偽〈感染〉
『次は、あなたの夏をください。』
その一文を読んだ瞬間、僕の頭の奥に激しい痛みが走った。
忘れていた記憶が、まるで古いフィルムのように再生され始めた。
小学三年生の夏。祖父の家の縁側で食べたスイカの味。中学最後の夏、友人たちと見た花火。初めて好きになった人の笑顔。文章を書くことに夢中になり、朝までキーボードを叩き続けた夜。
どれも僕だけの記憶だった。
しかし、違和感があった。
記憶を思い出しているのに、まるで誰かの思い出を読んでいるような感覚だったのだ。
そして、その日から僕は奇妙な夢を見るようになった。
真っ白な部屋に、一つだけ机が置かれている。
机の上には古びたノートパソコンがあり、画面には『夏の匂い』が表示されていた。
部屋の隅には、何百、何千という人影が座っている。
彼らは黙って文章を書き続けていた。
カタカタ。
カタカタ。
終わることのないタイピング音だけが響いている。
「ここはどこだ?」
僕が尋ねると、一人の老人が顔を上げた。
「ここは、最後の記事だ。」
「最後の記事?」
「そうだ。人は死ぬ。しかし、言葉は死なない。誰にも読まれなかった言葉は、ここへやって来る。」
老人は少し寂しそうに笑った。
「私の小説は、一度も読まれなかった。四十年間書き続けたが、一冊も出版されなかった。それでも私は書いた。君はどうだ?」
「僕は……。」
「なぜ書く?」
その問いに、僕は答えることができなかった。
夢から覚めると、スマートフォンの通知が鳴っていた。
『あなたの記事にスキがつきました。』
そんなはずはない。
僕はもう何週間も記事を書いていない。
恐る恐る開くと、そこには新しい記事が投稿されていた。
タイトルは――『僕の夏』。
投稿者名は、僕自身だった。
記事を開いた瞬間、血の気が引いた。
そこには、誰にも話したことのない僕の記憶が書かれていた。
子どもの頃の夢。
失恋した日のこと。
誰にも言えなかった後悔。
そして、僕が初めて文章を書いた日のこと。
最後の一文には、こう書かれていた。
『あなたは、文章を書くことによって救われました。』
『それなのに、なぜ自分の言葉を自分だけのものだと思ったのですか?』
コメント欄は閉鎖されていた。
しかし、一つだけ見ることのできる数字があった。
スキ 1
誰が押したのか。
その瞬間、画面に新しい通知が表示された。
『おめでとうございます。あなたの記事は選ばれました。』
『次の管理人候補として登録されました。』
管理人?
意味がわからなかった。
僕は急いで観測者たちのコミュニティに連絡を取った。
すると、返信はたった一行だった。
『ようやく気づいたのですね。』
『この記事は、人を呪うために存在しているのではありません。』
『作者を探しているのです。』
観測者たちは、何年も前から知っていた。
『夏の匂い』は、人の言葉を奪う怪異ではない。
正確には、「言葉を愛しすぎた者」を選び続けている存在なのだ。
これまでの管理人は、三十七人。
彼らは皆、文章を書くことを人生そのものにしていた人間だった。
管理人となった者は、二度とインターネットの表舞台には現れない。
ただひたすら、世界中から失われていく言葉を集め続ける。
読まれなかった小説。
消えてしまったブログ。
誰にも届かなかった手紙。
そして、人が死ぬ瞬間まで胸の内にしまい込んでいた言葉。
それらを、たった一つの記事として保存し続けるのだ。
だから、『夏の匂い』は年々長くなっていく。
そして管理人が寿命を迎えると、新たな書き手が選ばれる。
最後の条件は、たった一つ。
「その記事にスキを押してしまうこと」。
今、画面の右上には小さく数字が表示されている。
374。
僕の前に、374人の書き手がいたということだ。
そして、画面の一番下には、新しい文章が追加されていた。
『ようこそ。』
『375人目の管理人へ。』
あの日、誰かが言っていた。
「その記事にスキをしたら絶対にいけないんだって。」
その噂は、少しだけ間違っている。
正しくは――。
「その記事にスキをしたら、もう二度と、自分のためだけに文章を書くことはできなくなる。」
それでも、もしあなたが言葉を愛しているのなら。
『夏の匂い』は、今も静かに、あなたのスキを待っている。




