九十歳まで生きたくない
「さあ、次はあなたの番。」
真琴の声が消えた。
黒田は立ち尽くしていた。
目の前には四人の読者。
誰も動かない。
誰も喋らない。
ただ、全員が黒田を見ている。
そのとき――
部屋の奥から、
コツン。
杖の音がした。
コツン。
もう一度。
黒田が振り返る。
暗い廊下の奥から、
老人が歩いてくる。
白髪。
黒いスーツ。
細い身体。
右手には古い杖。
年齢は――
九十歳前後に見えた。
老人はゆっくりと黒田の前まで来ると、
微笑んだ。
「久しぶりだね、黒田君。」
黒田の顔が固まった。
「……あなたは」
老人は名乗らなかった。
ただ、
ポケットから一枚の古い写真を取り出した。
そこには、
若い黒田。
真琴。
そして――
この老人が写っていた。
黒田の記憶が一気に蘇る。
十年前。
真琴の実験を始める前。
何度も黒田の前に現れ、
「人間は、死ぬまで読者であり続ける」
と言っていた男。
研究者。
資産家。
そして、
この呪いを最初に設計した人物。
「……先生」
老人は笑った。
「ようやく思い出したか。」
黒田は震えた。
「あなたは、もう亡くなったと……」
「死んでいない。」
老人は杖をついた。
「私は、まだ生きている。」
そして、
静かに続けた。
「だが――」
老人は自分の手を見る。
震えている。
「私は、九十歳まで生きたくない。」
黒田は言葉を失った。
「……何を言ってるんです?」
老人は笑わなかった。
「九十歳という数字はね。」
「長寿ではない。」
「私にとっては――呪いだ。」
部屋のモニターに、
一つの数字が表示された。
90
その下に、
大量の記録が並ぶ。
老人の人生。
幼少期。
研究者時代。
家族。
失った友人。
成功。
金。
名声。
そして、
九十歳の誕生日までのカウントダウン。
「私は若い頃から、死ぬことが怖かった。」
老人は言った。
「だが、ある日気づいた。」
「人間は死を恐れているのではない。」
黒田を見る。
「自分が忘れられることを恐れている。」
モニターに、
無数の人間の顔が映る。
誰かが記事を書く。
誰かが読む。
誰かが「スキ」を押す。
誰かが忘れる。
老人は言った。
「私は九十歳になった瞬間、世界から消える。」
「誰も私を読まなくなる。」
「だから――」
老人は微笑んだ。
「私は、世界中の人間を読者にした。」
黒田の顔が青ざめる。
「……呪いは、あなたが作った?」
「正確には違う。」
老人は首を振った。
「私は、人間の中にあるものを見つけただけだ。」
「承認欲求。」
「嫉妬。」
「孤独。」
「恐怖。」
「そして――」
老人は真琴の名前を口にした。
「水城真琴。」
黒田が振り返る。
モニターに、
真琴が映った。
十年前の彼女。
泣いている。
笑っている。
怒っている。
そして、
最後に、
こちらを見る。
老人は言った。
「彼女は最高の読者だった。」
「自分が傷つけられた理由を理解するために、誰よりも深く読んだ。」
「だから彼女に教えた。」
「人間は、呪いを受け取るだけではない。」
「自分から次の人間へ渡すのだと。」
黒田が叫ぶ。
「じゃあ、真琴は利用されたんですか!」
老人は答えない。
代わりに、
別の映像が流れた。
真琴が一人で文章を書いている。
画面には、
たった一行。
「私は、九十歳まで生きたくない。」
黒田が息を呑む。
「……これを書いたのは?」
「真琴だ。」
老人は言った。
「彼女もまた、長く生きることを望まなかった。」
「だから私たちは契約した。」
「彼女の呪いと、私の呪いを一つにした。」
黒田は理解できない。
「二人の呪い……?」
老人は頷く。
「私は、九十歳まで生きたくない。」
「彼女は、もう誰にも見られたくない。」
「だから――」
モニターが真っ黒になる。
白い文字。
「見られないまま、世界に残る。」
老人は笑った。
「それが、この呪いの完成形だ。」
その瞬間、
施設内の時計が一斉に止まった。
午前六時二十四分。
十年前、
真琴のスマートフォンが最後に通信した時刻。
老人は黒田に近づいた。
「黒田君。」
「はい……」
「君には最後の仕事がある。」
「何ですか。」
老人は、
杖の先で黒田の足元を指した。
そこには、
一冊の白いノートが置かれていた。
表紙には、
こう書かれている。
『90歳まで生きたくない人へ』
黒田は後ずさった。
「……これは?」
老人は答えた。
「最後の記事だ。」
「誰が書くんです?」
老人は、
黒田の肩に手を置いた。
そして、
静かに言った。
「君だ。」
その瞬間、
モニターに新しい数字が表示された。
89
364日
23時間
59分
そして――
59秒
老人の九十歳の誕生日まで、
あと一年。
黒田は震えながら、
白いノートを開いた。
一ページ目には、
すでに文章が書かれていた。
「私は、九十歳まで生きたくない。」
二ページ目。
「だから、あなたに読んでほしい。」
三ページ目。
「あなたが読んだ瞬間、私の人生はあなたの中に移る。」
黒田はページを閉じた。
しかし、
閉じたはずのノートから、
真琴の声が聞こえた。
「黒田さん。」
「読んで。」
そして、
老人が笑った。
「九十歳まで生きるのは、私一人でいい。」
黒田は顔を上げる。
老人の顔が、
ゆっくり変化していた。
九十歳の老人ではない。
もっと若い。
七十歳。
六十歳。
五十歳。
四十歳。
そして――
二十代。
そこにいたのは、
黒田が知らないはずの、
若い頃の老人だった。
「私はね。」
若い男が笑う。
「死にたくないんじゃない。」
「九十歳になった自分を――」
「誰にも読まれたくないんだ。」
そして、
部屋のすべての画面に、
最後の文章が表示された。
「呪いの目的は、殺すことではない。」
「人生を、誰かに読ませ続けることだ。」
その瞬間。
世界中で、
新しい記事が公開された。
作者名は、
「90歳」
タイトルは――
『私を読むな。』
そして、
その記事の一番下には、
小さく、
こう書かれていた。
「読んだ人は、次の読者を一人選んでください。」
黒田は、
ようやく気づいた。
この呪いは、
死ぬためのものではない。
老人が九十歳になるまでに、
世界中を――
読者で埋め尽くすためのものだった。




