第129話:メガ・ベーカリーの熱狂と、見えざる絶対者の幻影
鼓膜を容赦なく蹂躙する、規則正しくも暴力的な重低音。
――シュッ、ガシャン。シュッ、ガシャン。
大地を芯から震わせるその律動は、ヴァルハイト王国を音もなく飲み込みつつある「怪物」の、あまりに巨大な心臓の鼓動そのものであった。
見習い丁稚の粗末な麻服に身を包み、かつての銀糸の髪を泥色の染料でくすませた十歳の天才令嬢セレスティアは、目の前にそびえ立つ赤煉瓦の巨塔――『巨大食品加工工場』を見上げ、戦慄に濡れた蒼い瞳を色付き眼鏡の奥で揺らしていた。
「……これが、パンを焼くためだけの『竃』だというの……?」
「お嬢様、お口を。……私たちは今、ただの泥にまみれた荷運びの小僧です」
隣で同じく男装に身をやつしたリーゼが、周囲の喧騒を警戒しながら低く、鋭くたしなめる。だが、その澄んだ声の端々にも、抑えきれない驚愕の震えが混じっていた。
マルコの商隊の末端として潜り込み、城塞都市の喉元に築かれたこの「魔の聖域」へ足を踏み入れてから、セレスティアの常識は秒単位で瓦解し続けていた。
パン屋といえば、粉にまみれた職人が夜明け前の静寂の中で竃に火を入れ、汗と脂にまみれて生地をこねる、血の通った営みのはずだ。
だが、この工場に「職人」の温もりは一片も存在しない。
セレスティアたちが運び込んだ何百もの小麦粉の袋は、蒸気の咆哮を上げる鋼鉄の腕によって次々と攪拌槽へと放り込まれる。大森林の霊脈から引き抜かれた魔力水と混ぜ合わされた生地は、『ベルトコンベア』という名の、意志を持った蛇のような動く帯に乗せられ、無慈悲な鋼の刃によって寸分の狂いもなく断裁されていく。
巨大なオーブンの内部を通過する間に、生地は蒸気の廃熱を吸い込み、出口に到達する頃には完璧に規格化された『高カロリーの硬焼きパン(ハードタック)』や、驚くほどふんわりと甘い丸パンとなって、コンテナへと滝のように吐き出されていくのだ。
「すげえな! 今日の稼働率も完璧だ! これなら昼の配給にも、他国への輸出分にも余裕で間に合うぜ!」
蒼黒の作業服を纏った工員たちが、流れてくるパンを機械的な手つきで袋詰めしながら、憑りつかれたような充足感に満ちた笑顔で叫んでいる。
彼らの瞳に、反復労働への倦怠や疲弊は一欠片もない。あるのは、この完璧な歯車の一部として機能しているという、狂信的なまでの安心感だけだ。
(人間が、機械の部品にされている……。ううん、違うわ。彼らは自ら進んで、この神の如きシステムに己の魂を献上しているのよ)
セレスティアは、台車を押す手に滲む冷や汗を拭った。
工場の外に併設された『バーガーショップ』からは、肉が焼ける脂の重厚な匂いと、大衆ビアホールで労働者たちが煽る黄金の酒の香りが、霧のように漂い、民衆の理性を甘く麻痺させている。
店先に山積みされた『バーガーのレシピ』。それは他国の食文化を根底から腐らせ、すべての胃袋をこの工場の生産ラインへと繋ぎ止めるための、笑顔の侵略に他ならない。
「……心臓は、この奥よ、リーゼ。この恐るべき盤面を描き、冷徹な論理を積み上げた人間が、必ずこの迷宮のどこかに潜んでいるはず。……私が、その正体を暴き出してやるわ」
セレスティアは、小さな掌に走る痛みを無視して台車を握りしめ、工場の深部、あの無機質な管理区画へと射抜くような視線を向けた。
***
しかし――。
セレスティアの気高き決意を嘲笑うかのように、時間はただ無慈悲に、砂時計の砂が落ちるように過ぎ去っていった。
潜入から三日、一週間、そして一ヶ月。
彼女とリーゼは、マルコの商隊の納入スケジュールという細い糸を頼りに何度も施設へ潜り込み、その驚異的な知力をもってシステムの構造を解剖し続けた。
蒸気機関の熱効率から物流のタイムスケジュール、果ては香草の仕入れルートに至るまで。だが、どれほど緻密に外堀を埋めようとも、肝心の「支配者」にだけは、指先一つ触れることができなかった。
「……今日も、幻を追っていただけだったわね」
安宿の、カビの臭いが染み付いた狭い一室。
セレスティアは硬いベッドに身を投げ出し、鉛のように重い声で呟いた。十歳の小さな肉体での肉体労働は、前世の深窓の生活しか知らぬ彼女にとって、魂を削るような苦行だった。
「お疲れ様でございます、セレスティア様。お御足を揉ませていただきます」
リーゼが静かに寄り添い、セレスティアの腫れ上がったふくらはぎを、温かな掌で優しく解きほぐしていく。その生きている人間の体温だけが、セレスティアが狂気の淵で正気を保つための唯一の錨だった。
「ねえ、リーゼ。……不気味だと思わない?」
セレスティアは、天井のささくれた木目を見つめながら、唇を強く噛んだ。
「この一ヶ月、あらゆる者に探りを入れたわ。けれど、誰一人として『彼』の姿を知らない。誰もが敬虔な信者のように『トール様』の名を唱えるけれど、その実在を証明できる者がいないのよ」
「……はい。まるで、透明な神を崇めているかのようです」
工場の稼働計画も、新メニューの導入も、すべては魔導通信具や書面という「結果」のみで下達される。
トラブルが発生すれば、表の自警団や、闇を走る『忍者』と呼ばれる異能の集団が全自動で処理を行い、システムは一秒の遅滞もなく稼働し続ける。
『顔の見えない絶対者』。
それは、かつてセレスティアを苦しめた腐敗貴族たちとは、存在の次元が違っていた。権力を誇示する虚飾も、民衆の歓声を浴びる虚栄心もない。
ただ、冷酷なまでに完璧な『合理性』という名の盤面を構築し、自分という駒は決して表舞台へ降ろさないのだ。
(悔しい……っ! これほどまでに彼の吐き出す「毒」が世界を染めているのに、私はその影の端すら踏めないなんて……!)
セレスティアの胸中で、黒い焦燥感と、ある種の「熱」が渦を巻いていた。
前世で無能な男たちに翻弄され、絶望のまま毒を煽った彼女。六歳で死に戻り、誰にも依存しないと誓った「天才」のプライド。
その彼女の頭脳をもってしても、まったく底の見えない、圧倒的なまでの俯瞰的知性。
「顔も見せないまま、世界を全自動で調教するシステムを組み上げる……。そんな化け物が、私と同じ人間だなんて信じられないわ」
セレスティアの呟きは、恐怖であると同時に、強烈な「知的好奇心」と、逃れられぬ「執着」の色を帯び始めていた。
自分と対等、あるいはそれ以上に世界を盤面として俯瞰している存在。
もし彼にまみえることができたなら。もし彼と直接、この知略の火花を散らすことができたなら。
それは、孤独な天才令嬢の凍てついた心に芽生えた、酷く歪で、狂熱的な「初恋」にも似た感情だった。
「お嬢様」
リーゼの手が止まり、その琥珀色の瞳がセレスティアを射抜いた。
「あまり、あの『深淵』を覗き込みすぎないでください。……お嬢様の瞳が、時折、彼に魅入られているように見えます」
リーゼの静謐な警告に、セレスティアはハッとして顔を背けた。
「そ、そんなことないわ。私は、彼を止めるために……我が国を守るために、弱点を探しているだけよ」
***
さらに数週間。季節は初夏を迎え、城塞都市の熱気はますます肺を焼くように重くなっていた。
その日、二人はメガ・ベーカリーの屋上に突き出した排気塔の陰に潜んでいた。
「……シュッ、ガシャン。シュッ、ガシャン」
足元から響く不変の律動。黒煙が空を焦がし、下界では無数の労働者たちが、今日も笑顔でシステムの歯車として蠢いている。
「また、何も起きない……」
セレスティアは色付き眼鏡を外し、汗ばんだ額を拭った、その時。
――ゾワリ。
全身の産毛が、音を立てて逆立った。
隣にいたリーゼが、弾かれたように腰の短剣へ手を掛け、何もない空間を鋭く睨みつける。
「リーゼ……? 何か、来るの?」
「……いえ。誰もいません。ですが……今、確かな『視線』を感じました。なぶられるような、圧倒的な圧力を」
リーゼの言葉に、セレスティアは息を呑んだ。
視界には、青い空と工場の煙突、そして遠くに見える大聖堂の尖塔しかない。
しかし、肌に纏わりつくような、冷徹ですべてを見透かす無機質な圧力が、空間そのものから彼女たちを「観察」している。
(……これが、『彼』の眼なの!?)
トールの放つ『管理者権限:支配領域』。
大気中の魔力そのものを神経網として都市を監視する、神の視座。
セレスティアはその術理を知る由もなかったが、天才ゆえの直感で、この不可視の重圧の正体が、自分が追い求める「怪物」のものであると悟った。
「姿を現しなさい……っ!」
セレスティアは、見えない虚空に向かって、震える声で叫んだ。
「安全な場所から見下ろしているだけなんて、卑怯よ! あなたのその完璧なシステムも、いつか必ず私が綻びを見つけてみせるわ! だから……私の前に、姿を……!」
沈黙。
ただ蒸気の音と、遠い街の喧騒だけが、彼女の悲痛な叫びを無慈悲に吸い込んでいく。
視線は、数秒間彼女たちを舐めるように走査した後、興味を失ったかのようにスッと霧散した。
明らかな「不純物」を持たぬ「見習い丁稚」にすぎないとシステムが判断し、処理を保留したのだ。
「……消えました。ですが、なんという恐ろしい気配……。空そのものに見下ろされていたかのようです」
リーゼが冷や汗を流しながら、短剣から手を離す。
セレスティアはその場にへたり込み、両手で顔を覆った。
触れることすらできない。声すら届かない。
彼はただシステムを構築し、世界のルールを書き換え、自分は決して舞台に上がらない。
「……っ、あああああぁぁぁっ……!」
セレスティアの口から、悔しさと、圧倒的な無力感、そして見えない好敵手への底知れぬ渇望が混ざり合った、押し殺したような嗚咽が漏れた。
時間が、ただ虚しく過ぎていく。
トールが張り巡らせた「白銀の糸」は、セレスティアが足掻いている間にも、ファルサス王国を、そして世界を確実に縛り上げ、その巨大な胃袋へと消化し続けている。
「絶対に……絶対に諦めない。あなたが世界を全自動の機械に変えるというなら、私がその歯車に砂を噛ませてやる。……いつか必ず、あなたを私の目の前に引きずり出してやるわ……!」
初夏の熱風が、黒煙を運んで彼女の銀髪を揺らす。
顔の見えない絶対者と、地獄を知る天才令嬢。
決して交わることのない二人の平行線は、終わりの見えない知略の螺旋を描きながら、焦燥と狂熱の底へと深く、深く沈んでいったのだった。




