後悔か公開か
午前二時二十四分。
諏訪貴信の名前が、妄執ランキングの第一位に表示されていた。
諏訪貴信。妄執度100%。
その数字を見つめながら、貴信は何度も首を横に振った。
「違う……俺は、こんなことを望んでいない」
パソコンの画面には、見覚えのない記事が表示されていた。
タイトルは、
『いつか、俺を認めなかった人間を、全員見返してやる。』
作者は、諏訪貴信。
投稿日は、現在から十五年前。
そんな記事を書いた記憶はなかった。
だが、本文を開いた瞬間、指先が冷たくなった。
そこには、十五年前の自分が書いた文章が残されていた。
誰にも評価されなかった悔しさ。
自分より才能があるように見える人間への嫉妬。
努力しても報われないことへの怒り。
そして、最後にこう記されていた。
『いつか、俺を馬鹿にした人間たちが、俺の文章を読みに来る日が来る。
そのとき、俺は絶対に許さない。
俺がどれだけ悔しかったか、思い知らせてやる。』
貴信は椅子から立ち上がった。
「こんな記事、書いた覚えがない!」
そのとき、暗闇の中から声がした。
「覚えていないのではない。忘れたかったのだ」
菅原道真だった。
先ほどまで全身を覆っていた黒い染みは、少し薄くなっていた。
しかし、その表情は以前よりも険しい。
「貴信。お前は、文章を書くことで何を得ようとしていた?」
「そんなの……読んでもらうためだよ」
「それだけか?」
「もちろんだ」
道真は首を横に振った。
「ならば、なぜ十五年前の文章に、あれほどの怒りがある?」
貴信は答えられなかった。
文章を書くことは楽しかった。
自分の考えを言葉にすることも、誰かに読んでもらうことも。
しかし、いつからか、数字が気になるようになっていた。
スキの数。
フォロワーの数。
読まれた記事と、読まれなかった記事。
誰かが評価されるたびに、自分は何が足りないのかと考えた。
そして、ときには、自分を評価しない人間を心の中で責めた。
「俺は……ただ、認めてほしかったんだ」
貴信がつぶやくと、道真は静かにうなずいた。
「それは、罪ではない」
「え?」
「誰かに認められたいと思うことは、罪ではない。悔しいと思うことも、嫉妬することも、人間ならばあるだろう」
道真の声が少し柔らかくなった。
「問題は、その感情を理由に、他人を裁くことだ。自分が傷ついたから、相手も傷つけてよい。自分が認められなかったから、相手には価値がない。そう考え始めたとき、妄執は人を支配する」
「じゃあ、俺はどうすればいい?」
「自分で決めろ」
道真は言った。
「私には、もう一度やり直すことはできない。だが、お前にはまだできる」
その瞬間、パソコンから拍手の音が聞こえた。
画面には、藤原時平の姿が映っていた。
平安時代の装束をまとい、口元に薄い笑みを浮かべている。
『感動的な話ですね、菅原道真』
時平が言った。
『しかし、あなたは肝心なことを忘れている』
道真の顔から表情が消えた。
「時平……!」
『諏訪貴信は、自分の妄執を認めた。それで何が変わるのです?』
時平は貴信に目を向けた。
『あなたは十五年間、心の中で復讐を続けてきた。誰かを傷つけることなく生きてきたとしても、その怒りは消えていなかった』
『そして今、あなたはその怒りを文章にした』
『文章は残る。言葉は広がる。あなたの恨みは、これから何万人もの人間に読まれるかもしれない』
時平は笑った。
『あなたの妄執は、もはやあなた一人のものではない』
貴信は画面をにらんだ。
「何が言いたい?」
『あなたに、復讐を実行してもらいたいのです』
画面に、一人の人物の名前が表示された。
それは、貴信が十五年前に文章を読んでもらいたいと願い、そして自分を認めてくれなかったと思い込んでいた人物だった。
名前を見た瞬間、貴信の胸が痛んだ。
忘れたつもりだった。
もう関係のない人間だと思っていた。
しかし、その名前は、心の奥底に残っていた。
時平は続けた。
『あなたがこの記事を公開すれば、その人物はあなたの過去を知ることになります』
『あなたの悔しさも、怒りも、嫉妬も、すべて知ることになる』
『そして、あなたを傷つけたことを後悔するでしょう』
貴信は唇をかんだ。
それは、長い間、心のどこかで望んでいたことだった。
自分がどれほど苦しかったのか、知ってほしい。
自分がどれほど努力していたのか、認めてほしい。
そして、少しでもいいから、後悔してほしい。
時平は、その願いを見透かしていた。
『さあ、諏訪貴信』
『あなたは、どうしますか?』
画面の下に、二つのボタンが現れた。
「公開して復讐する」
「記事を削除する」
貴信の指が震えた。
公開すれば、長年抱えてきた感情を、相手にぶつけることができる。
削除すれば、その機会を自分から手放すことになる。
「道真……」
貴信は振り返った。
「俺は、どうすればいい?」
道真は目を閉じた。
「私に聞くな」
「でも、あんたは千年間、恨みを抱えてきたんだろう?」
「そうだ」
「だったら、答えを知っているはずだ」
道真はしばらく黙っていた。
やがて、静かに口を開いた。
「私は、答えを知らなかったからこそ、ここにいるのだ」
貴信は画面に向き直った。
時平は笑っていた。
その笑みを見た瞬間、貴信は気づいた。
時平は、自分が復讐することを望んでいる。
しかし、それだけではない。
自分が復讐を諦めることさえ、時平にとっては都合がよいのかもしれない。
どちらを選んでも、時平の用意した物語の中で動くことになる。
ならば。
貴信はキーボードに手を置いた。
そして、記事の本文を書き換え始めた。
『俺は、あなたを許したわけではない』
時平の笑みが消えた。
貴信は続けた。
『今でも、悔しいと思うことはある。認めてほしかったと思うこともある。あのとき、もっと違う言葉をかけてほしかったと思うこともある』
『でも、俺の人生を、あなたへの復讐だけに使いたくはない』
『俺は、あなたに謝らせるために文章を書くのではない』
『あなたを見返すためだけに、書き続けるのでもない』
『俺は、俺が書きたいから書く』
貴信は最後の一文を入力した。
『俺の文章の意味を、俺の恨みだけに決めさせない。』
そして、公開ボタンではなく、保存ボタンを押した。
画面が激しく点滅した。
『選択が確認できません』
『公開してください』
『公開してください』
『公開してください』
同じ文字が、何度も繰り返された。
時平の顔が歪んだ。
『なぜ公開しない!』
「これは、俺の文章だ」
貴信は言った。
「いつ公開するかも、何を書くかも、俺が決める」
その瞬間、妄執ランキングが崩れ始めた。
第一位、諏訪貴信。
妄執度100%。
その数字が、99%、98%と下がっていく。
やがて、ランキングから貴信の名前が消えた。
道真の身体を覆っていた黒い染みも、少しずつ薄くなっていった。
「貴信……」
道真が驚いたように声を上げた。
「お前は、何をした?」
「何も。まだ何も終わっていないよ」
貴信は画面を見つめた。
「ただ、自分の恨みを、誰かを傷つけるために使うのはやめようと思っただけだ」
道真は、長い間、貴信を見つめていた。
そして、初めて穏やかな表情を浮かべた。
「そうか……」
しかし、その安堵は長く続かなかった。
パソコンから、乾いた笑い声が響いた。
時平だった。
『素晴らしい。実に素晴らしい選択です』
画面には、新しい記事が表示されていた。
作者は、藤原時平。
タイトルは、
『復讐を諦めた者は、本当に救われるのか?』
本文には、たった一つの文章が記されていた。
『諏訪貴信は、自分の恨みを手放したつもりでいる。しかし、彼はまだ知らない。自分が十五年前に、誰を傷つけたのかを』
貴信の顔から血の気が引いた。
「……誰を傷つけた?」
その瞬間、スマートフォンにメールが届いた。
差出人は、十五年前に貴信が文章を読んでもらいたいと願っていた人物だった。
件名は、
『あなたに、どうしても伝えたいことがあります』
貴信は、震える手でメールを開いた。
そこには、短い文章が書かれていた。
『ずっと、あなたに謝りたかったことがあります』
『あのとき、私はあなたの文章を読んでいました』
『そして、あなたが知らないところで、私は――』
文章は、そこで途切れていた。
画面が暗くなる。
最後に、時平の声が聞こえた。
『諏訪貴信さん』
『あなたが本当に恐れているのは、誰かに認められないことではありません』
『あなたが十五年間、信じ続けてきた物語が、間違っていたかもしれないということです』
午前二時三十七分。
貴信は、メールの続きを待っていた。
そして、初めて思った。
もしかしたら、自分はずっと、誰かを恨むことで、自分の過去を説明しようとしていたのではないか。
もし、そうだとしたら。
自分が十五年間抱えてきた妄執は、いったい何だったのだろう。
その答えを知るために、貴信はメールの続きを開こうとした。
しかし、画面には新しい通知が表示された。
『送信者のアカウントは存在しません。』
そして、もう一つ。
『菅原道真が、ランキングから消失しました。』
貴信は顔を上げた。
道真の姿は、もうどこにもなかった。
ただ、パソコンの画面に、見覚えのない下書きが一つ残されていた。
タイトルは、
『藤原時平が、最も恐れているもの』
作者は、菅原道真。
本文は空白だった。
しかし、下書きの最終更新時刻は、今からわずか数秒前だった。
貴信は、ゆっくりとキーボードに手を伸ばした。
今度は、誰かのためでも、誰かへの復讐のためでもない。
真実を知るために、書こうとしていた。
そのとき、空白だった本文に、一行だけ文字が浮かび上がった。
『時平もまた、誰かに認められたかったのだ。』
貴信は息を止めた。
もし、それが本当なら。
この千年にわたる復讐の物語は、いったい誰が、何のために始めたのだろうか。
そして、藤原時平が本当に恐れているものとは――。
その答えは、まだ誰も知らなかった。




