第四話
ボーン、ボーン、ボーン……。
古い柱時計の音が、静かな家の中に響いた。
倫太郎は顔を上げ、時計を見る。
「もう、こんな時間か」
我ながら、とんでもなく長い一日だった。
「とりあえず、今日はもう寝よう。俺もさすがに疲れた」
「……うん」
そう言ってから、倫太郎はそらの姿を見て、ふと気づいた。
「……あ」
「なに?」
「いや、その服」
そらが自分のワンピースへ視線を落とす。
「これ?」
「そのまま寝るの?」
山道を歩いてきたせいか、生成り色のワンピースの裾には土がついていた。
「洗濯しとくよ。明日には乾くだろうし」
そらが裾についた土を手で少し払った。
「でも、そうなると着替えがないか」
自分の服を貸す。
一瞬そう考えたが、倫太郎とそらでは体格が違いすぎる。
Tシャツならまだしも、ズボンなどまともに穿けないだろう。
しばらく考えた末、母の服が残っていることを思い出した。
押し入れから何着か引っ張り出し、その中でも比較的簡素なものをそらへ渡す。
「母親のだけど、多分これなら着られると思う」
「……借りてもいいの?」
「もう、着る人いないからさ」
「そう、ありがとう」
そらは両手で服を受け取った。
「……?」
袖のあたりを見る。
「どうした?」
「ううん。なんでもない」
翌朝。
蝉の声で目を覚ました倫太郎は、縁側から差し込む強い日差しに目を細めた。
キッチンで簡単な食事を作り居間へ行くと、昨日とは違う服を着たそらが座っていた。
「……ほんとにいた」
「なに?」
「いや、なんでもない」
夢じゃなかったらしい。
「朝飯は置いとくから、先食べてて」
「一緒に食べないの?」
「洗濯物干してから行くよ。冷めるから食べててな」
「……分かった」
「お待たせ……って、もう食べたの?」
「うん」
テーブルの皿は綺麗に空になっていた。
昼過ぎ。
倫太郎は物置を覗いていた。
「うっわ……」
奥から引っ張り出したのは、一台の古い自転車だった。
学生時代、自分が使っていたものだ。
フレームには所々錆が浮き、カゴも少し曲がっている。
「まだこれも残ってたのか」
タイヤを押す。
多少空気は抜けているが、完全に駄目になっているわけではない。
チェーンを見ると、古いながらも油が差してあった。
「……親父」
宗一郎がこれに乗っていた記憶はない。
倫太郎は少しだけ自転車を見つめたあと、物置にあった空気入れを手に取った。
「乗れるか?」
「え、後ろ?」
「昨日、住所言わなかっただろ」
「……うん」
「じゃあさ、せめて家の近くまで送るよ」
「……いい」
「いいって?」
「帰りたくないから」
「困ったなぁ」
「……」
「……どうせ食料も買い足したいし、とりあえず町まで行こうか」
「……うん」
そらが荷台へ腰を下ろす。
「ちゃんと乗ってるな?」
「うん、乗ってる」
「じゃあ、行くぞ」
ペダルを踏み込む。
古いわりに、ペダルは驚くほど軽かった。
「……意外と軽いな」
「なにが?」
「いや」
……あと女の子って、こんなに軽いものなのだろうか。
大人になって誰かを後ろに乗せた記憶もない。
そんなものなのかと、倫太郎は深く考えずそのままペダルを漕いだ。
海沿いの道へ出る。
潮風が吹き抜け、そらの長い髪が後ろへ流れていく。
「髪、車輪に巻き込むなよ」
「……うん」
「ならいいけど」
そのとき、畑の脇にいた老婆がこちらに気づき、手を上げた。
「おー、倫太郎坊。こんにちは」
「あれ、ばあちゃん、こんちは」
「……こんにちは」
背中の後ろから、そらの小さな声が続いた。
「今日はどっかお出かけかい?」
「ちょっと町までー」
「そうかい。気ぃつけてな」
「はーい」
そのまま自転車で通り過ぎる。
そらが振り返り小さく手を振った。
おばあさんは手を振りながら、自転車を見送っていた。
「……ちょっと、まずかったかな」
「なにが?」
「いや、ばあちゃん。後で余計なこと言わなきゃいいけど」
「余計なこと?」
「親父の葬式の次の日に、若い女の子乗せて町走ってたなんてさ」
「……」
「この島、そういうの一瞬で広まるんだよ」
倫太郎が海を横目に自転車を走らせていると、
「ねぇ、おじさん」
「ん?」
「止めて」
「え?」
「いいから、止めて」
少し強めに言われ、倫太郎はブレーキを握った。
「なんだよ、急にどうした?」
そらは自転車から降りると、道沿いの古い店を見つめていた。
シャッターの下りた、小さな商店。
看板は色褪せ、店先には雑草が伸びている。
「ああ、ここか」
「知ってるの?」
「昔は駄菓子とか売ってたんだよ。子供の頃よく来てたよ」
軒先には、古びたガラスの風鈴が一つだけ残されていた。
短冊はほとんど千切れ、残った紐も金具に絡まっていた。
そらは、その風鈴の下へ歩いていく。
「どうした?」
返事がない。
そらはしゃがみ込み、誰もいない場所を見つめた。
「……ずっといたの?」
「は?」
倫太郎は周囲を見る。
誰もいない。
「えーっと、そらさん?」
「鳴りたいの?」
「……誰と話してんの?」
そらが倫太郎を見る。
「この子」
「え?」
「ここにいる」
「いや、風鈴だよ?」
今度はそらの方が不思議そうな顔をした。
「いるよ」
「……いや、何がだよ」
倫太郎は眉をひそめながら、そらが見つめる先へ顔を近づける。
やはり、何も見えない。
あるのは古い風鈴だけだ。
「この子、もう一回鳴りたいんだって」
「……風鈴が?」
「違う。この子が」
「だから、その子が見えないんだって」
そらは少し困った顔をする。
倫太郎も同じくらい困った。
「なんかよく分からないけど、まあ……鳴らしたいなら、鳴らしてやればいいのか?」
風鈴を見る。
残った紐を解き、風鈴を手に取る。
倫太郎はシャッターの隅に引っかかっていた、色褪せたチラシを拾う。
「適当だけど、これでいいか」
古い短冊を外し、代わりに紙を細長く折って結びつける。
「……なんかさ、他にないの?」
そらが聞く。
「別にいいだろ、鳴れば」
倫太郎が手を離す。
風が吹いた。
チリン――。
澄んだ音が、静かな道に響いた。
「……あ、笑った」
「え?」
チリン――。
もう一度、風鈴が鳴る。
そらは何もない場所へ、小さく微笑んだ。
「……よかったね」
しばらくして、その笑顔が少しだけ寂しそうなものに変わる。
「消えちゃった」
「……何が?」
「さっきの子」
倫太郎には正直意味が分からなかった。
ただ、古い風鈴だけが風に揺れている。
「……なぁ」
「なに?」
「さっきから何の話してるんだ?」
「何って……」
そら自身も上手く説明できないようだった。
「分かんない。でも、たまにいるんだ」
「……はぁ、そうですか」
倫太郎は頭を掻く。
やっぱり、この子は少し変だ。
そう思った、そのときだった。
ぐぅぅぅ――。
「……」
「……」
二人の間に沈黙が落ちる。
倫太郎はそらを見る。
そらは顔を逸らした。
「今の、君?」
「……違う」
ぐぅぅぅぅ――。
「なんだ、やっぱ、そらじゃん」
「……」
そらの頬がほんの少し赤くなる。
倫太郎は思わず吹き出した。
「なによ」
「いや、ごめん」
「笑わないで」
「ごめんごめん、悪かったって」
倫太郎は自転車へ戻る。
「……家の方が近いし、一回戻ってなんか食べてく?」
「……いいの?」
「どうせ俺も腹減ったし」
そらは少しだけ迷ったあと、小さく頷いた。
「……うん、食べる」
「じゃあ乗って」
そらが再び荷台へ腰を下ろす。
「ちゃんと乗ってるな?」
「……うん、乗ってる」
「よし、行くか」
倫太郎はペダルを踏み込んだ。
錆びついた古い自転車が、夏の日差しの下、海沿いの道をゆっくりと走り出した。




