第203話:偽装の歯車と白銀の監査
王都シュトルツ。蒸気機関の黒煙が空を覆い、都市そのものが生き物のように膨張を続ける中、その心臓部とも言えるグレン商会・物流管理棟の面接室には、重苦しい静寂が漂っていた。
「……信じられん。たった五分で、この一ヶ月分の資材発注の帳簿をすべて暗算で照合したというのか?」
大商人グレンは、脂汗を滲ませながら手元の羊皮紙と、目の前に立つ小柄な少年を交互に見比べた。
泥色に染められた髪をキャスケットに押し込み、色付き眼鏡で瞳を隠したその少年――『セシル』と名乗る見習い丁稚は、傲岸なほど堂々と薄い胸を張っていた。
「当然です。グレン商会の帳簿は確かに複雑ですが、第五倉庫の魔酒の搬出記録と、タルタロス方面からの魔石の流入量にわずかな計算のズレが生じていましたよ。私が修正しておきました」
涼やかな声でそう言い放つセシルの背後には、無口な護衛として地味な装束を纏った従者が影のように控えている。
セシルの正体は、もちろん見習い丁稚などではない。ファルサス王国の天才少女、セレスティアである。
彼女は、以前大聖堂で『慈愛の聖域』を暴走させて監視網をホワイトアウトさせ、偽造伝票を紛れ込ませた作戦に続く、次なる一手としてこの絶対企業の心臓部への物理的な潜入を企てたのだ。
目的はただ一つ。組織の血液である「資金と物流」の末端に入り込み、微細な論理的遅延を仕込むこと。それを蓄積させることで、顔の見えない怪物が構築したシステム全体を内部から過負荷させ、自壊へと追い込む。
(ふふん、私の完璧な頭脳があれば、この巨大な歯車を狂わせるなんて造作もないわ。あの変態覗き魔に、本物の絶望を教えてやるんだから……!)
少女は心の中で快哉を叫び、不敵な笑みを隠すように色付き眼鏡を押し上げた。
「……よかろう。セシル、今日からお前を我が商会の中枢、特任経理係として採用する」
グレンの言葉に、少女は「計画通り」と心の中でほくそ笑んだ。
***
同時刻。王都を一望する隠れ家の最上階。
アンティークの執務机に深く身を沈めた少年の絶対者・トールは、クリスタルグラスの琥珀色の液体を揺らしながら、空中に展開された青白いホログラムを見つめていた。
「……くくっ。自ら俺の胃袋の中に飛び込んでくるとは、随分と度胸があるじゃないか」
『管理者権限:支配領域』を通じて、面接室の映像と音声は、一言一句違わず少年の脳髄へとリアルタイムで配信されていた。
泥色の髪と眼鏡で偽装したつもりだろうが、その不自然なまでの気品と、計算を終えた際に見せる誇らしげな「ドヤ顔」は、大聖堂で彼に牙を剥いた天才令嬢そのものだ。
「俺の監視網を欺けると思っているその傲慢さ、嫌いじゃない」
少年は、漆黒の金属棒の先端で机を軽く叩いた。
彼女の目的が、経理の内部からシステムを蝕むウイルス的破壊工作であることなど、社畜時代に数多の企業間暗闘を潜り抜けてきた彼の論理からすれば、設計図を見るよりも容易く解読できる。
普通なら即座に排除するか、地下牢へ放り込むべき不純物だ。
だが、少年の唇には残酷で、そして歪んだ慈愛を孕んだ笑みが浮かんでいた。
「排除? 冗談じゃない。……知力に全振りしたあの圧倒的な事務処理能力。使わない手はない」
都市の発展が極まり、自動生産の歯車が回り続ける中で、唯一のボトルネックとなっていたのが、膨大な「情報処理」を担う人員の不足だった。
天才少女の頭脳は、少年の帝国を回すための極上の『計算リソース』に他ならない。
「お前がバグを仕込む速度と、俺がお前に仕事を押し付ける速度。……どちらが上か、存分に負荷試験をしてやる」
少年は、極めて有能な部下を限界まで使い潰す、完璧な『ブラック企業の論理』を起動させた。
***
「な……なんなのよ、この仕事量はぁぁッ!!」
潜入から一週間後。
グレン商会の中枢、窓のない経理室で、少女は己の背丈ほどもある羊皮紙の山に埋もれながら、血走った眼で羽ペンを走らせていた。
最初は順調だった。持ち前の天才的な頭脳で帳簿を処理しながら、大森林からの木材発注をわずかに遅らせたり、魔酒の流通ルートに微細な矛盾を忍ばせたりと、芸術的なバグを仕込んでいたのだ。
だが、彼女が仕事を終わらせるたびに、どこからともなく新たな、そしてより高度な決算書類が雪崩のように降ってくるようになった。
『――セシル。第三工場の蒸気機関の燃料効率データが甘い。この計算式でやり直せ。それと、明日の朝までに新設する鉄道網の減価償却費の試算を出しておけ』
部屋に設置された魔導通信具から、感情を排した氷のような声が響く。
顔の見えない絶対者。彼女が復讐を誓った、あの「変態覗き魔」の声だ。
「ど、どうして一介の見習い経理に、国家予算規模の試算をさせるのよ! おかしいでしょ! これじゃバグを仕込む暇もないじゃない……っ!」
少女は涙目で叫んだ。前世の王宮で、無能な重臣たちの尻拭いで徹夜をしたあの地獄の日々がフラッシュバックする。
しかし、彼女の悲しい性として、不完全な書類や矛盾のある数字を見ると、天才のプライドが許さず、完璧に仕上げてしまうのだ。
「お嬢様、あまりご無理をなさいませんよう……」
傍らでリーゼが心配そうに紅茶を差し出すが、少女は「うおおおっ!」と唸り声を上げてペンを走らせ続けた。
そして、彼女が密かに仕込んだ渾身の「遅延バグ」。
ある農村からの小麦の買い付け価格を意図的に操作し、暴動の火種を蒔こうとした緻密な計算式。
しかし数時間後、通信具から再び冷徹な声が降ってきた。
『――セシル。第七農村の小麦の買い付け価格、小数点第三位に論理的なエラーがある。故意でないなら無能すぎるぞ。ついでに、その影響で生じる来季のインフレ率の再計算も追加だ』
「な、なんで気づくのよぉぉッ!?」
少女は机に突っ伏して絶望の声を上げた。
自分が何日もかけて構築した完璧な暗号が、まるで子供の落書きでも見るかのように、瞬時に解読され、あまつさえ「仕事」として差し戻されたのだ。
(あの化け物……私の正体に気づいているの!? 気づいた上で、私をタダ働きの歯車として扱き使っているというの!?)
屈辱と疲労で顔を真っ赤に染め上げる少女。
だが、その絶望の裏側に、彼女は奇妙な「熱」を感じていた。
前世で、彼女の知性を理解し、対等に渡り合える者など誰一人いなかった。だが今、この通信具の向こうにいる怪物は、彼女の放つ極めて高度な知略を完璧に受け止め、さらにその上を行く論理で叩き潰してくる。
「……絶対に、屈しないんだから。明日こそ、絶対に奴のアルゴリズムをすり抜ける致命的なバグを仕込んでやるわ……!」
少女は、負けず嫌いな瞳に反逆の炎を燃やし、再び羽ペンを握り直した。
***
「……素晴らしい。想定の三倍の速度で処理しやがった」
隠れ家の最上階。
少年は、ホログラムに次々と上がってくる完璧に処理された帳簿データを見て、歓喜の溜息を漏らしていた。
彼女が意地になって仕込んでくるバグは、そのどれもが高度で、少年の知的好奇心を強烈に刺激した。
それを論理で粉砕し、さらに重いタスクを与えると、彼女は怒りに頬を膨らませながらも、期待以上の精度で結果を返してくる。
「やはり、極めて優秀なリソースだ。……俺の帝国を回す、最高の『部下』だよ、セレスティア」
社畜時代に夢見た、完全に意思疎通ができ、圧倒的な能力で自分を支えてくれる理想の右腕。それが、かつて敵対し、今は俺のシステムの破壊を目論んでいる天才令嬢だという事実が、少年の歪んだサディズムと愉悦をこの上なく満たしていた。
互いに相手の正体も手口も、骨の髄まで理解している。
それでも二人は、決してその事実を口には出さず、表向きは「顔の見えない完璧な上司」と「有能すぎる天才経理係」として、魔導通信の回線越しに激しい知略の火花を散らし続けている。
「さあ、次の決算だ。泣き言を言う暇はないぞ、お嬢さん」
「言われなくても、三日徹夜してでも終わらせてやるわよ! このブラック上司!」
見えない盤面の上で、冷徹な絶対者と不屈の天才少女による、奇妙で過酷な「監査」という名のすれ違いのラブコメディは、深夜の王都に静かな熱狂を生み出しながら、終わることなく続いていくのであった。




