第五話
そらは、倫太郎が洗い物をする姿をじっと眺めていた。
「……えっと、そらさん?」
視線に気づいた倫太郎が振り返る。
「なに?」
「いや、さっきからずっと見てるだろ」
「……別に、暇だから」
「そうでしたか」
スポンジで食器を擦り、泡を水で流していく。
倫太郎は皿についた泡を流しながら、さっきのことをふと思い出した。
「そういやさ。さっきのあれ、何だったんだ?」
「分かんない。たまにいるの」
「どこに?」
「神社とか、お店とか。古いところとか」
「じゃあ昨日の神社にもいたの?」
「昨日はいなかったよ」
「じゃあ何してたんだよ」
「……別に行きたいから行っただけ」
「そういえば、そうだったな」
倫太郎は蛇口を止めた。
「……で、そらは今日どうする?」
「帰らない」
「それも困っちゃうんだよなぁ」
「……じゃあ、明日までここにいてもいい?」
倫太郎はしばらくそらを見る。
昨日出会ったばかりの少女。
住所も言わない。
家にも帰りたがらない。
本来なら、この状況そのものが十分おかしい。
「……はぁ、明日までだからな」
「うん」
「ほんとかよ」
そらは何も答えなかった。
倫太郎はため息をつく。
「じゃあ、今度こそ買い物行くか」
「買い物?」
「昨日、途中で戻ってきただろ。食料も欲しいし、それに……」
そらを見る。
昨日から借り物の服。
歯ブラシすらない。
「さすがに何もないままってわけにもいかないだろ」
「……そうね」
「準備して。また自転車出すから」
「うん」
再び、古い自転車が海沿いの道を走っていた。
昨日と同じように、荷台にはそらが座っている。
「ちゃんと乗ってるな?」
「乗ってる」
「よし」
ペダルを踏み込む。
やっぱり軽かった。
潮風に吹かれながら、そらは海の方を眺めている。
「海、好きなの?」
倫太郎が前を向いたまま尋ねた。
「うん」
「へぇ」
「海が好きなのに、名前はそらなんだよね。海って名前がよかったのに」
「そうだね」
そらは再び海へ顔を向けた。
「毎日見てたら、そのうち飽きるよ」
「……多分私は飽きないよ」
「そういうもんかね」
倫太郎には、昔からありすぎて分からない感覚だった。
やがて町へ入り、一軒のスーパーの前で自転車を止めた。
食料品だけでなく、日用品や衣類まで一通り揃う、島では比較的大きな店だった。
「必要なもんあったら言って」
「必要なもの?」
「とりあえず歯ブラシだろ。あと食料とか……まあ、その辺」
二人で店内を歩く。
倫太郎は食料を籠へ放り込みながら、そらに歯ブラシを選ばせた。
そらは棚に並んだ色違いの歯ブラシをしばらく眺める。
「そんな悩む?」
「どれでもいいの?」
「好きなの選べばいいよ」
「じゃあ、これ」
手に取ったのは緑色の歯ブラシだった。
「緑好きなの?」
「なんとなく」
「そうですか」
籠へ入れる。
それから着替えや細々とした日用品を選んでいく。
途中、倫太郎はふと足を止めた。
「……あ」
「なに?」
「いや……」
少し言いづらい。
だが必要なものは必要だ。
「下着も、いるよな」
「そうね」
「……じゃあ、自分で選んでくれ。俺あっちいるから」
そらは不思議そうな顔をする。
「どうして?」
「どうしてって……いいから」
「変なの」
「男一人で女性物の下着選んでる方が変だろ」
倫太郎はそそくさと売り場から離れた。
しばらくして戻ってきたそらは、何事もなかったようにいくつか商品を籠へ入れる。
倫太郎は中身を見ないようにした。
果物売り場へ差しかかったところで、そらの足が止まった。
大きなスイカが並んでいる。
「……」
倫太郎も止まる。
「食べたい?」
「……別に」
「いや、めちゃくちゃ見てるけど」
「見てない」
「じゃあ行くか」
「…………」
「……食べる?」
「……うん」
倫太郎は小ぶりなスイカを一玉持ち上げ、籠へ入れた。
そらの視線が嬉しそうに見えた。
必要なものを一通り揃え、二人はレジへ並んだ。
「……あら」
レジにいた女性が倫太郎を見て目を丸くした。
「倫太郎じゃない」
「こんにちは」
昔からこの店で働いている顔見知りのおばちゃんだった。
「宗一郎さん、大変だったねぇ」
「ありがとうございます」
「しばらくはこっちにいるの?」
「まあ、少しは」
世間話をしながら、商品が次々とレジを通っていく。
食料品。
歯ブラシ。
タオル。
スイカ。
そして。
ピッ。
「……あら?」
おばちゃんが商品を持ち直した。
女性用のフリルの付いた可愛い下着だった。
ピッ。
反応しない。
「これ、読み込まないねぇ」
「……」
頼む。
いいから、早くしてくれ。
ピッ。
ピッ。
なぜこれだけ。
倫太郎は無言で遠くを見る。
「バーコード擦れちゃってるのかね」
「そうなんですかね……」
横を見る。
そらは少し離れたところで、退屈そうにこちらを見ていた。
しまった。お金を渡して、自分で買わせればよかったじゃないか。
おばちゃんはタグを裏返し、今度は数字を直接打ち込み始めた。
「これMサイズだけど、大丈夫?」
「はい」
「交換できないけど」
「大丈夫です」
「はい」
顔が熱くなってきた。
早く。
一刻も早く会計を終えてくれ。
「はいはい」
ようやく商品が籠へ移される。
倫太郎は心の中で盛大に息を吐いた。
「じゃあ、またね。叔母さんにもよろしく言っといて」
「はい。わかりました」
買い物袋を持ち上げ、倫太郎はレジを離れた。
「……なんか昨日より疲れたかも」
「なんで?」
「君のせいだよ」
「私?」
そらはまるで心当たりがないという顔をしていた。
家へ戻ると、倫太郎は早速スイカを切った。
縁側に二人で腰を下ろす。
目の前には夏の日差しを受けた庭が広がり、遠くから蝉の声が聞こえていた。
「ほら」
切ったスイカを渡す。
「ありがとう」
そらは両手で受け取り、一口かじる。
「……甘い」
その一言とともに、そらの表情が緩んだ。
「そんな好き?」
「うん」
「果物好きなの?」
「スイカも好き。一番は梨かも」
「食いしん坊だな」
「いいでしょ、別に」
そう言って、また一口。
倫太郎もスイカを齧る。
しばらく二人で黙って食べていた。
昨日会ったばかりの少女と、実家の縁側でスイカを食べている。
改めて考えると、不思議な状況だった。
「そらってさ」
「なに?」
「普段は、何してんの?」
そらはスイカを食べる手を止めた。
「普段?」
「家に帰りたくないって言ってたけど。それまで何してたのかなって」
「……歩いたり」
「歩いたり?」
「海見たり。神社に行ったり」
「それだけ?」
「うん」
「暇じゃない?」
「暇かもね」
あっさり言われ、倫太郎は笑った。
そらはまたスイカを食べ始めた。
そのとき、倫太郎のスマートフォンが震えた。
画面を見る。
相良拓也。
「なんだ?」
電話に出る。
『おやおや、倫太郎くん?』
「……なんだよ」
少し間があった。
『君は、今日何を買いましたか?』
「は?」
『あなたは今日、スーパーで女物の下着買っていましたね?』
「情報早ぇよ!」
『お前……ついに変態になり下がったか!』
「はぁ!?」
思わず大声が出た。
隣で、そらがスイカを食べながら倫太郎を見る。
「というか、なんで知ってんだよ!」
『嫁から聞いた』
「なんでお前の嫁まで知ってんだよ!」
『島舐めんなよ。一瞬だぞ』
「そんなところだけ仕事早ぇな、おい!」
電話の向こうで相良が笑う。
『いやぁ、でも安心したわ』
「何が」
『東京でなにかに目覚めたのかと思って』
「目覚めてねえよ!」
『俺、お前とは長い付き合いだけどさ。そういう趣味まで否定する気は――』
「違う!!」
「理解ある友人みたいな態度取るな!」
『だってお前、フリル付きの女性物の下着を――』
「あー、もう、事情があんだよ!」
『あれあれ?それは、一体どんな事情なのかな?』
「それは……」
「色々あるんだよ!」
通話を無理やり切った。
倫太郎はスマートフォンを縁側へ置く。
倫太郎は深くため息をついた。
そらを見る。
そらはスイカを口に運びながら、横目で倫太郎を見ていた。
完全なジト目だった。
「……なんだよ、その目」
「別に」
そらがもう一口スイカを食べる。
そして、
「……変態」
「お前まで乗るな!」
「なんか大変そうだね」
「誰のせいだと思ってんだよ」
「おじさん?」
「違う。君だよ、君」
そらは知らないふりをするように、残ったスイカを食べた。
その日の夜。
洗面所へ行った倫太郎は、ふと足を止めた。
コップの中に、歯ブラシが二本並んでいる。
一本は倫太郎のもの。
もう一本は、今日買った緑色。
「……絶対に明日まで、だからな」
倫太郎はそう言い聞かせるように呟いた。
昨日まで、この家にはなかったものだった。




