終わらせない
午前二時四十分。
諏訪貴信は、菅原道真が残した下書きを見つめていた。
『時平もまた、誰かに認められたかったのだ。』
その一文だけが、画面に浮かんでいる。
「認められたかった……?」
貴信はつぶやいた。
藤原時平。
歴史の中では、菅原道真を政敵として追い落とした男。
権力を手にし、相手を失脚させ、やがて道真の怨霊に苦しめられたと伝えられる人物。
しかし、もし時平にも、誰にも言えなかった感情があったとしたら。
彼は、なぜそこまで道真を排除しなければならなかったのか。
なぜ千年もの時間を超えて、復讐のゲームを仕掛けているのか。
貴信は新しい記事を書き始めた。
タイトルは、
『藤原時平は、何を恐れていたのか』
最初の一文を入力する。
『藤原時平は、菅原道真を恐れていた。』
そこで、手が止まった。
違う。
それだけでは、何も分からない。
貴信は文章を消した。
そして、書き直した。
『藤原時平は、菅原道真に負けることを恐れていたのではない。菅原道真がいなくなったあとも、自分が誰にも認められないことを恐れていたのではないか。』
保存ボタンを押す。
その瞬間、画面が暗くなった。
「……またかよ」
画面の中央に、白い文字が現れる。
『その問いに答えられるのは、本人だけです。』
続いて、新しい通知が届いた。
藤原時平さんが記事にコメントしました。
貴信は、息を整えてコメントを開いた。
『面白い推測ですね、諏訪貴信さん。』
『しかし、あなたは一つだけ勘違いしています。』
『私は、菅原道真に負けることを恐れていたのではありません。』
『私は、菅原道真がいなくなったあと、自分が何者なのか分からなくなることを恐れていたのです。』
貴信は画面を見つめた。
「何者なのか、分からなくなる……?」
さらにコメントが追加された。
『あなたには、分かりますか?』
『誰かを見返すことだけを目標に生きてきた人間が、その相手を失ったとき、何が残るのか。』
貴信は答えられなかった。
時平の言葉が、自分自身にも向けられているような気がしたからだ。
誰かに認められたい。
誰かを見返したい。
その思いが、いつの間にか自分を動かす理由になっていた。
では、その相手がいなくなったら。
自分は、何を目指せばいいのだろう。
貴信が考え込んでいると、画面にもう一つの通知が表示された。
『藤原時平さんが、あなたに直接話したいそうです。』
その下には、見慣れないボタンがあった。
「対話を開始する」
貴信は、迷った末にクリックした。
画面の向こうに、平安時代の宮廷が現れた。
朱色の柱。
広い庭。
風に揺れる木々。
そして、縁側に座る一人の男。
藤原時平だった。
時平は、貴信を見ても驚かなかった。
「ようやく来ましたね」
「……あんたが、藤原時平か」
「そうです」
「どうして、こんなことをしている?」
時平はすぐには答えなかった。
庭の向こうを眺めながら、ぽつりと言った。
「あなたは、誰かに認められたことがありますか?」
「質問に答えろよ」
「答えていますよ」
時平は、初めて貴信を正面から見た。
「私は、認められたかったのです」
その声には、怒りも、笑いもなかった。
「父は偉大な権力者でした。私は、その息子として生まれた。周囲は私に期待しました。家を守れ。地位を守れ。藤原家の人間として振る舞え、と」
時平は、自分の手を見つめた。
「しかし、私自身を見てくれる人間は、どこにもいなかった」
「そんなの、道真だって同じだったんじゃないのか?」
「ええ。だからこそ、私はあの男が嫌いだった」
時平は、苦笑した。
「道真は、才能によって評価されました。学問によって人々を魅了し、言葉によって権力者を動かした。あの男が何かを成し遂げるたび、私は自分が空っぽになっていくような気がしたのです」
「それで、左遷させたのか」
「そうです」
時平は、あっさりと認めた。
「私は、あの男を追い落としました。自分が勝ったと証明したかった。しかし、道真が都からいなくなっても、私の心は満たされませんでした」
時平の表情が変わった。
「むしろ、もっと苦しくなった」
「どうして?」
「私が勝ったのなら、私は何を証明できたのでしょう?」
時平は貴信を見た。
「道真を排除したことで、私は自分が優れていると証明できたのか。それとも、ただ、自分より優れているかもしれない人間を消しただけなのか」
その問いに、貴信は何も言えなかった。
時平は続けた。
「私は、その答えを知ることができなかった。だから、道真の死後も、あの男の存在に縛られ続けたのです」
「それで千年も復讐を続けているっていうのか?」
「復讐?」
時平は、初めて声を荒らげた。
「これは復讐ではありません!」
庭の木々が揺れた。
「私は、答えが欲しいのです!」
その叫びは、画面越しの貴信の胸にまで響いた。
「私が間違っていたのか。道真が正しかったのか。それとも、どちらも自分の欲望に縛られていただけなのか。誰かに、それを教えてほしいのです!」
時平は、深く息を吐いた。
「しかし、誰も答えてくれなかった」
貴信は、静かに尋ねた。
「だから、俺たちを巻き込んだのか?」
時平は黙った。
「人間の恨みを集めて、ランキングを作って、誰が一番妄執に囚われているか競わせた。そうすれば、何か答えが出ると思ったのか?」
長い沈黙。
やがて、時平はうなずいた。
「ええ」
「ふざけるな」
貴信の声が震えた。
「自分が納得したいからって、他人の人生をゲームにするのか?」
時平は反論しなかった。
「あなたの言うとおりです」
その言葉に、貴信はかえって戸惑った。
時平は、ゆっくりと頭を下げた。
「私は、千年経っても変われなかったのです」
突然、宮廷の景色が崩れ始めた。
柱が黒く染まり、庭の木々が枯れていく。
時平が顔を上げた。
「まずい……」
「何が起きてる?」
「誰かが、妄執ランキングを書き換えています」
画面に赤い文字が浮かんだ。
妄執ランキング・緊急更新。
第一位、藤原時平。
第二位、諏訪貴信。
第三位、菅原道真。
その下に、見知らぬ名前が次々と現れる。
やがて、ランキングの一番下に、奇妙な項目が追加された。
第零位――最後の読者。
貴信は眉をひそめた。
「最後の読者……?」
時平の顔から、血の気が引いた。
「そんなはずはない」
「知っているのか?」
時平は答えなかった。
ランキングの文字が、一つずつ消えていく。
そして、第零位の項目だけが画面いっぱいに拡大された。
『最後の読者が、物語を読み始めました。』
続いて、新しい記事が公開された。
作者名は、表示されていない。
タイトルは、
『藤原時平が、菅原道真を陥れた本当の理由』
貴信は記事を開いた。
そこには、これまで誰も語らなかった話が書かれていた。
道真が左遷される直前、時平は一度だけ、道真に助けを求めていた。
自分の立場に耐えられないこと。
父の期待に応え続けることが苦しいこと。
自分には、道真のような才能がないと感じていること。
そして――。
『私は、あなたになりたかった』
時平の顔が歪んだ。
「やめろ……」
記事は続いていた。
『しかし、道真はその願いを拒絶した』
『彼は時平に言った』
『自分の人生は、自分で決めるものだ。誰かのようになろうとする必要はない』
『その言葉を聞いた時平は、自分が否定されたと思った』
『そして、道真を排除することを決意した』
貴信は、記事から目を離せなかった。
「これが……本当の理由なのか?」
時平は、何も答えなかった。
ただ、両手を強く握りしめていた。
やがて、彼は小さく言った。
「私は……あの男に、助けてほしかったのです」
その声は、ひどく弱々しかった。
「けれど、私は助けを求める方法を知らなかった。だから、あの男を憎んだ。あの男が自分の思いどおりにならないことを、許せなかった」
時平の目から、一筋の涙が落ちた。
「私は、あの男を倒せば、自分もあの男のようになれると思ったのです」
貴信は、しばらく黙っていた。
そして、静かに尋ねた。
「時平。今でも、道真を許せないのか?」
時平は顔を上げた。
「……分かりません」
初めて聞く、正直な答えだった。
「憎んでいます。今でも、あの男が羨ましい。しかし、あの男を倒したところで、私は自分になれるわけではなかった」
時平は、涙をぬぐった。
「私は、ずっと間違った相手と戦っていたのかもしれません」
その瞬間、宮廷の景色が完全に消えた。
画面は真っ白になり、中央に一つの文章が表示された。
『藤原時平の妄執度が、100%から99%に低下しました。』
たった1%。
それでも、千年の間、一度も動かなかった数字だった。
貴信は思わず息を吐いた。
しかし、時平は喜ばなかった。
むしろ、恐怖に満ちた目で画面を見つめていた。
「違う……」
「何が違うんだ?」
「私の妄執が弱まったのなら、なぜ……」
時平の声が震えた。
画面の隅で、新しい数字が上昇していた。
最後の読者の妄執度――100%。
そして、画面の中央に、最後のメッセージが表示された。
『あなたたちは、ようやく気づき始めたようですね』
『しかし、私の妄執は違います』
『私は、誰かに認められたいのではありません』
『誰かを見返したいのでもありません』
『私は――』
文章が、そこで途切れた。
次の一行が現れるまで、数秒かかった。
『この物語が、終わることを許せないのです。』
貴信は、背筋が凍るのを感じた。
人間の恨みなら、いつか終わるかもしれない。
誰かに謝ることも、許すことも、過去から離れることもできるかもしれない。
だが、物語そのものを終わらせたくない存在がいるとしたら。
道真と時平の復讐が終われば、次の物語が必要になる。
次の犠牲者が必要になる。
そして、誰かが再び恨みを抱くまで、ゲームは続いていく。
パソコンの画面に、新しい記事が現れた。
タイトルは、
『第七章 最後の読者』
作者名は、やはり表示されていなかった。
しかし、記事の最初の一文を見た瞬間、貴信はすべてを理解した。
『この物語を書いているのは、諏訪貴信ではない。』
そして、その下には、こう続いていた。
『諏訪貴信が、この物語を読んでいるのだ。』
貴信は、ゆっくりと画面から目を離した。
部屋は静かだった。
時平の姿も、道真の姿も、もう見えない。
ただ、背後から、誰かがページをめくる音が聞こえた。
一枚。
また一枚。
そして、耳元で声がした。
「さあ、諏訪貴信さん」
「あなたは、この物語の結末を知りたいですか?」
貴信は振り返った。
そこには、誰もいなかった。
しかし、パソコンの画面には、新しいコメントが一つ表示されていた。
投稿者――諏訪貴信。
投稿時刻は、十五年前。
コメントの本文は、たった一言だった。
「まだ、終わらせない。」




