてさ」
倫太郎は言った。
「魚じゃなくて、釣りしてほしかっただけなんじゃないの?」
そらが勿怪を見る。
返事を待つ。
「……分かんないって」
「まだ分かんないのかよ」
「でも」
そらが海を見る。
「少し嬉しいみたい」
「……そう」
倫太郎は竿へ手を伸ばしかけた。
そして砂浜に立てかけ、その場へ腰を下ろす。
「もう釣らないの?」
「疲れた」
「諦めた?」
「違う。休憩」
そらも隣に座る。
しばらく。
何も話さなかった。
波の音。
風。
潮の匂い。
どこか遠くで船の音が聞こえた。
ただ海を見ている。
倫太郎は横目でそらを見る。
そらは穏やかな顔で水平線を見つめていた。
「……そういや」
「なに?」
「前に言ってたな」
「何を?」
「海見てても飽きないって」
そらは少しだけ黙った。
海を見る。
風が吹き、亜麻色の髪が揺れた。
「……うん」
その声は、どこか遠くを見ているようにも聞こえた。
倫太郎は何も言わなかった。
理由は分からない。
ただ、なんとなく聞いてはいけない気がした。
しばらくして。
そらが隣へ視線を向ける。
「あれ」
「ん?」
「……笑ってる」
倫太郎には見えない。
それでも。
そらのすぐそば。
一瞬だけ。
何かが、そこにいた気がした。
「……今」
目を凝らす。
もう何もない。
「消えた?」
「うん」
「結局、何だったんだよ」
「分かんない」
「なんなんだよ、最後までめんどくさいやつだったな」
そらが笑った。
「でも、なんか嬉しそうだったよ」
「ならまぁ……いいかな」
倫太郎は海へ視線を戻した。
魚は二、三匹ぐらいで、ほとんど釣れなかった。
それなのに。
なぜか、悪い時間ではなかった。
帰る準備をしていると。
少し離れた砂浜を歩いていたそらが足を止めた。
しゃがみ込む。
「……ねぇ、りんたろー」
「ん?」
倫太郎が振り返る。
そらは砂の中から何かを拾い上げた。
「これ」
掌の上。
小さなガラス片。
波に削られ、角が丸くなっている。
淡い緑色。
「それは、シーグラスだな」
「シーグラス?」
「割れたガラスが海で削られて、こんな感じになるんだよ」
「へぇ」
そらは赤く染まった日の光に透かす。
淡い緑色の光が指先に落ちた。
倫太郎はそれを眺める。
「……なんか、そらの目みたいだな」
そらが倫太郎を見る。
「私の?」
「色が」
そらはもう一度、シーグラスを見る。
そして少しだけ笑った。
「そっか」
そのまま歩き出そうとして。
「あ」
もう一度しゃがむ。
砂を指で掻き分ける。
「もう一個みっけ」
似たような大きさ。
同じような、淡い緑色。
そらは二つを掌へ並べた。
しばらく見比べる。
それから一つを倫太郎へ差し出した。
「はい」
「え?」
「これ」
「俺に?」
「んー、二つあるから?」
倫太郎は少し迷ってから、それを受け取った。
まだ日差しの残る空へ透かしてみる。
海の向こうの光が、小さなガラスを通して淡い緑色に揺れた。
「……綺麗だな」
「うん」
「じゃあ、貰っとく」
倫太郎はシーグラスをポケットへ入れた。
そらも、もう一つを大事そうに握っている。
「なくすなよ」
「りんたろーこそ」
「俺は大丈夫だよ」
「どうかな」
そらが微笑んだ。
帰り道。
倫太郎は父親の釣り竿を肩に担いで自転車を漕ぐ。
後ろにはそら。
結局、大した魚は一匹も釣れなかった。
物置の整理も途中のままだ。
「……帰ったら、片付けの続きだからな」
「えー」
「えー、じゃない」
その言葉を口にして。
ペダルを漕ぐ足が、一瞬止まりかけた。
どこかで聞いたような気がした。
けれど。
「どうしたの?」
「……いや」
倫太郎は前を向く。
「なんでもない」
ポケットの中で、小さなシーグラスが揺れた。
二人はそのまま、潮見家へ向かって走っていった。




