噂〈蜜Ⅰ〉
それから毎日、『夏の匂い』は少しずつ長くなっていった。
増えているのは、誰かの人生だった。
ある日は、「高校の文化祭でギターを弾いた」という話が追加されていた。別の日には、「娘が生まれた日のこと」が書かれていた。文章の癖はバラバラだ。句読点の打ち方も、一人称も違う。
まるで何百人もの人間が、一つの記事を書いているようだった。
いや、違う。
何百人もの人間から、文章を奪っているのだ。
ネット上では、この現象を調べる者たちが現れ始めた。彼らは自らを「観測者」と名乗った。
観測者たちは、記事にスキを押した人間の共通点を調べ始めた。そして、一つの事実を突き止める。
被害者は全員、「文章を書くことが好きな人間」だった。
プロの小説家。 人気のクリエイター。
日記を書き続けている会社員。
誰にも読まれなくても、十年間ブログを書いていた老人。
文章を愛している人間ほど、症状は重かった。
ある小説家は、妻の名前を思い出せなくなった。
彼は生涯を文章で生きてきた男だった。名前を覚えるときも、風景を記憶するときも、頭の中で言葉に変換していた。その「言葉」が失われたことで、世界を認識する能力そのものが壊れ始めたのだ。
そして、最も恐ろしいのは、誰一人として『夏の匂い』を嫌いになれないことだった。
被害者は皆、口をそろえて言う。
「あの記事は、本当に美しい。」
「もう一度読みたい。」
「自分の文章を捧げてもいいと思ってしまう。」
まるで、恋をしているようだった。
観測者たちは記事のアーカイブを調べた。しかし、奇妙なことに、『夏の匂い』の文字数は増え続けているにもかかわらず、サーバーのデータ上では投稿された瞬間から一文字も変更されていない。
つまり、増えている文章は、この世界のデータとして存在していない。
では、一体どこに書かれているのか。
あるプログラマーが、恐るべき仮説を口にした。
「この記事は、人間の記憶に直接書き込まれている。」
その日を境に、僕は記事を閉じることができなくなった。
ブラウザを閉じても、スマホの電源を切っても、文章は頭の中に浮かんでくる。
電車の中で。
風呂の中で。
夢の中で。
知らない誰かの人生が、延々と流れ込んでくる。
そして、ある夜。
記事の最後に、今まで存在しなかった一文を見つけた。
『あなたは、どうして文章を書くのですか?』
その下には、入力欄があった。
もちろん、そんな機能は存在しない。
だが、カーソルは点滅している。
僕は恐ろしくなってパソコンを閉じた。しかし、カーソルは瞼の裏で点滅し続けていた。
眠れないまま朝を迎える。
すると、画面に新しい文章が追加されていた。
『まだ、思い出せませんか?』
『あなたの言葉は、元々あなたのものではありません。』
『私たちは、返してもらっているだけです。』
その瞬間、僕はあることに気づいた。
『夏の匂い』の記事は、一人の作者によって書かれたものではない。
それは、このインターネットが生まれてから消えていった、すべての書き手たちの集合体だったのだ。
誰にも読まれずに消えたブログ。
閉鎖された個人サイト。
サービス終了とともに失われた日記。
書きかけの小説。
送られることのなかったラブレター。
人類がネットの海に捨ててきた無数の言葉たちが、一つの記事となって、今も誰かの「スキ」を待っている。
そして、その記事には、まだ続きがあった。
『次は、あなたの夏をください。』




