第124話:国境を越える白銀の毒と、十歳の天才令嬢
ヴァルハイト王国と陸続きで国境を接する西の大国、ファルサス王国。
その東部国境の盾であり、広大な穀倉地帯を統括する要衝、ルーヴェン公爵領。代々武門の誉れ高きこの家系において、現在、領民の希望と畏怖を一身に集めているのは、屈強な騎士団ではなく、たった十歳の一人の少女であった。
長女、セレスティア・フォン・ルーヴェン。
春の陽光を反射する銀糸の髪と、深い湖底のように透き通った蒼い瞳。彼女は父の執務室の片隅で、自分の背丈ほどもある羊皮紙の山に埋もれ、カリカリと羽ペンを走らせていた。
「……お断りいたします。東の伯爵家の次男との婚約など、我が領に一ミクロンの利益ももたらしません。彼がこの領の物流網を理解するのに、あと十年はかかるでしょう。私にはそんな無駄な時間を浪費する暇はないのです」
十歳の少女の唇から放たれた、剃刀のように鋭く冷徹な拒絶。年老いた家令は、耳の奥まで凍りついたような顔で深々と溜息をつき、逃げるように退出していった。これで今年に入って五人目だ。
周囲は彼女を「早熟すぎる天才」と呼び、同時に化け物を見るような目で遠巻きにしていた。だが、セレスティアの視界に、貴族の令嬢らしいドレスや茶会の話題が入り込む隙間はない。
(このルーヴェン公爵領を、迫り来る時代の濁流から守り抜くこと。それだけが、私の盤面)
彼女は繊細な指先で羽ペンを回し、目の前に平伏する一人の商人を見据えた。
「さて、待たせたわね、マルコ。……隣国ヴァルハイトの王都『シュトルツ』から戻ったばかりだそうね。あなたのその異様な熱気……さぞかし面白い『毒』を仕入れてきたのでしょう?」
行商人マルコは、まるで神の奇跡に魂を焼かれた狂信者のように、血走った瞳を輝かせて顔を上げた。
「お嬢様……! 面白いなどという言葉では足りません! シュトルツは今、歴史上のあらゆる栄華を過去にする、狂気的なまでの『大好景気』に沸き返っております! あそこはもはや魔法と富が混ざり合った、別次元の楽園です!」
「楽園、ね」
セレスティアは冷たく鼻を鳴らした。
ヴァルハイト王国。身分制度の腐敗が進み、冬の寒さと飢えに怯えるだけの、泥濘に沈んだ老国。それが彼女の知る隣国の姿だった。
「誇張が過ぎるわ、マルコ。あんな死に体の国が、数ヶ月で変わるわけがない」
「誇張ではございません! 私はこの目で見たのです!」
マルコは身を乗り出し、唾を飛ばさんばかりの勢いで捲し立てた。
「あの『白き死』が吹き荒れる冬、シュトルツに凍死者は一人も出ませんでした! 地下の管から湧き上がるような『熱』が街を温め、労働者たちは山盛りの肉を食らい、黄金のエールを煽って夜な夜な狂乱の宴を繰り広げていた! そして……」
マルコはゴクリと唾を飲み込み、声を震わせた。
「春の雪解けと共に、彼らは凍土から『黄金の冬小麦』を収穫したのです! それを、黒煙を吐き出す鋼鉄の怪獣……『蒸気駆動式コンバイン』が、わずか数時間で根こそぎ刈り取ってしまったのですよ!」
「……鋼鉄の、怪獣? 冬小麦の、異常収穫?」
セレスティアの羽ペンが、ピタリと止まった。
十歳の天才の脳髄で、これまでの常識というパズルが音を立てて崩壊していく。農業とは祈りと汗の営みだ。それを季節の理すら無視し、鉄の機械で全自動に行うなど、もはや神への侵略ではないか。
「結果、末端の人夫に至るまで懐が銀貨で膨れ上がり、国王の税収は前年比で数十倍! 今や彼らは、溢れかえる金貨の山の上で踊り狂っております!」
(……異常だわ)
セレスティアの背筋に、氷の刃を滑らせられたような悪寒が走った。
経済が活性化することはある。だが、これほど短期間に、全階層が同時に狂喜する「完璧すぎる好循環」など、自然発生するはずがない。
誰かが、恐ろしく緻密で巨大な『意図』を持って、国家の経済という心臓を丸ごと掴み、別のポンプに繋ぎ変えたのだ。
その時、執務室の扉がパタパタと軽やかな音を立てて開かれた。
「セレスティア! まあ、またそんなしかめっ面をして!」
華やかな香水の匂い。母であり、ルーヴェン公爵夫人であるエレオノーラが現れた。
「お母様、今は重要な報告の最中――」
「そんなことより、これを見てちょうだい!」
母は娘の小言を無視し、抱え込んでいた布の山を机に広げた。
「ヴァルハイトから届いた、最新の流行よ! 見て、この目を射るような鮮烈な輝き! 『トール・ブルー』と呼ばれているこの青……どんな高級な絹織物でも出せない、瑞々しい色彩だわ!」
母は熱病に浮かされたような表情で、布に頬をすり寄せた。
「おまけに、これほど滑らかで軽やかなのに、信じられないほど安いの。今、我が国の貴族の奥様方は、皆こぞって隣国からこの布を取り寄せるのに夢中なのよ」
「……ただの布の流行ではありませんか」
「布だけじゃないわ、セレスティア。……真の革命は、これよ」
母は声を潜め、布の山の下から「それ」を取り出した。
「下着、よ」
セレスティアは眉をひそめた。貴族の令嬢は、何重ものコルセットで締め上げられ、内側は不格好な麻布を巻くのが「常識」だ。だが、母が提示したのは、白銀の極細糸で編み上げられた、肉体の曲線を計算し尽くしたような伸縮性を持つ、未知の衣類だった。
「一度これを身につけたら、もうあのチクチクする麻布にも、苦しいだけのコルセットにも戻れないわ……! 清潔で、肌に吸い付くように柔らかく、それでいて優しく身体を支えてくれる。我が領の婦人たちは、皆この『下着』を買い漁って、その虜になっているのよ」
母はうっとりと吐息を漏らし、布を抱えて消えていった。
残された静寂の中で、セレスティアは『トール・ブルー』の布切れを手に取り、その細部を凝視した。
「……マルコ」
「は、はい! お嬢様」
「この服、隣国の職人たちが手縫いで作っているの?」
「い、いえ! シュトルツに建設された巨大な『工場』から、蒸気機関という機械の力で、毎日何万着と吐き出されているとか……」
(何万着、ですって……?)
布の縫い目を指の腹でなぞり、セレスティアは戦慄に息を呑んだ。
(一ミリの狂いもない、完全に均一なステッチ。職人の温もりなど一切ない、冷酷なまでに完璧な『規格化』。……そして、この絶対に色落ちしない、不自然なまでの化学染料)
すべてのピースが、恐ろしい一枚の絵となって組み上がった。
隣国で起きているのは、単なる好景気ではない。人間の筋肉や技術に依存する古い時代を終わらせる、暴力的なまでの『産業革命』だ。
そして、最も彼女を恐怖させたのは、その侵略の形だった。
(武器を持った兵士が国境を越えてくるわけではない。……この肌触りの良い下着と、鮮やかな服、そして安くて美味しいパンが、笑いながら国境を越えてくるのよ)
母でさえ、すでに依存している。
この領地から、隣国の製品を買うために莫大な金貨が毎日流出している。
気づけば自国の職人は死に絶え、農民は安い小麦に駆逐される。
すべての民衆が「隣国からの供給なしでは、一日たりとも生きられない」という状況に陥った時――それは一滴の血も流さずに、この国が完全に『経済的奴隷』として併呑されたことを意味する。
「……悪魔だわ」
小さな唇から、震える声が漏れた。
物理法則と経済という名の不可視の猛毒を使って、世界を丸ごと自分の「胃袋」へと作り変えようとしている、顔の見えない絶対者。
「マルコ、下がっていいわ。……これ以上、金貨を外へ流すわけにはいかない」
セレスティアは窓辺へと歩み寄った。窓の向こう、東の地平線の彼方。そこには、巨大な「白銀の糸」を世界中に吐き出し、すべてを絡め取ろうとしている怪物が息づいている。
(十歳まで、私はこの領地を守るために生きてきた。……でも、従来の統治や古い権威では、あの『経済という名の暴力』には太刀打ちできない)
彼女は、小さな両手を窓枠に強く押し当てた。
恐怖で指先が震えている。だが、その蒼い瞳の奥には、恐怖を上回る知的好奇心と、領主としての絶対的な覚悟が、激しい炎となって燃え上がっていた。
「待っていなさい、隣国の支配者(怪物)……。あなたがどれほど完璧な盤面を描こうと、私の生きる世界を、好き勝手に塗り替えさせはしないわ」
十歳の天才令嬢は、見えない強敵へ向けて宣戦布告するかのように、不敵で悲壮な決意を帯びた笑みを刻み込んだ。
白銀の毒は、今まさに新たなフェーズへと、圧倒的な地響きを立てて進み始めていた。




