suki
真琴が消える三日前。
午前二時十七分。
彼女は自宅のパソコンの前に座っていた。
部屋の明かりは、モニターだけ。
画面には、自分の記事が表示されている。
タイトルは、
『お願いだから、もう読まないでください』
公開から三時間。
閲覧数は、すでに十万を超えていた。
真琴は、その数字を見つめていた。
「……なんで。」
コメント欄には、知らない人間の言葉が並んでいる。
「構ってちゃん」
「被害者ぶるな」
「そんなに嫌なら消えれば?」
「また炎上狙い?」
「この人、前から痛かったよね」
一つずつ読んでいるうちに、手が震え始めた。
それでも真琴は画面を閉じなかった。
通知音が鳴る。
また一件。
また一件。
また一件。
誰かが記事をスクリーンショットしていた。
その画像には、彼女の文章の一部だけが切り取られていた。
そして、その下に、
「この人、頭おかしい」
と書かれていた。
その投稿には、すでに数千件の反応がついていた。
真琴はパソコンを閉じた。
しかし、スマートフォンが鳴る。
画面を見る。
知らない番号。
一度。
切れる。
数秒後。
また鳴る。
真琴は出なかった。
留守番電話に切り替わる。
無言。
十秒。
二十秒。
やがて、かすかな音だけが残った。
――笑い声。
真琴はスマートフォンを床に落とした。
翌朝。
玄関の郵便受けに、封筒が入っていた。
差出人はない。
中には一枚の紙。
そこには住所だけが書かれていた。
――自分の住所。
真琴は、その紙を見つめたまま動かなかった。
その日から、カーテンを開けなくなった。
外を見るのが怖かった。
コンビニにも行けない。
宅配便が来ても出ない。
インターホンが鳴るたびに、息を止める。
そして、二日目の夜。
パソコンの電源を入れると、知らないアカウントからメッセージが届いていた。
『見つけた。』
真琴はすぐにブロックした。
数秒後。
別のアカウントから届く。
『逃げても無駄。』
さらに別のアカウント。
『みんな見てるよ。』
真琴はパソコンの電源を抜いた。
部屋が静かになる。
その静けさの中で、彼女は小さく呟いた。
「……もう、嫌。」
そして、その夜。
最後の記事を書いた。
文章は何度も書き直された。
消して。
書いて。
また消して。
最後に残ったのは、
『お願いだから、もう読まないでください』
という一文だった。
その下に、真琴は長い文章を書いた。
自分が何をされたのか。
なぜ怖くなったのか。
なぜ文章を書くことが嫌になったのか。
そして最後に、
一行だけ残した。
『私を見ないでください。』
午前四時十二分。
公開。
それが、真琴がインターネット上に残した最後の操作だった。
午前四時十三分。
一件の「スキ」。
四時十四分。
二十七件。
四時十六分。
三百件。
四時二十分。
一万件。
真琴は、それを見ていた。
泣きながら。
「……読まないでって言ったのに。」
通知は止まらなかった。
スマートフォンが震える。
パソコンが鳴る。
メールが届く。
SNSで名前を呼ばれる。
知らない人間が、彼女の文章について語っている。
誰も彼女の気持ちを知ろうとはしなかった。
ただ、
「読む」
だけだった。
午前五時三十七分。
真琴はパソコンを閉じた。
スマートフォンの電源を切った。
そして、部屋の中央に座った。
しばらく動かなかった。
午前六時十一分。
監視カメラに、真琴の姿が映っている。
マンションのエントランス。
黒いコート。
小さなバッグ。
顔を隠すように俯いている。
真琴は一人で外へ出た。
それが、
最後の映像だった。
午前六時十四分。
駅の防犯カメラ。
真琴が改札を通る。
午前六時十九分。
ホーム。
午前六時二十三分。
電車が到着する。
真琴は乗った。
しかし、その先の駅では――
姿が確認できなかった。
防犯カメラにもない。
改札記録にもない。
タクシーにも乗っていない。
ホテルにもいない。
実家にも帰っていない。
銀行口座も動いていない。
携帯電話は、午前六時二十四分を最後に通信が途絶えた。
そして午前九時。
真琴のアカウントが消えた。
記事も。
プロフィールも。
過去の投稿も。
すべて。
運営側の記録には、
『ユーザーによる退会』
とだけ残された。
誰も騒がなかった。
炎上の熱が冷めれば、ネットの人間は次の話題へ移る。
真琴の名前も、数週間で検索されなくなった。
一年後。
誰も彼女のことを覚えていなかった。
――一人を除いて。
当時、推薦アルゴリズムの開発を担当していた黒田。
彼だけが、真琴の記事のバックアップを持っていた。
そして十年後。
彼は、そのデータを開いた。
削除されたはずの記事。
最後の文章。
『私を見ないでください。』
黒田は、その下に残っていた見えないデータを発見する。
本文には表示されない。
しかし、コードの中には、
一行だけ残っていた。
『いつか、みんなに同じ気持ちを味わわせたい。』
黒田は画面を見つめた。
そして気づいた。
真琴が最後に消した文章は、
記事からは消えていた。
だが、
システムには残っていた。
その瞬間。
黒田のパソコンに、存在しないはずの通知が表示された。
『読んだね。』
黒田の顔から血の気が引いた。
続いて、もう一行。
『今度は、あなたが見つかる番。』
十年前に消えた真琴。
彼女がどこへ行ったのか。
誰にも分からない。
ただ一つだけ。
失踪した日の午前六時二十四分。
彼女のスマートフォンから送信された、最後のデータがあった。
宛先は存在しないメールアドレス。
件名もない。
本文もない。
ただ、添付ファイルだけが一つ。
ファイル名は――
『suki』
だった。




