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NOTE  作者: 諏訪貴信


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呪いが終わった日

午前六時二十四分。


世界中のスマートフォンから、同時に通知音が鳴った。


たった一度。


それだけだった。


画面に表示されたのは、短いメッセージ。


「呪いは終了しました。」


人々は安堵した。


記事を削除する者。


スマートフォンの電源を切る者。


泣き出す者。


誰かに電話をかける者。


十年間、世界を覆っていた恐怖が、ようやく終わった。


……はずだった。


東京のあるマンションで、一人の男性がスマートフォンを見つめていた。


彼は、あの呪いの記事を読んだことがある。


「終わったのか……」


男性は深く息を吐いた。


そして、何気なくnoteを開いた。


いつものタイムライン。


いつもの記事。


いつもの「スキ」。


何も変わっていない。


男性は安心して、ある記事を開いた。


タイトルは、


『呪いが終わった日』


作者名は、見覚えのないものだった。


「誰だ、これ?」


記事の冒頭には、こう書かれていた。


私は、十年間、誰にも読まれなかった。


男性はスクロールした。


誰にも知られず、誰にも気づかれず、誰にも必要とされなかった。


でも、ある日、世界中の人間が呪いの記事を読むようになった。


そのとき、私は初めて理解した。


人間は、恐怖を共有するときだけ、他人に関心を持つのだと。


男性は眉をひそめた。


「……なんだ、これ」


続きを読もうとした。


しかし、その瞬間。


記事が消えた。


画面には、


「この記事は削除されました。」


という表示だけが残った。


男性は肩をすくめた。


「変なの」


そして、スマートフォンを閉じた。


そのときだった。


彼の背後で、誰かが言った。


「読んでくれて、ありがとう。」


男性は振り返った。


誰もいない。


窓も閉まっている。


玄関の鍵もかかっている。


それでも、確かに声がした。


「……誰だ?」


返事はなかった。


ただ、テーブルの上に置いてあった古い手帳が開いていた。


そこには、見覚えのない文字が書かれていた。


読者第一号。


その下に、


男性の名前があった。


一方、黒田は施設の地下で目を覚ました。


モニターはすべて消えている。


老人の姿もない。


四人の読者もいない。


静寂。


黒田はゆっくり立ち上がった。


「……終わったのか?」


自分のスマートフォンを確認する。


通知はない。


記事もない。


「水城真琴」の名前を検索しても、何も表示されなかった。


十年前の記録も。


PROJECT_SUKIも。


すべて消えていた。


まるで、最初から何もなかったかのように。


黒田は笑った。


「……本当に終わったんだな」


そのとき、


背後から声がした。


「黒田さん。」


黒田は振り返った。


真琴が立っていた。


九十一歳の姿。


白髪。


深い皺。


だが、その目には、穏やかな光が宿っていた。


「真琴……」


「お久しぶりです。」


「君は……本当に生きていたんだな」


真琴は頷いた。


「はい。」


黒田は俯いた。


「すまなかった。」


長い沈黙。


「君を利用した。君の苦しみを、実験に使った」


真琴は何も言わなかった。


「許してくれとは言わない。ただ……」


黒田は顔を上げた。


「なぜ、最後に俺を助けた?」


真琴は少し考えた。


「助けたつもりはありません。」


「じゃあ、なぜ?」


「黒田さんに、読んでほしかったんです。」


黒田は苦笑した。


「まだ読むのか」


「はい。でも、今度は違います。」


真琴はポケットから、小さなノートを取り出した。


表紙には何も書かれていない。


「これは?」


「私の日記です。」


「公開するのか?」


真琴は首を振った。


「しません。」


黒田は驚いた。


「誰にも読ませないのか?」


「ええ。」


真琴はノートを胸に抱いた。


「私の人生は、誰かに読んでもらわなくても、私のものですから。」


黒田は黙った。


その言葉を、十年前に聞いていたら。


いや。


もっと早く、彼女の苦しみを数字ではなく、一人の人間の言葉として受け止めていたら。


何かが変わっていたのだろうか。


答えは出なかった。


真琴は出口に向かった。


「黒田さん。」


「なんだ?」


「最後に一つだけ、お願いがあります。」


「……何だ?」


真琴は振り返った。


「私のことを、記事にしないでください。」


黒田は頷いた。


「わかった。」


「美談にも、悲劇にも、しないでください。」


「……わかった。」


「私を、物語の登場人物にしないでください。」


黒田は目を閉じた。


「約束する。」


真琴は微笑んだ。


そして、去っていった。


黒田はその背中を見送った。


今度こそ、彼女を追わなかった。


彼女の人生を知ろうともしなかった。


ただ、一人の人間として、彼女を見送った。


それが、黒田にできる唯一の償いだった。


三日後。


黒田は退職届を提出した。


会社は彼を引き止めなかった。


十年間の記録は、すべて消えていた。


彼を罪に問う証拠もなかった。


だが、黒田は逃げるつもりはなかった。


彼は自分の名前で、ある文章を書き始めた。


タイトルは、


『私がしたこと』


内容は、誰にも読ませないつもりだった。


自分の過ちを忘れないために。


二度と同じことを繰り返さないために。


黒田は最後の一文を書いた。


人間を理解したつもりになったとき、私は人間を実験材料に変えていた。


保存ボタンを押す。


そして、公開せずにパソコンを閉じた。


その夜。


黒田は久しぶりに、ぐっすり眠った。


夢は見なかった。


ページをめくる音も聞こえなかった。


午前六時二十四分。


目を覚ました黒田は、窓を開けた。


朝日が差し込んでいる。


世界は、いつもと同じだった。


そのことが、少しだけ嬉しかった。


しかし。


その日の午後。


noteの運営チームに、一通の問い合わせが届いた。


送信者は不明。


件名は、


「削除された記事について」


本文は、たった一行。


「水城真琴さんの記事を、もう一度公開してください。」


担当者は過去のデータを調べた。


該当する記事は存在しない。


アカウントも存在しない。


問い合わせを削除しようとした。


その瞬間、画面にエラーが表示された。


「この操作は実行できません。」


担当者は首を傾げた。


もう一度試す。


同じエラー。


三度目。


画面が切り替わった。


そこには、古い記事のタイトルが表示されていた。


『私は、誰かに見つけてほしい』


担当者は息を呑んだ。


記事の公開日は、十年前。


作者は、水城真琴。


そして、その横に、


小さな数字があった。


スキ:1


担当者は呟いた。


「……これだけは、残っていたのか」


記事を開こうとした。


だが、指を動かす直前。


画面に一つの文章が現れた。


「この先は、読まないでください。」


担当者は手を止めた。


しばらく考えたあと、ブラウザを閉じた。


記事を開かなかった。


誰にも連絡しなかった。


スクリーンショットも撮らなかった。


ただ、そのまま仕事に戻った。


その夜。


担当者の自宅に、一通のメールが届いた。


差出人は、水城真琴。


件名は、


「ありがとう」


本文には、こう書かれていた。


あの記事に最初のスキをくれた人のことを、私は十年間、忘れられませんでした。


あなたが誰なのか、今も知りません。


でも、あのとき、私は確かに嬉しかった。


それだけは、本当です。


担当者は、メールを何度も読み返した。


そして、返信した。


「どういたしまして。」


送信ボタンを押す。


メールは正常に送信された。


宛先は存在しないはずだった。


それでも、エラーにはならなかった。


担当者は不思議に思ったが、それ以上調べなかった。


やがて、眠りについた。


翌朝。


メールボックスには、返信が一通届いていた。


「これで、私の物語は終わりです。」


その頃。


どこかの老人ホーム。


九十一歳になった真琴は、窓辺の椅子に座っていた。


膝の上には、あの小さなノート。


彼女は最後のページを開いた。


そして、ゆっくりと書いた。


「私は、九十歳まで生きたくないと思っていた。」


少し考える。


その下に続けた。


「でも、九十一歳になった今、もう少し生きてみようと思う。」


窓の外で、鳥が鳴いた。


真琴はペンを置いた。


ノートを閉じる。


誰にも公開しない。


誰にも評価されない。


誰にも「スキ」を押されない。


それでも、彼女は満足していた。


彼女の人生は、彼女のものだった。


そのとき、施設の職員が声をかけた。


「水城さん、お手紙が届いていますよ。」


真琴は顔を上げた。


「誰から?」


職員は封筒を確認した。


「差出人は……書いてありませんね。」


真琴は封筒を受け取った。


中には、一枚の紙が入っていた。


そこには、たった一行。


「あなたの物語を、勝手に終わらせてごめんなさい。」


真琴は長い間、その文字を見つめていた。


そして、


静かに封筒を閉じた。


「……もう、いいんですよ。」


誰に向けた言葉なのか。


職員にはわからなかった。


真琴は窓の外を見た。


穏やかな午後だった。


世界は、まだ続いている。


物語が終わっても。


読者がいなくなっても。


人間は、生きていく。


そのことを、真琴は初めて信じられた。


呪いが終わった日。


それは、


誰かが死んだ日でも。


誰かが勝った日でもなかった。


一人の人間が、


自分の人生を取り戻した日だった。


――だが。


その夜、世界のどこかで、


十年前に亡くなったはずのアカウントが、


静かにログインした。


ユーザー名は、


mako_90


プロフィール欄には、


新しい一文が書かれていた。


「私は、まだ書いています。」


そして、投稿画面には、


未公開の記事が一つ。


タイトルは――


『第二の呪い』


公開予定日時。


未定。

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