第127話:唯一の希望(ひかり)と、敵地への潜入決意
ルーヴェン公爵領の執務室。
重厚なビロードのカーテンが、燃え残るような夕闇の残滓を冷酷に遮断していた。琥珀色のランプが照らし出す大理石の机の上には、静寂を拒絶するかのような、無機質な二つの品が鎮座している。
一つは、装飾を削ぎ落とした武骨な鞘に収められた『ミスリル合金の片手剣』。魔力を帯びたその刃は、鞘越しですら肺を凍らせるような青白い燐光を放っている。
もう一つは、脂の焼ける匂いまで立ち上ってきそうなほど詳細に記された、『バーガーのレシピ』が綴られた羊皮紙だ。
「……完璧すぎて、吐き気がするわ」
十歳の少女、セレスティアの唇から、震える吐息が漏れた。
指先で羊皮紙の縁をなぞれば、ざらついた質感が神経を逆撫でする。剣を交えて血を流すのではない。人間の「もっと満たされたい」という根源的な渇望を優しく愛撫し、気づけば国家の血管であるインフラと、魂の拠り所である食文化を根こそぎ寄生虫のように奪い去る。
これこそが、隣国の支配者が静かに、しかし確実に血管へと流し込む『経済という名の猛毒』なのだ。
触れた羊皮紙の冷たさが、引き金となった。
現在の十歳という幼い肉体には、あまりにも巨大で、あまりにも悍ましい「前世の記憶」が、濁流となって脳裏を蹂躙する。
かつての人生。
七歳で王妃の座という名の檻に入れられ、十一年に及ぶ苛烈な選抜を勝ち抜いて辿り着いた、十八歳の戴冠式。純白のドレスは輝きに満ちていたが、その裏側は、暗愚な夫と腐敗した重臣たちが国という果実を貪り食う地獄だった。
領民の飢えを凌ぐために差し出した私財は、側近たちの肥えた腹の中に消えた。世継ぎを産むためだけの「肉の器」として扱われ、絶望の中で二度、冷たい血と共に我が子を失った。
だが、あの三十二年間の永い悪夢の中で、彼女の魂を最期に砕いたのは、自身の喉を焼いた毒薬ではなかった。
「……セレスティア様。温かい紅茶を淹れました。少し、お顔色が優れないようです」
静謐な、しかし鋼のような芯を感じさせる澄んだ声。
音もなく部屋に滑り込んできたのは、ルーヴェン公爵家の侍女、リーゼ。
二十二歳。艶やかに結い上げられた亜麻色の髪と、どんな逆境という名の嵐に晒されても決して揺らぐことのない、深い琥珀色の瞳。
リーゼが白磁のカップを置くと、ベルガモットの爽やかな香りが、澱んだ執務室の空気を優しく塗り替えていく。
「ありがとう、リーゼ……」
セレスティアは、救いを求めるように差し出されたカップを受け取るふりをして、リーゼの指先にそっと触れた。
……熱い。
血管を巡る拍動が、柔らかな皮膚を通じて伝わってくる。生きている人間の、確かな温もり。
そのあまりに愛おしい感触に、セレスティアの鼻の奥がツンと熱くなり、視界が滲みそうになるのを、彼女は奥歯を噛み締めて押し止めた。
リーゼこそが、腐敗の臭い漂うあの王宮で、セレスティアが唯一信じることのできた「最後の希望」だったのだ。
誰もが背中から短剣を突き立てようと機を窺う暗闘の中で、リーゼだけは常に彼女の盾となり、氷のように冷え切った心をその献身で温め続けた。
しかし、その至高の忠誠が、彼女を死へと追いやった。
無実の罪を背負わされ、セレスティアの目前で……断末魔すら奪われたまま、彼女は処刑台の露と消えた。
冷たい石畳に広がる、黒ずんだ血の海。あの時、セレスティアの心は完全に死んだのだ。自ら毒杯を煽ったのは、その絶望を終わらせるための儀式に過ぎなかった。
(六歳で目を覚ましたあの日、私は地獄の淵で誓った。二度と、飾りの人形にはならない。誰かの都合で、この領地を、そして……何より愛するリーゼを奪われるような無力さは、この命と共に捨て去ったはずよ)
その決意のために、彼女は十歳の少女が享受すべき幸福をすべて擲った。婚約を拒み、狂ったように富を蓄積し、防壁を築いてきた。
だが今、隣国ヴァルハイト王国が放つ『白銀の産業革命』は、彼女の防壁を「利便性」という名の笑顔で、音もなく乗り越えようとしている。
「リーゼ。……もし、目に見えない巨大な怪物が、一滴の血も流さずにこの国を飲み込もうとしていたら、あなたならどうする?」
セレスティアの問いかけに、リーゼは琥珀色の瞳を穏やかに細め、主人の小さな、しかし硬く強張った肩にそっと手を添えた。
「お嬢様が恐れておられるのは、この冷たいミスリルの輝きや、妙な香りのする紙切れを操る『隣国の誰か』でございますね」
リーゼの洞察は、鋭いメスのように少女の胸の内を解剖した。彼女は常にセレスティアの鏡であり、その天才ゆえの孤独を誰よりも理解している。
「怪物の正体が見えないのであれば、自らその胃袋の中へ飛び込み、心臓の鼓動を確かめるしかありません。……お嬢様は、すでにその『鍵』を手にしていらっしゃるはずです」
リーゼの静かな咆哮にも似た言葉に、セレスティアはハッと息を呑んだ。
そして、その蒼い瞳に、前世の絶望を焼き尽くすような反逆の炎が宿る。
(そうよ。震えているだけでは、あの無力な王妃だった頃と同じ。相手が経済という名の物理法則で世界を調教しようとするなら、私はそのシステムの「内側」から心臓を抉り出してやる)
「……家令! まだ屋敷に留まっている行商人マルコを、今すぐここへ引きずり出しなさい!」
数分後。
呼び出されたマルコは、部屋に満ちる殺気にも似た重圧に、蛇に睨まれた蛙のように平伏した。
「お、お嬢様……。ま、まだ何か、隣国の情報に不備が……」
セレスティアは、机の上のミスリルの剣を激しく叩いた。金属音が部屋中に響き渡る。
「マルコ。隣国の王都シュトルツは、今やかつてない好景気に沸き、この世の楽園と化している。そう言ったわね?」
「は、はいぃッ! その通りです! 蒸気の咆哮が大地を震わせ、機械が黄金の麦を刈り取り、人々は溢れる銀貨で夜な夜な狂乱の宴を……!」
「マルコ。あなた、次はいつあそこへ発つの? ――私を連れて行きなさい。一週間の準備を整えた後でね」
セレスティアの口から放たれた氷のような宣告に、マルコは顎が外れんばかりに絶句し、間抜けな悲鳴を上げた。
「……は、はいぃぃっ!? お、お嬢様が!? あの伏魔殿へ!? 正気でございますか!」
「正気よ。これ以上ないほどにね」
セレスティアは、椅子から立ち上がり、マルコを射抜くように見下ろした。
「レシピを無料で配り、胃袋から支配する。安価な魔力銀を与え、冒険者の命を安く買い叩く。これほど緻密で暴力的な『規格化』を仕掛ける相手に、机の上の書類だけで勝てるはずがない。……あの国の工場の排熱がどこへ向かい、流通の血流がどう管理されているのか、この目ですべてを暴かなければならないの」
彼女は、驚愕に震えるマルコの瞳に、自らの覚悟を刻み込むように一歩踏み出した。
「準備期間が必要なのは、この公爵令嬢という身分を『抹消』するためよ。髪はドブネズミのような色に染め、瞳は色付きの眼鏡で隠す。マルコ、あなたは私を『計算だけが取り柄の商会の丁稚』として、あなたの商隊の末端にねじ込みなさい」
「そ、そんな……! もし露見すれば、私の首が……!」
「あなたの首一つの重さと、王国が丸ごと飲み込まれる重さ、どちらが重いか天秤にかけるまでもないわ。……一滴の血も流さぬまま、私たちは『経済的奴隷』として飼い殺される。それが嫌なら、私の手足となって働きなさい」
セレスティアの気迫に、マルコが膝を屈したその時。
背後に控えていたリーゼが、流れるような動作で一歩前へ出た。
「マルコ殿。……その『丁稚』の護衛兼、商会の経理係として、私も同行いたします」
リーゼの唇には、一切の拒絶を許さない、美しくも冷酷な微笑みが浮かんでいた。
「お嬢様の身の安全は、このリーゼが命を薪にしてでも守り抜きます。……マルコ殿には、決してご不便はおかけしません」
「リーゼ……あなた、本当に?」
セレスティアが振り返ると、リーゼは深く、跪いた。その琥珀色の瞳には、揺るぎない忠誠と、そして深い愛が満ちていた。
「当然でございます。お嬢様が地獄の底へ、あるいは怪物の胃袋へ向かわれるというのなら、このリーゼもまた、冥府の果てまでお供いたします。……あなた様が背負おうとしている、この世界の重さを、私だけは知っておりますから」
その言葉が、セレスティアの胸の奥で凍りついていた孤独を、静かに溶かしていく。
(ああ……そうだ。私には、彼女がいる。前世で私を命懸けで愛してくれた、唯一の光)
「……決まりね」
セレスティアは不敵な笑みを浮かべ、窓の外を睨みつけた。
夕闇の向こう、地平線の彼方で、銀色の煙を吐き出しているであろう「怪物」の心臓部。
「一週間よ、マルコ。完璧な偽造身分証と、通行許可証を揃えなさい。……待っていなさい、隣国の支配者(怪物)。あなたがどれほど緻密な盤面を描こうと、この私が、そのシステムの裏側を完膚なきまでに解剖してやるわ」
十歳の天才令嬢にして、死の淵から還った反逆者は、かつての人生で唯一の希望であった侍女を伴い、世界を呑み込まんとする「経済という名の魔物」の心臓部へ、自ら飛び込む決意を固めたのだった。




