第三話
ザァー……。
鳥居に張られたしめ縄から下がる紙垂が、潮の匂いを含んだ風にカサカサと揺れた。
木々がざわざわと鳴る。
遠くからは、波の音が絶え間なく届いていた。
その女性の長い髪がふわりと揺れ、耳にかける仕草が、月明かりの下でどこか幻想的に見えた。
「あなた、見ない顔ね」
「……え?」
「ここらじゃ見ない顔だけど、どこから来たの?」
眉をひそめ首をかしげながら、少しずつ近づいてくる。
「え、あぁ、潮見倫太郎って言うんだ、潮見の家の息子だよ」
「ふーん、そうなのね」
「久しぶりにこっちに戻ってきたばっかなんだ」
「そう」
「君は、えっと……」
「そら」
「え?」
「そらって名前」
「そうなんだ、それで、こんな時間に何してるの?」
「……別に、ただ来たかったから、来ただけ」
「そ、そうなんだね、こんなところ一人で危なくない?」
「……いやだったから」
「はい?」
「……帰りたくないから」
沈黙が流れる。
こんな山の神社に一人でいる女性を見て置いていって大丈夫なのだろうか。
この島にだって、変な人がいないとも限らない。
島を出てから新しく移り住んできた人間だっているだろうし、こんなところに一人でいるのも心配だった。
……いや、待て。
こんな夜中のこんな場所で若い女性へ声をかけている三十五歳の男。
客観的に見れば、むしろ自分の方が危なくないか。
とはいえ、どうしたものか。
「とりあえずだけど、下に降りない?」
「どうして?」
「どうしてって、こんなところに一人で置いて帰れないだろ」
「……別に平気」
「俺が平気じゃないって、家の人だってきっと心配しているよ」
「……あなた、少し変な人」
彼女はわずかに微笑む。
近づいてくるにつれ、その顔立ちがはっきりと見えてきた。
派手さはない。
年の頃は、二十歳前後だろうか。
けれど、思わず目で追ってしまうほど整った顔立ちだった。
そんな顔が近づいてきたものだから倫太郎は少しひるんでしまった。
そんなことを考えている最中、彼女は目を見てきた。
「おじさん、もしかして今日……大切なもの、なくした?」
「……え?」
ドキリと、心臓が大きく跳ねた。
なんなんだ、この子は。
「なんとなく、そんな顔してるから」
返す言葉が見つからなかった。
倫太郎は小さく息を吐き、頭を掻いた。
「……親の葬式だったんだ」
そらは視線を落とした。
「そうだったのね、ごめんなさい」
「いや、いいよ謝らなくても」
風が吹き、再び紙垂がカサカサと鳴る。
「それより、とりあえず降りよう。話は歩きながらでも出来るでしょ」
「……うん」
倫太郎が先に降り、少し後ろからそらが付いていく。
暗い石段をゆっくりと下り始めた。
夜の山道には街灯が少なく、月明かりがわずかに足元を照らしていた。
倫太郎はスマートフォンのライトで、二人の足元を照らした。
しばらく歩いたところで、倫太郎の少し後ろを歩くそらへ視線を向けた。
「それで、家はどこ?」
「……」
「この辺?」
「……その辺」
「住所は?」
そらは答えない。
ただ黙ったまま、俯いたまま、後をついてくる。
倫太郎は眉をひそめ、首を撫でた。
「家の人と喧嘩した?」
「……別に」
「家の人と連絡は?」
「……」
「電話持ってないの?」
「……うん」
「そっか」
倫太郎はそれ以上聞くのをやめた。
何か事情があるのだろう。
無理に聞き出したところで、初対面のおっさんに素直に話すとも思えない。
「そういやさ」
「なに?」
「さっきから、おじさんって呼ぶけど」
「おじさんでしょ?」
「まだ三十五だ」
「……やっぱおじさん」
「いや、まあ、君くらいの歳から見たらそうなのかもしれないけどさ」
斜め後ろから、クスッと笑う声が聞こえた。
「別に笑うところじゃないだろ」
そらの口元が緩んだ。
さっきまでの張り詰めた空気が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
山を下りきる頃には、波の音も少し遠くなっていた。
倫太郎は立ち止まる。
「さて……どうしたものかな」
「?」
「いや、君のことだよ」
「私?」
「家には帰りたくない。住所も言いたくない。連絡もできない。だからって、ここで『じゃあね』って置いていくわけにもいかないから」
「私は平気よ」
「俺が平気じゃないって、さっきも言っただろ」
そらは不思議そうに倫太郎を見る。
倫太郎は腕を組んでどこか遠くを見つめた。
本来なら警察なり誰かに相談するべきなのだろう。
ただ、本人がここまで家に帰ることを嫌がっている。
無理矢理連れていくのも何となく気が引けた。
……家に帰りたくない。
その気持ちなら、倫太郎にも覚えがあった。
理由まで同じとは限らない。
それでも、無理に連れ戻される息苦しさくらいは分かる気がした。
「……はぁ、うち、すぐそこなんだ」
「あなたの家?」
「ああ。今日葬式やったばっかだけど、まあ……泊まれる部屋くらいはいくらでもあるから」
そこまで言ってから、倫太郎は自分の発言を頭の中で反芻した。
三十五歳独身男性。
夜。
若い女の子。
自宅へ誘う。
近所の目。
「……いや、待って。今の言い方めちゃくちゃ怪しいって」
「?」
「変な意味じゃないからな?」
「変な意味?」
「いや……もういい」
倫太郎は額を押さえた。
「とりあえず、仕方ないから今夜だけでも、うちに来る?」
そらは少しだけ考えるように目を伏せた。
やがて、小さく頷いた。
「……うん」
「ここ」
夜の潮見家を見上げ、そらが足を止めた。
「大きい家ね」
「あぁ、無駄にね」
倫太郎は玄関の鍵を開ける。
「どうぞ」
「……お邪魔します」
そらが静かに家へ入った。
玄関にはまだ、昼間まで多くの人が出入りしていた名残が残っている。
倫太郎が明かりをつけると、そらは座敷の方へ目を向けた。
後飾りの祭壇。
父の遺影。
白い骨壺。
まだ新しい線香の匂い。
そらはしばらく何も言わず、それを見つめていた。
「……この人?」
「ああ」
倫太郎は遺影を見る。
「俺の親父」
「……そう」
そらも静かに遺影を見た。
「……寂しくない?」
「どうだろうな」
倫太郎は遺影を見た。
「まだ、よく分かんないんだ」
そらはそれ以上、何も聞かなかった。
ただ倫太郎の隣で、同じように父の遺影を見つめていた。




