第125話:白銀の凶刃と、無料で配られる猛毒
肌を滑る、あまりに甘美で不自然な滑らかさ。
それはルーヴェン公爵領の伝統的な麻布には決して存在し得ない、肌触りの良い下着と、網膜を刺すほどに鮮やかな色彩を放つ布地だった。
一滴の血も流さず、隣国ヴァルハイト王国から音もなく浸透し始めた「経済という名の静かなる侵略」。その恐るべき正体に気づいた十歳の天才令嬢セレスティア・フォン・ルーヴェンは、夕闇の迫る窓辺で、冷たい窓枠に爪を立て、微かに肩を震わせていた。
「……マルコ。もういいわ、下がりなさい。これ以上、我が領の純潔な金貨を、あの底知れぬ国へ流させるわけにはいかない」
窓の向こう、東の空。そこには、目に見えない巨大な「白銀の糸」を吐き出し、大陸すべてを絡め取ろうと息を潜める怪物の影がある。セレスティアは、その不気味な気配を睨み据えたまま退室を命じた。
しかし、背後の絨毯に額を擦り付けていた行商人マルコは、石像のように動かなかった。
「お嬢様……恐れながら、ご報告すべきは、あの布や下着だけではございません。……むしろ、ここからが真の『絶望』なのです」
「……何ですって?」
セレスティアが振り返ると、マルコは傍らに置いていた細長い木箱の蓋を、うやうやしく、そして何か忌まわしい封印を解くかのように、怯えながら開けた。
箱の中に鎮座していたのは、一振りの片手剣であった。
貴族が虚栄のために好む黄金の柄頭も、贅を尽くした宝石の象嵌も一切ない。ただ「切る」という一点の目的のみを追求したような、冷酷なまでに無機質で、装飾を削ぎ落とした黒革の柄と飾り気のない鞘。
「……武器の密輸? 我がルーヴェン公爵領の鍛冶技術は大陸屈指よ。隣国の安っぽい鉄細工など――」
セレスティアが言葉を吐き捨てるより早く、マルコは無言で剣を鞘から引き抜いた。
「っ……!」
刹那、執務室の空気が物理的な重量を伴って冷え込んだ。
抜かれた刃身は、ありふれた鋼のようなくすんだ銀色ではなかった。夕陽を吸い込んで青白く透き通り、刃紋の奥で微かな魔力が、まるで意思を持って呼吸しているかのように明滅している。
「マルコ、これ……ただの鋼ではないわね」
十歳の令嬢の声音に、明らかな戦慄が混じる。彼女がその、死を凝縮したような刃に指を伸ばそうとした、その時だった。
「セレスティア!! お前、この剣をどこから手に入れた!!」
重厚なオーク材の扉が乱暴に蹴り開けられ、一人の巨漢が飛び込んできた。
セレスティアの兄であり、公爵家次期当主にして王国屈指の剛剣使い、レオンハルトだ。彼の額には珠のような汗が浮かび、その手には、マルコが持ち込んだもう一振りの「同じ剣」が握られていた。
「お兄様、ノックもせずに……」
「そんなことはどうでもいい! この剣だ!」
レオンハルトは血走った眼で、手にした無機質な剣を机に叩きつけた。
「たった今、中庭で試してきた。……分厚い鋼鉄の重甲冑が、まるで焼けたナイフでバターを裂くように、一寸の抵抗もなく両断されたんだ。魔力を流した瞬間、剣そのものが魔力を増幅し、刃の周囲に不可視の断裂を引き起こしやがった!」
屈強な騎士である兄の腕が、小刻みに震えている。
「我が国の筆頭鍛冶師が一生を捧げて打ち上げる国宝級の魔剣ですら、ここまでの魔力伝導率は持たん。……こんな化け物を、どこから仕入れてきた!」
「……それは、ミスリルの合金です。隣国の王都シュトルツで産み出されたものです」
マルコの声が、重苦しい宣告のように響いた。
魔力銀。伝説の中にのみ存在する超伝導金属。それを「合金」とはいえ、飾り気のない実用剣として加工するなど、本来はあり得ぬ狂気だ。
「……素晴らしい、そして恐ろしい技術ね。ミスリルの純度をあえて落としつつ、魔力伝導率を損なわないよう他の金属と絶妙な配率で混成させている。これなら、純粋なミスリルよりも遥かに安価に、そして軍用として耐えうる強靭さを備えられる。……他国では到底真似できない『魔術的な規格化』だわ」
セレスティアは、首筋を伝う冷や汗を感じながら、計算回路を必死に回した。
「マルコ、これをどれくらい仕入れられるの? 万が一、隣国の正規軍がこの剣で武装しているとなれば、我が国の騎士団など、鎌の前の麦のように刈り取られてしまう」
「二振りだけかと……」
その答えに、セレスティアとレオンハルトは同時に安堵の息を吐きかけた。だが、マルコの次の言葉が、その微かな希望を粉々に粉砕した。
「……いえ。王都周辺での持ち出し規制が厳しいだけでして……生産数自体は、信じられない規模に上るかと。王都ではなく、西の『迷宮都市タルタロス』に行けば……このミスリルの剣は、ただの日銭稼ぎの『冒険者向け』として、市場に溢れかえっているのです」
「な……ッ!?」
レオンハルトが言葉を失い、一歩後退した。
セレスティアの脳裏で、これまでの騎士道の常識という名のパズルが音を立てて崩落した。
(……違う! 防衛のためじゃない。これは『投資』よ!)
十歳の天才の脳髄で、血の凍るような真実が結像した。
隣国の支配者は、自らの軍隊の血を流すことなく、冒険者という「欲望で動く駒」にこのオーバースペックな武器を与え、彼らに命懸けで深層の素材を掘り出させているのだ。
つまり、このミスリルの剣は、高貴な武具ではない。隣国の怪物からすれば、ただの『高品質な使い捨てのツルハシ』に過ぎないのだ。
「……悪魔だわ」
セレスティアは、眩暈に耐えるように机を掴んだ。
だが、マルコの報告という名の拷問は、まだ終わっていなかった。彼は懐から一枚の真新しい羊皮紙を取り出し、セレスティアの前に差し出した。
そこには、肉の挽き方、香草の比率、パンの焼き時間まで、事細かに記された料理の『レシピ』があった。
「なんと……この利益の源泉を、無料で配っているというの!?」
「はい。誰でも持って帰れるように、店先に山積みにされておりました」
横で聞いていたレオンハルトが、鼻で笑った。
「せっかくの流行りの味を、無償で他人に教えるとは。隣国の商人は揃いも揃ってお人好しの間抜けか!」
「お兄様、黙って!!」
セレスティアの鋭い一喝に、兄が肩をすくめた。
彼女の小さな手は、レシピの書かれた羊皮紙を握りしめ、ワナワナと激しく震えていた。
「お人好し? ……違うわ、お兄様。これは、笑顔で差し出された『致死量の猛毒』よ……!」
「毒だと? ただの料理の紙切れじゃないか」
「いいえ、考えなさい! なぜ彼らはレシピを配るの? それは『他国にも作らせるため』よ! 美味しくて手軽なこの料理は、レシピさえあれば我が国でも爆発的に広まる。でも、このレシピにある『規格パン』の圧倒的な柔らかさと、肉の味を引き立てる特殊なソース。これを、我が国の痩せた小麦と古臭い調味料で再現できると思う?」
「それは……」
「できないわ! 一度、隣国の『本物』の味を知ってしまった人間は、我が国で作られた紛い物では満足できなくなる。……結局、本物の味を出すためには、隣国の工場から吐き出される『安くて高品質な小麦粉』や『規格化された調味料』を、隣国から買わざるを得なくなるのよ!」
セレスティアの絶叫が、執務室に重苦しい静寂を呼んだ。
レシピを無料で配るのは、親切なんかじゃない。自分たちの食文化を根こそぎ塗り替え、すべての食材とインフラを、隣国のシステムに依存させるための『蜘蛛の巣』なのだ。
(布で身体を縛り、下着で肌を縛り……ミスリルで命を縛り、パンで胃袋を縛る。一滴の血も流さず、ただ『豊かさ』という名の麻薬を国境に染み込ませるだけで、一つの国を完全に呑み込もうとしている)
「……勝てない」
セレスティアの口から、枯れ果てたような絶望の吐息が漏れた。
武力ならば、命を懸けて抗える。
だが、この「幸福」を装った侵略者に、どうやって剣を向ければいいというのか。民衆から「なぜ安くて美味しいパンを食べてはいけないのですか?」と問われた時、領主としてどう答えればいいのか。
窓の外、地平線の向こう。
顔の見えない十一歳の絶対者が、チェス盤の駒を動かすように、世界全体を自らの胃袋へと作り変えようとしている。
「でも……」
セレスティアは、震える手で机の上のミスリル合金の剣を握りしめた。
指先から血が滲むほどに強く。
「このまま黙って、私の領地を……ファルサス王国を、あの化け物の胃袋に消化させたりはしない。……たとえ相手が、世界を飲み込む怪物だとしても」
十歳の天才令嬢は、絶望の淵に立たされながらも、その蒼い瞳に決して消えない反逆の炎を宿した。
白銀の毒が、笑顔と共に迫り来る。
剣と魔法の時代を終わらせる、経済という名の無慈悲な大戦争が、今、彼女の足元まで音もなく迫っていた。




