第123話:白銀の好循環と黄金の雪解け
深秋の冷ややかな風が、ヴァルハイト王国の王都『シュトルツ』を吹き抜ける。だが、かつてこの街を支配していた、死を予感させるような貧困の停滞は、もはや石畳の隙間にさえ残されていなかった。
王都の目抜き通りを震わせているのは、蒸気機関が吐き出す臓器を揺さぶる重低音と、石材を穿つツルハシの鋭い打撃音、そして額に真珠のような汗を散らした労働者たちが上げる、生の熱を帯びた咆哮である。
隠れ家の最上階、王都を一望できる執務室。
月光を吸い込む鉄羽と深海の青鱗が編み込まれた『蒼黒の鱗羽鎧』を重厚に鳴らしながら、俺はアンティークの椅子に深く身体を沈めていた。右手に握った漆黒の金属棒の先端から、チリッ、と青白い火花が爆ぜる。焦げたオゾンの匂いが、室内に漂う甘美な香油を瞬時に喰らい尽くした。
「……トール様。もはや、計算尺が摩擦で焼き切れんばかりの勢いでございます」
分厚い帳簿の山を抱え、深紅の絨毯に片膝を突いた大商人グレンが、畏怖と狂喜に震える声を絞り出した。彼の額には、秋の涼風を拒絶するような、脂ぎった熱い汗が滲んでいる。
「王都シュトルツのみならず、公共事業を展開した周辺の各領地において、経済指標が制御不能なほどに跳ね上がっております。トール様が設立された『建設会社』がばら撒いた日当という名のマナが、街の血流を爆発的に加速させているのです」
グレンは震える指先で羊皮紙を繰った。
「銀貨を握りしめた人夫たちは、まず『トール・ブルー』の規格服に袖を通して自尊心を満たし、次に香ばしく焼き上げられた『規格パン』で腹を満たし、夜には大衆ビアホールで琥珀の酒を煽る。彼らの猛烈な消費行動が、眠っていた産業を叩き起こし、需要の爆発を引き起こしました。結果として物価は上昇の兆しを見せておりますが……」
「……インフレーションだな」
俺はクリスタルグラスに注がれた琥珀色の魔酒を傾けた。氷がカランと鳴る冷徹な音が、静寂に波紋を広げる。
「しかし、物価上昇を呪う声など微塵もございません。なぜなら、トール様がその上昇曲線を先回りし、彼らの報酬をさらに高く書き換えられたからです!」
「当然のロジックだ」
三十代の社畜として、かつて血を吐くようなデスマーチの中で学んだマクロ経済の心理。金は溜め込むものではなく、回すことで熱を産む。その還流経路のすべてを自前のシステムで独占してしまえば、ばら撒いた金は増幅され、必然的に俺の懐へと還流してくる。
「王国の国庫という巨大な貯金箱から資金を引き出し、意図的にマイルドなインフレーションを誘発する。物価が上がれば俺の企業の利益は増大し、それを賃金として労働者に再分配する。懐の温かくなった彼らはさらに消費を加速させる……。完璧な『経済成長の好循環』だ」
「その結果……」と、グレンは信じがたい奇跡を語るように声を震わせた。「活発な経済活動により、各領地の『税収』が、前年比で数十倍という狂気的な数字を叩き出しております。国王も貴族どもも、目の前の金貨の山に目を眩ませ、もはやトール様の事業に口を挟む理性すら失っております」
「愚か者どもめ」
俺は冷たく鼻で笑い、魔酒を喉の奥へ流し込んだ。アルコールの鋭い熱が、冷徹な演算を続ける脳髄を心地よく撫でる。
「彼らは税収が増えたと浮かれているが、その金は来年の事業費として再び俺の建設会社に還ってくる。王国の経済という心臓のペースメーカーは、すでに俺が完全に握り潰しているのだ」
***
しかし、俺の『支配領域』が捉える都市の脈動は、まもなく訪れる致命的な脅威――「白き死」と渾名される過酷な冬の接近を告げていた。
「グレン、バルカスを呼べ。……労働者たちに、冬の凍死などという非効率な損失は許さない」
数十分後、機械油と石炭の匂いを染み込ませた天才魔導具師バルカスが、熱に浮かされたような瞳で執務室に飛び込んできた。
「トール様! 次なる世界の再定義でございますか!」
「ああ。都市の地下に張り巡らせたミスリルの温熱インフラを、王都周辺の広大な『農地』にも拡張しろ」
バルカスとグレンが、同時に息を呑む音が聞こえた。
「農地に……熱を、ですか?」
「秋の終わりに『冬小麦』の種を蒔く。通常なら凍土の中で死に絶える運命だが、タルタロスのマザー・コアから汲み上げる魔力を熱に変換し、地下のミスリルパイプに流し込む」
俺は机の上に新たな設計図を広げた。
「大地そのものを温め、雪の下で強制的に発芽させる。……自然の猛威すらも、俺のシステムの一部として飼い慣らす」
「……神の、御業だ。大地から冬を奪い去り、箱庭の春を創り出すというのですか……!」
***
やがて、世界は猛吹雪の白銀に完全に閉ざされた。
だが、トールという絶対者が支配する経済圏において、冬は絶望の季節ではなかった。
「おうおう! 外は凍りつく地獄だが、ここは汗ばむくらいだぜ!」
「今日のノルマを終わらせて、ビアホールに飛び込むぞ!」
地下下水道の工事現場。自警団の号令の下、労働者たちは生き生きとツルハシを振るっていた。
仕事が終われば、彼らは暖房の効いたビアホールへと雪崩れ込む。
「親父! 規格パンのシチューと、エールをジョッキでくれェッ!」
シュワァァァッ! という心地よい泡の音。
渇ききった喉に冷たい液体が流れ込んだ瞬間、彼らの口から魂を震わせる咆哮が上がる。
「最高だ! 物価は上がったが、それ以上に日当がいいからな。女房や子供に、毎日腹いっぱい肉を食わせてやれる!」
彼らの心にあるのは冬への恐怖ではない。トールのシステムへの絶対的な依存と、狂信的な感謝だ。彼らは自らの幸福のために、俺の帝国の歯車として嬉々として回り続けていた。
***
そして、季節は巡る。
雪解け水が春を告げ、湿り気を帯びた暖かな風が大地を撫で始めた頃。
王城の玉座では、国王フリードリヒ三世が歓喜に顔を上気させていた。
「見よ、ヴァルデマール! 余の治世はまさに黄金時代だ! 倉庫から金貨が溢れ出しておる!」
魔酒に脳を蕩かされた愚王は、自らの手柄であるかのように高笑いを上げている。
だが、ヴァルデマール侯爵の顔は、死人のように青ざめていた。彼は気づいているのだ。王国の血流、インフラ、そして民衆の魂までが、トールという少年の手に完全に掌握されている事実に。
「陛下……我々は、見えない鎖に首を絞められているのですぞ……」
***
同じ頃、王都周辺の農地。
俺は、隠れ家の最上階から光景を見下ろしていた。
「……トール様。圧巻でございます」
冬の間、雪の下で温熱パイプの熱を浴びて育った『黄金の冬小麦』。それは春の陽光を浴びて一気に背を伸ばし、見渡す限りの大地を、波打つ黄金の絨毯へと変貌させていた。
「刈り入れを開始しろ。一粒のロスも許さん」
――ギュイィィィィィィンッ!!!
大地の底から響くような重低音と共に、バルカスが開発した『蒸気駆動式大型コンバイン』が、黒煙を吐き出しながら黄金の海へと突入した。
鋼鉄の怪獣は圧倒的な速度で小麦を呑み込み、脱穀を行い、黄金の粒を後方へ吐き出していく。人力で数千人が数週間かける作業が、たった数時間で完了していく。
「これで、王国の数年分に匹敵する食糧が俺の蔵に収まる」
俺はクリスタルグラスを揺らし、アルコールの香りを深く吸い込んだ。
「衣・食・住、そしてインフラ。王国の経済は俺の指先で踊り狂い、貴族どもは目先の税収増に酔いしれている。だが、その実態は、俺のシステムという巨大な胃袋の中で完全に消化された後だ」
すべてを掌握し、国家という古い概念を「全自動の経済システム」へと書き換えた十二歳の絶対者は、残酷なまでに美しく、完璧な支配者の笑みを深く刻み込んだ。
「さあ、世界よ。俺の蒔いた黄金の麦を食い、俺の敷いたレールの上で、永遠に幸福な奴隷として踊り続けろ」




