再来
午前二時四十二分。
諏訪貴信は、画面に表示されたコメントを見つめていた。
投稿者――諏訪貴信。
投稿日――十五年前。
本文――
「まだ、終わらせない。」
「……俺が書いたのか?」
記憶にはない。
だが、文字の癖は自分のものだった。
句読点の打ち方。
文章の切り方。
そして、最後に句点をつけない癖。
間違いなく、自分の文章だった。
「十五年前、俺は何を終わらせたくなかったんだ……?」
その瞬間、画面が切り替わった。
新しい記事が公開されている。
作者名は、最後の読者。
タイトルは、
『諏訪貴信が、最初に書いた物語』
貴信は記事を開いた。
そこには、十五年前の自分が書いた短い物語が掲載されていた。
主人公は、何をやっても認められない少年。
少年は、周囲から笑われ、努力を否定され、やがて一つの決意をする。
『いつか、世界中の人間が俺の名前を知る日が来る』
『そのとき、俺を笑った人間たちは、きっと後悔する』
物語は、そこで終わっていた。
「……こんなもの、書いた覚えがない」
しかし、記事の最後には、当時の自分が残したコメントがあった。
『これは、物語ではありません』
『いつか本当に、こうなりたいと思っています』
貴信は、息を止めた。
それは、十五年前の自分の本音だった。
「最後の読者……お前は誰だ?」
貴信が画面に向かって問いかけると、返信が現れた。
『私は、あなたの物語を最初から読んでいた者です』
『あなたが最初に書いた一文も』
『誰にも読まれなかった文章も』
『公開せずに消した下書きも』
『そして、あなたが書くことをやめようとした夜も』
貴信の胸が締めつけられた。
「誰なんだよ……」
『あなたは、私を忘れています』
『しかし、私はあなたを忘れたことがありません』
画面に、古い記事の一覧が表示された。
その中に、一つだけ見覚えのないタイトルがあった。
『最後の読者へ』
投稿日は十五年前。
貴信はクリックした。
本文は、たった三行だった。
『もし、誰かがこの文章を読んでいるなら』
『どうか、最後まで読んでほしい』
『俺の物語を、途中で終わらせないでほしい』
貴信は、思い出した。
十五年前。
自分は、文章を書くことをやめようとしていた。
誰にも読まれない。
誰にも認められない。
何を書いても、意味がない。
そう思い、すべての下書きを消そうとしていた。
その夜、最後に一つだけ文章を書いた。
それが、この記事だった。
しかし、公開した記憶はなかった。
「……誰かが読んでくれたのか?」
画面に返信が現れた。
『はい』
『私は、最後まで読みました』
『そして、あなたに約束しました』
『あなたの物語を、終わらせないと』
その瞬間、貴信の背後で声がした。
「思い出しましたか?」
振り返る。
そこに立っていたのは、見知らぬ少年だった。
十五歳ほどの姿。
古びた制服。
手には、一冊のノートを持っている。
「……誰だ?」
少年は、静かに答えた。
「あなたが、十五年前に書いた物語の主人公です」
貴信は言葉を失った。
「そんな……」
「あなたは、僕を作りました」
少年はノートを開いた。
「誰にも認められない少年。誰かに見返したい少年。自分の物語を、世界に読ませたい少年」
「それは、ただの創作だ」
「最初は、そうだったのかもしれません」
少年は、貴信を見つめた。
「でも、あなたは僕を忘れなかった」
そのとき、画面に藤原時平の姿が現れた。
「ようやく、すべてがつながりましたね」
貴信は時平をにらんだ。
「お前は、何を知っている?」
「最後の読者の正体です」
時平は少年を見た。
「この少年は、あなたが十五年前に作った物語の主人公。そして、あなたの妄執そのものです」
「妄執……?」
「あなたは、誰かに認められたいと願った。自分の物語を読んでほしいと願った。そして、誰にも読まれなかったとき、物語を終わらせたくないと思った」
時平は続けた。
「その願いが、最後の読者を生み出したのです」
少年は首を横に振った。
「違います」
時平の表情が変わった。
「僕は、あなたの妄執ではありません」
少年は貴信を見た。
「僕は、あなたが書いた物語です」
「同じことだろう」
「違います」
少年の声は、静かだった。
「あなたが僕を作ったとしても、僕が何をするかまで、あなたが決める必要はありません」
貴信は、少年の言葉を聞いていた。
それは、どこかで聞いたことのある言葉だった。
自分の人生を、誰かへの復讐だけに使わない。
自分の文章の意味を、恨みだけに決めさせない。
それは、道真が残した言葉だった。
時平が、少年に向かって手を伸ばした。
「ならば、君は何を望む?」
少年は答えた。
「物語を終わらせたい」
時平が笑った。
「それでは、あなたは消えてしまう」
「それでもいい」
少年は、ノートを閉じた。
「物語は、終わってもいいんです」
その瞬間、画面に表示されていた妄執ランキングが消え始めた。
第一位、藤原時平。
第二位、諏訪貴信。
第三位、菅原道真。
すべての名前が、一つずつ消えていく。
最後に残ったのは、
第零位――最後の読者。
妄執度、100%。
その数字が、ゆっくりと下がっていった。
99%。
98%。
97%。
時平が叫んだ。
「やめろ!」
「どうしてだ?」
貴信が尋ねた。
「物語が終われば、お前も終わるんだろう?」
時平は、答えなかった。
少年が、静かに言った。
「終わることは、失うことじゃありません」
「何だと?」
「終わった物語は、誰かの記憶に残ることができる」
少年は貴信を見た。
「あなたが書いた物語も、そうです」
貴信は、ゆっくりと息を吐いた。
十五年前の自分は、誰かに認められたかった。
誰かに読んでほしかった。
そして、誰かに自分の存在を忘れないでほしかった。
その願いは、今も消えていない。
だが、もう一つのことにも気づいていた。
誰かに読まれたからといって、自分の価値が決まるわけではない。
誰かに忘れられたからといって、自分の物語が無意味になるわけでもない。
貴信は、少年に向かって言った。
「……ありがとう」
少年は、少しだけ笑った。
「こちらこそ」
画面が真っ白になった。
時平の姿が消える。
少年の姿も消える。
そして、最後に一つだけ、記事が残された。
タイトルは、
『妄執』
作者は、諏訪貴信。
本文は、空白だった。
貴信は、キーボードに手を置いた。
何を書けばいいのか。
誰に向けて書けばいいのか。
今は、まだ分からない。
それでも、書き始めた。
『物語には、終わりがある』
『しかし、終わった物語が、誰かの中で生き続けることはある』
『私は、誰かに認められるためだけに、文章を書いていたのかもしれない』
『けれど、今は少し違う』
『私は、自分が書きたいから書く』
『そして、いつか誰かが読んでくれたなら、それを大切にしたい』
貴信は、そこで手を止めた。
記事を公開するかどうか、迷った。
以前なら、すぐに公開していたかもしれない。
誰かに読んでもらいたくて。
誰かに認めてもらいたくて。
しかし、今は違った。
貴信は記事を保存した。
そして、パソコンを閉じた。
午前三時。
部屋は静かだった。
スマートフォンに、一つだけ通知が届いた。
新しいコメントがあります。
投稿者は、菅原道真。
本文は、短かった。
『貴信。』
『物語を終わらせることは、敗北ではない。』
『私も、ようやくそう思えるようになった。』
貴信は、静かに笑った。
そのとき、もう一つ通知が届いた。
投稿者――藤原時平。
『私は、まだ答えを見つけられていません』
『しかし、もう一度だけ、自分の物語を書いてみようと思います』
貴信は、スマートフォンを置いた。
窓の外が、少しずつ明るくなっていた。
千年の妄執が、ようやく終わろうとしている。
そう思った。
しかし、最後にパソコンの画面が一瞬だけ点灯した。
そこに、見覚えのないアカウントが表示されていた。
作者名――最後の読者。
タイトルは、
『次の物語を、読ませてください』
貴信は、画面を見つめた。
そして、気づいた。
最後の読者は、消えたのではない。
ただ、物語の外へ出ただけなのだ。
誰かが新しい物語を書き始めるのを、待っている。
貴信は、ゆっくりとパソコンを閉じた。
今度こそ、物語は終わった。
――そう信じたかった。




