第128話:百年の隔絶と、巨大な胃袋の中へ
馬車の車輪が、重厚な城門の石畳を噛み締めるように踏み越えた、その瞬間だった。
「……っ!」
見習い丁稚の粗末な麻布に身を包み、地味な茶色に染めた髪をキャスケットの中に押し込めていた十歳の天才令嬢、セレスティアは、反射的に息を呑んだ。色付き眼鏡の奥で、その蒼い瞳がかつてないほど大きく見開かれる。
馬車の幌の隙間から滑り込んできたのは、穏やかな春の風ではなかった。それは、初夏の陽だまりを煮詰めたような、あるいは巨大な獣の胎内へ直接踏み入れたかのような――湿り気を帯びた、圧倒的で生温かい「熱気」だったのだ。
「マルコ……。これは、どういうことなの?」
荷馬車の片隅で、セレスティアは喉の奥を震わせ、行商人マルコに問いを投げた。
城壁の外に広がる平野は、心地よい春の陽気に包まれている。だというのに、この王都『シュトルツ』の城壁を一枚隔てただけで、世界の季節そのものが捻じ曲げられている。
「お、お嬢様……いえ、セレスティア。これが先日、命を削る思いでご報告した、この都市の『異常』でございます。……地下なのです。この街の喉元の奥深く、都市全体を温める見えない『熱の血管』が、縦横無尽に張り巡らされているのです」
マルコは額に滲む汗を拭いもせず、震える手で手綱を握り直した。
セレスティアは馬車から滑り落ちるように降りると、足元の石畳にそっと掌を当てた。
分厚い革靴の底を通り越し、さらに指先の神経を逆撫でするような、微かな、しかし暴力的なまでに確かな温もり。魔法の灯火で一部の貴族の館を温めることなら、我がルーヴェン公爵領でも不可能ではない。だが、この広大な王都の地表すべてを、厳冬期から春に至るまで均一に温め続けるなど、いったいどれほどの魔力と、天文学的な金貨が費やされているというのか。
(……一日に消費される魔石の量を計算しても、国家予算の数倍が瞬時に霧散するはず。いや、これは魔法という名の奇跡ではないわ)
十歳の天才の脳髄が、火花を散らすような速度で演算を繰り返す。
この熱の供給源は、単なる燃料の燃焼ではない。もっと根本的な、大地そのものの脈動を強引に引き摺り出し、循環させる未知の物理的システム……『インフラストラクチャー』の完成形だ。
「セレスティア……様。お足元に、どうかご注意を」
護衛兼経理係として、地味な男物の装束を纏ったリーゼが、音もなく背後に寄り添った。琥珀色の瞳は周囲を鋭く射抜いているが、その双眸の奥にも、隠しきれない驚愕の色が火花のように散っている。
王都の目抜き通りを見渡したセレスティアを、さらなる衝撃が襲った。
「……臭いがない。都市特有の、あの『死の匂い』が一切しないわ」
中世の都市というものは、何万という人間が密集する以上、必ず吐き気を催すような排泄物の悪臭や生ゴミの腐敗臭がこびりついているものだ。しかし、この街を満たしているのは、焦げた石炭の匂いや機械油の重厚な香りばかりで、人間が生きる上で避けられないはずの致命的な汚臭が、完全に駆逐されていた。
「あちらを。お嬢様」
リーゼの視線の先、広場の中央には、真新しいレンガ造りの『公共給水塔』がそびえ立っていた。そこからは、白糸のような清冽な水が力強く噴き出し、市民たちが次々と水差しを差し入れている。
セレスティアは吸い寄せられるように歩み寄り、水受けからこぼれる飛沫を指ですくって、その舌先に乗せた。
「……甘い。泥の濁りも、腐った水の粘りもない。それに、この微かな……雷が落ちた直後のような、喉を焼く清涼な匂いは何?」
脳裏に、かつて一度目の人生で読んだ古代魔導書の断片が、電光石火の如く閃く。
(雷の魔法を用いて水を浄化する……『オゾン』による殺菌、だというの!? いや、まさか。そんな机上の空論を、地下を流れる膨大な水流すべてに適用しているとでも!?)
上下水道の完備。冬を春に変える温熱インフラ。
道を行き交う市民たちは皆、鮮烈な青色――『トール・ブルー』の規格服を清潔に着こなし、その顔には飢えや寒さへの絶望など、微塵も貼り付いていない。彼らの手には、均一な形をしたふんわりとしたパンや、肉を挟んだ『バーガー』が握られ、誰もが憑りつかれたような活力と熱狂を瞳に宿して、黒煙を吐き出す巨大な工場へと足を運んでいる。
ここはもはや、剣と魔法が支配する古い世界ではない。
顔の見えない絶対者が、物理法則と経済という名の冷徹な論理をタクトとして用い、大地を解剖し、民衆の魂までをも精密な設計図で描き直した「全自動の巨大な機械」の内側だ。
セレスティアは、圧倒的な力の差という名の絶望に貫かれ、目眩を覚えてその場に立ち尽くした。
「リーゼ……」
絞り出すような声は、乾いた砂のようにひび割れていた。
「はい、お嬢様」
「この光景を、あなたはどう理解しますか?」
セレスティアの問いは、もはや護衛への確認ではなかった。自身の知性が限界を超えようとして発した、悲鳴にも似た震えだった。
武力ではない。魔法でもない。この都市を支配しているのは、生活のすべてを根底から握り潰す「圧倒的な利便性」という名の、目に見えない黄金の鎖だ。一度この温かい石畳を歩き、この清らかな水を飲み、安価で暴力的に美味いパンを食してしまえば、民衆は二度と以前の不便な生活には戻れない。
この国はすでに、侵略されていることすら自覚せぬまま、満面の笑みで自らの首輪を「あの怪物」に差し出しているのだ。
リーゼは、主人の震える小さな背中を慈しむように見つめ、琥珀色の瞳を細めて静かに宣告した。
「はい。……我がルーヴェン地方の、百年後の(・)姿かと存じます」
百年。
その途方もない時間の絶壁に、セレスティアは色付き眼鏡の奥で、唇が切れるほど強く噛み締めた。
(そうね。私たちが懸命に泥にまみれて畑を耕し、税の計算に頭を悩ませている間に……この国の支配者は、時間を百年分も強引に早送りにしてしまったのよ。一滴の血も流さずに、私たちの生きる世界を『旧時代の遺物』へと叩き落としてしまった)
一度目の人生。暗愚な男たちの飾りにされ、毒を煽ったあの地獄。
六歳に死に戻り、二度と同じ轍は踏まないと誓い、領地の経済と物流を守るために知恵を絞り尽くしてきたこの数年間。
だが、彼女が懸命に積み上げてきた防壁など、この王都が吐き出す「蒸気機関の黒煙」と「規格化の暴力」の前では、波打ち際の砂の城にも等しかった。
「でも……」
セレスティアは、震える両手を強く、指の爪が手のひらの肉に食い込むほどに握りしめた。
「相手が百年先の未来を生きる怪物だとしても、このまま無抵抗に咀嚼されるわけにはいかないわ。私たちがこの巨大な『胃袋』の中で完全に消化されてしまう前に、あの男のシステムの心臓部を暴き出し、その論理をハックしてやる」
セレスティアは顔を上げ、黒煙の咆哮を上げる巨大な工場群と、その奥にそびえる権力の中枢――あるいは、この都市を裏から糸で操っているであろう「彼」の潜む闇を睨み据えた。
「そうね……。まずは、どこから解剖してあげようかしら」
蒼い瞳の奥に、絶望を燃料として燃え上がるほどの強烈な「知的好奇心」と、死に戻りの令嬢としての「冷徹な反逆の炎」が、鮮烈に灯る。
「マルコ。この街で、その『怪物の代理人』として最も太いパイプを握っているのは誰?」
マルコは周囲を怯えたように見渡し、額の脂汗を袖で拭いながら、声を潜めて答えた。
「グレン商会の大商人、グレン。……そして、裏社会と治安を束ねる『自警団』の者たちです。ですが、彼らに直接接触するのは死を招くも同然。彼らの背後には、常に『トール様』と呼ばれる、顔も定かならぬ絶対者の視線が、神のように光っていると言われておりますから」
「トール……」
セレスティアは、その不吉な名を、まるで毒薬の味を確かめるように舌の上で転がした。
「いいわ。まずは、彼らが無料で配っているというあの『猛毒』の源流……メガ・ベーカリーの周辺から土を掘り返すわよ。彼らがどうやって民衆の胃袋を管理し、どうやって利益を自らの霊脈へ還流させているのか。この目で、すべてを解剖してやるわ」
「お供いたします、セレスティア様」
リーゼが静かに一歩進み出た。腰に隠した刃の気配は微塵も漏らさず、しかし主人の影となる位置に完璧に陣取る。
見習い丁稚の少年に身をやつした十歳の天才令嬢と、その唯一の光である忠実な侍女。
百年先の未来を強引に具現化した白銀の帝都。その耳を聾するような蒸気と喧騒の中へ、二人の小さな影は、音もなく静かに溶け込んでいった。
剣と魔法の古い時代を終わらせる、経済と規格化による無慈悲な世界侵略。
その完璧なシステムに対し、前世の地獄を乗り越えた一人の少女が仕掛ける、絶望的で壮大な「知略の反逆」が、今、圧倒的な咆哮の中で幕を開けた。




