第126話:泥濘の王冠と、六歳の再誕
十歳の天才令嬢セレスティア・フォン・ルーヴェン。
彼女が幼い身を酷使し、あらゆる求愛を氷のような冷徹さで撥ね除け、領地の発展という名の修羅道に己を捧げているのには、理由があった。
彼女の魂には、一度目の人生で味わい尽くした「地獄」の記憶が、消えない焼印として刻まれている。
三十二歳で毒殺され、六歳の自分へと回帰した『死に戻り』。それが彼女の正体だった。
かつての人生――美貌を謳われた彼女は、七歳で第一王子の妃候補として「着飾った墓場」とも呼ぶべき王宮へ召し上げられた。三年に及ぶ、針の筵を歩むような選抜期間。彼女は持ち前の知略で、迫り来る毒牙をすべて叩き折り、十八歳の春、国中が祝福する中で未来の王妃の座に就いた。
だが、その純白のドレスの裾を濡らしていたのは、これから始まる永い地獄の泥濘であった。
***
■ 第一の地獄:空虚な玉座と腐敗の悪臭
彼女の夫となった第一王子は、見目こそ優美であったが、その中身は驚くほど空疎であった。自らの意志を持たず、背後に蠢く権力者たちの糸に引かれるまま踊る「傀儡」。
夜な夜な、酒の饐えた臭いと安っぽい香水の香りを身に纏って享楽に耽る夫。セレスティアが喉を枯らして進言する国政の危機も、彼は「難しい話は大臣に任せておけ」と、退屈そうに欠伸を漏らして聞き流した。
王宮の廊下に漂う、権力欲という名の湿った腐敗臭。才気煥発な彼女にとって、知性が死に絶えた場所で無力に立ち尽くす日々は、精神を少しずつ磨り潰される沈黙の拷問であった。
■ 第二の地獄:喉を焼く微毒と、見えない刃
セレスティアの卓越した経済感覚は、甘い汁を吸い続ける重臣たちにとって、排除すべき「異物」に他ならなかった。彼らは彼女を物理的に沈黙させるべく、陰湿な魔の手を伸ばした。
「……っ、また……」
銀の食器が、微かに黒ずむ。日々の食事や茶に混入される、微量の毒。
それは即死させるものではなく、じわじわと内臓を焼き、思考を曇らせ、美貌を蝕んでいく「生殺し」の毒であった。常に胃の腑に焼けた鉄を流し込まれたような鈍い痛みを抱え、誰一人信じられない孤城で、彼女は独り、震える手で羽ペンを握り続けた。
■ 第三の地獄:鮮血のシーツと、世継ぎという名の呪い
王妃という名の「産む機械」。愛なき夫との褥は、彼女にとって義務という名の冒涜でしかなかった。
それでも彼女は義務を果たそうとした。だが、連日の毒とストレスに蝕まれた胎内は、新たな命を育むにはあまりに冷え切っていた。
「……ああ、ごめんなさい、ごめんなさい……」
二度、彼女は身籠った命を失った。
冷たいベッドの上、足元から広がる鮮血の熱さと、それが急速に冷めていく絶望的な感覚。シーツを汚す赤い染め跡を眺めながら、彼女は自らの欠陥を責める周囲の嘲笑を、耳の奥が痛くなるほどの音量で聞き続けた。命を失う悲しみすら、「世継ぎを成せぬ石女」という蔑みの声にかき消されていった。
■ 第四の地獄:裏切りの石打ち
飢饉に喘ぐ領民を救うため、彼女は自らの装身具を売り払い、他国から密かに穀物を手配した。
だが、王子の側近たちはその食糧を奪い、闇市で高値で売り捌いた。残されたのは、泥を混ぜたわずかな粥だけ。側近たちは民衆に吹き込んだ――「王妃様が、贅沢のためにあなた方の食糧を売ったのだ」と。
救いたかったはずの人々から投げつけられる、尖った石と、耳を裂くような罵声。頬を切る石の痛みよりも、裏切られたという確実な感覚が、彼女の心を粉々に打ち砕いた。
■ 第五の地獄:唯一の光を焼く焔
唯一の救いだった、ルーヴェン家から付き従っていた忠実な侍女。彼女はセレスティアにとって、凍てつく王宮で唯一体温を感じられる存在だった。
だが、権力者たちは、セレスティアの心を折るために「王族暗殺未遂」という無実の罪をその侍女に着せた。
「セレスティア様、お健やかに……っ」
断頭台の露と消えた、最愛の味方。
彼女を守るための権力すら奪われていたセレスティアは、血だまりの中で崩れ落ち、声を失うまで慟哭した。その時、彼女の中の「情愛」という名の回路は、完全に焼き切れたのである。
***
■ 終焉、そして『死に戻り』へ
三十二歳。
心身ともに限界を迎え、枯れ木のように痩せさらばえた彼女は、新たな妃を迎えるための「掃除」として毒殺された。
冷たい地下の幽閉室。肺が焼けるような苦しみの中、彼女は己の無力さを呪い、虚空を掴むようにして絶命した。
(……もし、もしも次があるのなら。知恵を力に変え、誰も踏み込めないほど強大な城を築いてみせる……!)
次に彼女が目を開けた時。
視界に広がったのは、カビ臭い地下室ではなく、幼い頃に愛用していた柔らかな天蓋付きのベッド。そして、小さく、柔らかな、一点の傷もない己の手であった。
鏡の中の自分は、六歳の幼い少女。
彼女は狂ったように笑い、そして泣いた。
その日から、セレスティアの歩む道は変わった。暗愚な王子との未来を焼き捨て、誰にも依存せず、誰にも奪わせない、絶対的な「富」と「知」の帝国を築くための、孤独な戦争。
……そして今。
彼女の前に現れたのは、かつての愚王や腐敗貴族とは次元が違う、冷徹な理を纏った「白銀の怪物」。
一度死んだ彼女だからこそ、トールが配る甘いパンや滑らかな下着に隠された、魂を絡め取る「経済という名の魔術」の臭いを、吐き気がするほど正確に嗅ぎ取っていた。
(あの怪物は……私が味わった五つの地獄を、笑顔の仮面で世界中にばら撒こうとしている)
十歳の天才令嬢は、小さな拳を強く握りしめた。
二度目の人生、彼女が守るべきは領民だけではない。この世界を、隣国の怪物が描く「全自動の隷属」という名の終焉から救い出すこと。
蒼い瞳に復讐と守護の炎を宿し、彼女は再び、漆黒のチェス盤を見据えた。
白銀の毒が、静かに、しかし確実に彼女の足元を濡らし始めている。




