妄執〈完〉
午前五時五十二分。
諏訪貴信は、閉じたパソコンを見つめていた。
夜が明け始めている。
千年の妄執は終わった。
菅原道真も、藤原時平も、それぞれの物語へ戻った。
最後の読者も、物語の外へ出ていった。
そう思っていた。
しかし、スマートフォンには、まだ通知が残っていた。
最後の読者さんが、あなたをフォローしました。
「……フォロー?」
貴信はアプリを開いた。
アカウント名は、最後の読者。
プロフィールには、何も書かれていない。
投稿もない。
フォローしている人は、たった一人。
諏訪貴信。
「なんだよ……」
貴信は、そのアカウントを開いた。
そこには、記事が一つだけ公開されていた。
タイトルは、
『物語の外側にいる人へ』
貴信は、ゆっくりと記事を開いた。
『あなたは、物語が終わったと思っているでしょう。
菅原道真の怒りは、少しずつほどけた。
藤原時平は、自分の過ちを認め始めた。
あなたも、自分の妄執と向き合った。
だから、物語は終わった。
しかし、私は知っています。
物語の外側にも、物語があることを。
あなたが文章を書く前にも、あなたの人生は続いていた。
あなたが文章を書き終えたあとも、あなたの人生は続いていく。
物語は、人生そのものではありません。
けれど、人生の一部を切り取り、誰かに渡すことはできます。
私は、それを読んでいました。
あなたが最初に書いた文章も。
誰にも読まれなかった文章も。
あなたが、もう書くのをやめようと思った夜も。
私は、ずっと読んでいました。
だから、お願いがあります。
どうか、次の物語を書いてください。
今度は、誰かを見返すためではなく。
誰かを許すためだけでもなく。
あなたが、あなた自身の物語を書いてください。
私は、それを読みます。』
貴信は、記事を読み終えた。
「……誰なんだよ、お前」
返信しようとした。
しかし、コメント欄は閉じられていた。
代わりに、記事の下に一つだけボタンが表示されている。
「次の物語を書く」
貴信は、しばらくそのボタンを見つめた。
そして、クリックした。
新しい記事の編集画面が開く。
タイトル欄には、すでに文字が入力されていた。
『妄執のない世界』
「……これ、俺が書いたのか?」
本文は空白だった。
貴信は、キーボードに手を置いた。
最初の一文を考える。
何を書けばいいのだろう。
誰かを救う物語か。
誰かを傷つける物語か。
それとも、誰にも読まれない物語か。
考えているうちに、ふと、笑ってしまった。
「また、考えすぎてるな」
貴信は、何も決めずに書き始めた。
『ある朝、一人の男が目を覚ました。
男は、自分が何者なのか分からなかった。
誰かに認められたかったのか。
誰かを見返したかったのか。
それとも、ただ、自分の人生を生きたかったのか。
男は、まだ答えを知らなかった。
だから、今日も文章を書き始めた。』
貴信は、そこで手を止めた。
画面の右下に、文字数が表示されている。
百二十文字。
たったそれだけだった。
しかし、不思議と満足していた。
「……これでいいか」
保存ボタンを押した。
その瞬間、画面に通知が現れた。
最後の読者さんが、あなたの記事にスキしました。
貴信は、静かに笑った。
「読んでくれたんだな」
そのとき、記事の下に新しいコメントが表示された。
投稿者は、最後の読者。
『読みました。』
『今度は、あなたの物語ですね。』
貴信は返信を書こうとした。
しかし、その前に、もう一つコメントが届いた。
投稿者――菅原道真。
『貴信。』
『私も、次の文章を書いてみようと思う。』
続いて、藤原時平からもコメントが届いた。
『私もです。』
『今度は、誰かを倒すためではなく、自分を知るために。』
貴信は、三つのコメントを見つめた。
そして、返信欄に一言だけ入力した。
『楽しみにしています。』
午前六時十五分。
貴信はパソコンを閉じた。
いつもの朝が始まる。
顔を洗い、着替え、外へ出る。
早朝の空気は冷たかった。
街は、まだ静かだった。
貴信は走り始めた。
いつもの道。
いつもの景色。
いつもの自分。
けれど、少しだけ違っていた。
誰かに認められるために走っているわけではない。
誰かを見返すためでもない。
ただ、走りたいから走っている。
それだけでよかった。
しばらく走っていると、スマートフォンが震えた。
貴信は立ち止まり、画面を確認した。
新しい記事が公開されている。
作者は、最後の読者。
タイトルは、
『あなたが走っている間に』
貴信は、記事を開いた。
『あなたが走っている間に、私は一つのことを考えていました。
物語は、本当に終わったのでしょうか。
菅原道真は、自分の怒りを手放し始めた。
藤原時平は、自分の過ちを認め始めた。
あなたは、自分の文章を書き始めた。
それでも、私はまだ一つだけ、分からないことがあります。
あなたが書いた物語の中で、誰かを傷つけたのは誰だったのでしょう。
菅原道真でしょうか。
藤原時平でしょうか。
それとも、諏訪貴信でしょうか。
私は、まだ答えを知りません。
だから、次の物語を待っています。』
貴信は、スマートフォンを握りしめた。
「……まだ、続くのか」
画面の下に、記事の更新履歴が表示されていた。
最終更新時刻――午前六時十五分。
今だった。
貴信は、ゆっくりと顔を上げた。
朝日が、街の向こうから昇り始めている。
その光の中に、一人の少年が立っていた。
十五年前の物語に登場した少年。
古びた制服。
手には、一冊のノート。
少年は、貴信に向かって笑った。
「おはようございます」
貴信は、立ち止まった。
「……お前、どうしてここに?」
少年はノートを開いた。
「新しい物語が始まったからです」
「でも、俺はまだ何も公開していない」
「公開するかどうかは、関係ありません」
少年は、ノートを差し出した。
「あなたが書き始めた時点で、物語は始まっています」
貴信は、ノートを受け取った。
表紙には、見覚えのない文字が書かれていた。
『諏訪貴信の物語』
「……これは?」
少年は答えた。
「あなたが、これから書く物語です」
貴信はノートを開いた。
最初のページには、一行だけ書かれていた。
『この物語の主人公は、誰かに認められなくても生きていける人間になる。』
貴信は、思わず笑った。
「ずいぶん難しい主人公だな」
少年も笑った。
「だから、書くんです」
その瞬間、少年の姿が朝日の中に溶けていった。
貴信は、ノートを抱えたまま、再び走り始めた。
今度は、誰かに認められるためではなく。
誰かを見返すためでもなく。
自分の物語を、自分で生きるために。
その日の夜。
貴信は、新しい記事を公開した。
タイトルは、
『妄執のない世界』
本文は、短かった。
『妄執のない世界なんて、きっと存在しない。
人は、誰かに認められたい。
誰かに愛されたい。
誰かに忘れられたくない。
その願いが、時には人を苦しめる。
けれど、その願いがあるからこそ、人は文章を書くのかもしれない。
私は、まだ答えを知らない。
だから、これからも書いていこうと思う。』
記事を公開して、数分後。
最初のスキがついた。
投稿者は、最後の読者。
その次に、菅原道真。
そして、藤原時平。
貴信は、画面を見つめた。
三人の名前が並んでいる。
かつて、千年の妄執に囚われていた者たち。
今は、ただ一人の書き手の文章を読んでいる。
貴信は、静かにパソコンを閉じた。
そのとき、画面の隅に、小さな通知が表示された。
新しい読者が、あなたをフォローしました。
アカウント名は、
物語の外側。
プロフィールには、一文だけ書かれていた。
『私は、まだ読んでいない物語を待っています。』
貴信は、しばらくその文字を見つめていた。
そして、笑った。
「……まあ、いいか」
新しい物語は、もう始まっている。
今度こそ、自分の意志で。




