自分を呪う
黒田は、画面に表示されたファイルを見つめていた。
『suki』
十年前。
真琴のスマートフォンから送信された、最後のデータ。
黒田はその存在を知っていた。
――いや。
知っているどころではなかった。
そのデータを、
自分で受け取っていた。
十年前の午前六時二十四分。
黒田の個人端末に、一通のメールが届いていた。
差出人――
水城真琴。
件名なし。
本文なし。
添付ファイル、
『suki』
黒田は当時、そのメールを開かなかった。
正確には、
開くことができなかった。
ファイルにはパスワードが設定されていた。
そして、そのパスワードを知っているのは――
真琴だけだった。
黒田は何度も彼女に連絡した。
しかし、
返事はなかった。
その日の午前九時。
真琴のアカウントが消えた。
黒田は会社の管理画面を開いた。
「退会処理」
そこには、すでにチェックが入っていた。
処理者:黒田
黒田は息を止めた。
「……俺は、やってない。」
もう一度確認する。
間違いなく、
自分の社員IDだった。
しかし、その時間。
黒田は自宅にいた。
会社のシステムへログインした記録すらない。
それなのに、
システム上では黒田が真琴を退会させたことになっていた。
その日の午後。
黒田は上司に報告した。
「真琴さんの件ですが……」
上司は資料から目を上げなかった。
「もう終わったことだ。」
「でも、退会処理が……」
「本人が消えたいと言ったんだろ?」
「そういう問題じゃ――」
上司は黒田を見た。
「黒田。」
「はい。」
「余計なことを調べるな。」
その言葉が、
妙に冷たかった。
黒田は黙った。
そして、その夜。
会社のサーバーから、
真琴に関するデータを一つだけコピーした。
『suki』
それが、
彼の最初の隠しデータになった。
それから十年。
黒田は一度も、そのファイルを開けなかった。
開けなかったのではない。
怖くて、開かなかった。
だが今。
廃データセンターのモニターに、
同じファイル名が表示されている。
黒田は震える手でクリックした。
画面が暗くなる。
数秒後。
一つの文章が表示された。
『黒田さんへ』
黒田の呼吸が止まる。
続いて、
一行。
『あの日、私を見送ったのは誰?』
黒田は椅子から立ち上がった。
「……何を言ってる。」
画面に、次の文章が浮かぶ。
『私は駅に行った。』
『でも、電車には乗っていない。』
黒田の顔から血の気が引いた。
「嘘だ。」
さらに文章。
『午前六時十九分。』
『ホームにいた。』
『午前六時二十三分。』
『誰かが私の名前を呼んだ。』
そして、
『私は、その人についていった。』
黒田は画面を見つめたまま動けなくなった。
その記憶だけが、
十年間、
完全に消えていた。
いや。
消していた。
十年前の朝。
黒田は駅にいた。
真琴の姿を見つけていた。
彼女はホームに立っていた。
黒いコート。
小さなバッグ。
泣き腫らした目。
黒田は遠くから声をかけた。
「真琴さん。」
彼女が振り返る。
「……黒田さん?」
黒田は言った。
「少し、話しませんか。」
真琴は黙っていた。
そして、
黒田の後ろにある階段を見た。
「……どこへ行くんですか?」
黒田は答えなかった。
ただ、
「あなたを助けたい」
と言った。
真琴はしばらく考えた。
そして、
黒田についていった。
そこから先の記憶が、
黒田にはない。
モニターに新しい文章が表示された。
『あなたは私を消した。』
黒田は首を振った。
「違う。」
『あなたは私のアカウントを消した。』
「違う!」
『あなたは私の記事を保存した。』
「……。」
『あなたは私の言葉を研究した。』
黒田は何も言えなかった。
最後に、
ゆっくりと文字が表示された。
『そして、私が消えたことを利用した。』
画面が突然消える。
暗闇。
その中で、
背後から声がした。
「黒田さん。」
黒田は振り返った。
誰もいない。
ただ、床に一枚の紙が落ちていた。
拾い上げる。
そこには、
十年前の真琴の字で、
こう書かれていた。
『私がいなくなったら、次はあなたです。』
黒田の手が震えた。
その瞬間、
廃データセンターのすべてのモニターが一斉に点灯する。
画面いっぱいに、
同じ時刻が表示された。
06:24
そして、その下に、
新しいカウントダウン。
00:59:59
黒田は悟った。
十年前に始まった実験は、
まだ終わっていなかった。
むしろ――
真琴が失踪した午前六時二十四分から、本当の実験が始まっていた。




