第202話:天頂のハッキングと星の買収(M&A)
迷宮都市タルタロスの深淵、第百階層。
無重力の星海を模した暗黒の空間には、鼻腔を突く焦げたオゾンの匂いと、蛍のように儚く明滅する光の塵だけが澱んでいた。
それはつい先刻、星の理を管理する『監視者』が、トールの支配領域を「初期化」するために差し向けた十二体の天使――高次システムの修正プログラムたちが、極大の雷霆によって無惨にデコンパイル(分解)された残骸であった。
「……脆いものだな。管理者権限を握っているという万能感は、得てして思考を鈍らせ、セキュリティを穴だらけにする」
少年の絶対者・トールは、月光を弾く漆黒の金属棒を無造作に肩に担ぎ、宙を漂う光の残滓を冷徹な眼差しで射抜いた。
三十代の社畜時代、彼は無能な上層部が丸投げしてくるバグまみれのシステムを、幾度となく血走った眼で解体し、再構築してきた。その泥臭い実戦経験からすれば、先ほどの天使たちの猛攻は、ただ出力の暴力に頼り切っただけの、稚拙で洗練を欠くスクリプトに過ぎなかった。
トールは無重力の中に浮遊したまま、右手の金属棒の先端を、心臓の鼓動のように脈動する紫色の超巨星『制御核』へと突き立てた。
「インフラを荒らされたお返しだ。……今度は、こちらから貴様たちの『IPアドレス』を叩かせてもらおうか」
彼が発動させたのは、単なる破壊の術式ではない。
『管理者権限:支配領域 Lv.5』と『雷魔法 Lv.6』の極致を融合させた、概念的な逆探知であった。
天使たちがどの次元の座標から転移してきたのか。消滅の刹那に彼らがシステムへ送信しようとした「エラーログ」の微弱な魔力波長を、知力210を誇るトールの脳髄がミリ秒単位で捕縛し、解析していく。
「……見つけた。大龍脈のさらに深奥、物理法則が剥落した『バックエンド』か。だが、魔力という導線で繋がっている以上、俺の雷から逃げられる場所など存在しない」
トールの口角が、獲物を追い詰めた捕食者のように深く、残酷に吊り上がる。
マザー・コアを通じて汲み上げられた莫大な熱量が、少年の論理によって一本の鋭利な「魔力の楔」へと凝縮される。
トールは、その楔を、星のシステムの中枢へ向けて全力で叩き込んだ。
「ハッキング、開始だ」
***
天上の彼方。星の理を管理する、あまりに白すぎる空間。
無限の純白の中央で、星の生命と循環を映し出していた巨大な天球儀が、突如として悲鳴のような警告音を鳴り響かせた。
「……何事だ。ターミナル(使徒)たちからの応答が、完全にブラックアウトしているだと?」
玉座に腰を下ろす、銀髪と黄金の瞳を持つ存在――『監視者』は、その完成された無表情を、初めて明確な「戦慄」に歪ませた。
絶対的な削除権限を持つはずの天使たちが、地上の一地点で瞬時に抹消された。そればかりか、今度は天球儀を構成する魔力ホログラムの表面に、黒と青が入り混じった不吉な「亀裂」が走り始めていた。
「外部からの論理干渉だと? 馬鹿な、ここは高次元の隔離領域だ。地上の卑小な存在が、次元の壁を越えて干渉するなど、システム上あり得ない……!」
「あり得ない、か。……古いシステムにしがみついた管理者が、決まって吐く無能な言い訳だな」
「――何者だッ!」
オブザーバーが玉座を蹴って立ち上がった瞬間、白亜の空間の中央、天球儀の直上に青白いノイズが走り、一つのホログラムが実体化した。
それは、蒼黒の鱗羽鎧を纏い、不敵な笑みを浮かべる一人の「少年」の姿だった。
物理的な肉体ではない。大龍脈のネットワークを強引に逆流し、高次元領域に己の情報体を展開させるという、神域を侵す情報処理能力。
『……初めましてだな、天上の管理者殿。俺の全自動プラントに、ずいぶんと野蛮なウイルスを送り込んでくれたじゃないか』
ホログラムの少年――トールの声は、物理的な音波を介さず、オブザーバーの存在中枢を直接揺さぶるような重圧を伴っていた。
「貴様が……タルタロスのマザー・コアを書き換えた、異常個体か。ニンゲンの器を借りてはいるが、その魔力の波長は星の理から完全に逸脱している。目的は何だ。なぜ大龍脈を壟断し、世界の均衡を乱す」
オブザーバーの黄金の瞳が、絶対零度の殺意を帯びてトールを射抜く。
『バランスだと? 笑わせるな』
トールの映像は、退屈そうに肩をすくめた。
『大龍脈に無駄な魔力を溜め込み、飽和すれば迷宮という排出口から魔物を吐き出し、人間に間引かせる。……こんな非効率極まりないマッチポンプを「バランス」と呼んでいるなら、お前はただの無能なオペレーターに過ぎない』
「無能だと……? 我は数千年にわたり、この星の命脈を維持してきたのだぞ!」
『だから古臭いと言っているんだ』
トールの声が、氷のような冷徹さと、圧倒的な支配者の傲慢さを帯びて響く。
『俺が地上で何を構築したか、その節穴の目で見ていなかったのか? 俺は経済と物理の規格によって、人間どもを全自動の生産と消費の歯車へと変質させた。誰もが俺の提供するインフラに依存し、喜んで富を俺の蔵へと運び続けている。……だが、それを永遠に駆動させ続けるための「エネルギー」が、圧倒的に足りないんだ』
少年のホログラムは、白亜の空間を舐めるように見渡し、値を踏む商人のように目を細めた。
『お前たちの管理権限と、この星を満たす大龍脈のすべて。……俺の巨大な企業体を動かすためのバッテリーとして、俺が「買収(M&A)」してやる』
「神の座を買収だと……? 正気か。貴様は、星の理そのものを己の胃袋で消化するつもりか!」
『狂っているのは、死に体のシステムに固執するお前たちだ。安心しろ、俺が最適化してやる。無駄な魔物の発生はゼロにし、大龍脈はすべて俺の工場とインフラへ直結させる。お前という管理者は不要だ。今日をもって――クビ(解雇)にしてやるよ』
「思い上がるな、地上の塵がッ!」
オブザーバーは激昂し、右手を虚空へ薙いだ。
白亜の空間全体が眩い白光に呑まれ、高次元の存在だけが振るうことのできる「強制初期化」の魔力波が、トールのホログラムへと襲い掛かる。
だが、トールは眉一つ動かさなかった。
『……遅いな』
トールのホログラムの周囲に、ミスリルの超伝導回路が網目状に展開され、青白い障壁が形成される。オブザーバーの放った「権限」は、その障壁に触れた瞬間、パキィィィンッ! という硬質な音を立てて霧散した。
「な、我が削除権限が……弾かれただと……!?」
『俺が掌握したマザー・コアと、そこに接続したミスリルの超伝導ネットワークを侮るな。お前の論理攻撃など、俺が構築した最新のファイアウォールには傷一つつけられない』
トールは、余裕の笑みを崩さないまま、黒い金属棒をオブザーバーへ向けて突きつけた。
『これは最後通牒だ、監視者。俺の「資産」にこれ以上手を出すなら、次はこのホログラムではない。俺自身がその白亜の玉座へ乗り込み、お前の存在コードを直接デリートしてやる。……震えて待っていろ』
ザザッ……。
青白いノイズと共に、トールの姿が空間から掻き消えた。
後には、焦げたオゾンの微かな匂いと、かつてない屈辱と戦慄に震えるオブザーバーだけが残された。
「……星の理が、一人の少年に乗っ取られようとしているのか。……全ターミナルを起動せよ。防衛レベルを限界まで引き上げろ! あのウイルスを、何としても地上で物理的に抹殺せねばならん!」
天上の玉座で、星の管理者の悲鳴のような絶叫が虚しく響いた。
それは、旧き神話の終焉と、白銀の機械仕掛けの帝国による全面戦争の幕開けであった。
***
同時刻。地上の王都シュトルツ。
深夜の静寂に包まれていたはずの街の上空に、突如としてオーロラのような極彩色の魔力光が、夜空を切り裂くように広がっていた。
それは、トールが地下深淵から天上へとハッキングを仕掛けた際に漏れ出した、規格外の魔力の余波であった。
スラムの片隅、朽ちかけた空き教会。
天才令嬢セレスティアは、夜風に銀糸の髪をなびかせながら、空を埋め尽くす異常な光景を、色付き眼鏡の奥の蒼い瞳でじっと凝視していた。
「……信じられない。あの空の歪み、魔力の大気が悲鳴を上げているわ……!」
「お嬢様。あれも、あの『顔の見えない怪物』の仕業なのですか……?」
背後に控える護衛のリーゼが、恐怖に身を竦ませて夜空を見上げる。
「間違いないわ。この王都の経済を蝕み、地下に魔力の血管を張り巡らせただけでは飽き足らず……あいつは今、この星そのものの『理』にすら喧嘩を売っているのよ」
セレスティアの小さな指先が、窓枠の木材に食い込むほど強く握りしめられる。
前世で経験したいかなる政治闘争も、今夜、天上で起きている次元を超えた事象に比べれば、子供の砂遊びに等しかった。
(経済を支配し、人々の胃袋を握り、そして今度は神の領域すらも自分の部品にしようとしている。……どれほど底知れぬ強欲と、完璧な論理を持ち合わせているというの!)
それは、恐怖というよりも――戦慄。
同時に、彼女の天才としての脳髄を焼き焦がすような、強烈な「知的好奇心」と「対抗心」が、胸の奥で激しく火花を散らしていた。
「……絶対に、負けないわ。あなたが神様すらもシステムの部品にするというなら、私がそのシステムの最も致命的なバグになって、その余裕の仮面を引き裂いてやるんだから」
少女は、天を焦がす魔力光に向けて、不屈の決意を宿した挑戦的な笑みを刻み込んだ。
***
そして、迷宮の最深部、第百階層。
トールは通信を遮断し、ゆっくりと肺の中の空気を吐き出した。
無重力の星海の中、紫色のマザー・コアが安堵したように静かに脈動している。
「……宣戦布告は完了だ。これで天上の連中も、俺を無視できなくなったはずだ」
トールの脳内に描かれるロードマップは、もはや一つの国家を統治するという次元を遥か遠くに置き去りにしていた。
地上の王都はすでに経済の毒で侵食し、民衆の精神をシステムへ依存させた。
地下の迷宮は全自動のエネルギー採掘プラントとして再定義され、無限の富を運び続けている。
そして第三のフェーズ――天上の管理システムをM&A(買収)し、この星の全魔力リソースを「俺の資産」として完全統括する。
「戦国時代の堺を超える自治都市……いや、それでは小さすぎるな。俺が創るのは、この星全体を敷地とした、誰も逃れられない『完全自動の絶対企業』だ」
トールは漆黒の金属棒を虚空に突き立て、その貌に残酷なまでに美しく、底知れない支配者の笑みを浮かべた。
「さあ、第三章の幕開けだ。神だろうと人間だろうと、俺の利益を阻む者はすべて、この白銀の歯車で轢き潰してやる」
星海の玉座から放たれた決意は、世界の理を塗り替えるための、圧倒的な遠雷となって世界に響き渡った。




