第212話:新・星の理の構築(オーバーロード・インク設立)
天上の彼方。星の理を管理していた白亜の空間には、雷霆によって完全にデリートされた旧管理者『監視者』の残滓である、焦げたオゾンの匂いだけが漂っていた。
『――システム・アクセス権限の移行を確認。新たな管理者を登録します』
無機質な承認の音声が響き渡り、少年の絶対者・トールの脳髄に、この星のあらゆる法則、魔力の源泉、次元の構造に至るまでの絶対的な権限が流れ込んでくる。
だが、勝利の余韻を味わう暇はなかった。
『警告。旧管理プロトコルの強制停止により、魔力循環システムに深刻なエラーが発生。大龍脈の魔力圧力が臨界点を超過。……星の物理的崩壊まで、残り――』
白亜の空間を、網膜を焼くような真紅の警告光が埋め尽くす。
無限の純白の中央で回転していた天球儀のホログラムが、内側からの圧力に耐えかねて悲鳴を上げ、無数の亀裂を走らせていた。
「……チッ。数千年も古いシステムを騙し騙し使ってきたせいで、メモリが限界を超えていたか。前任者が引き継ぎ資料一つ残さず消えやがるのは、いつの時代も同じだな」
少年は、漆黒の金属棒を天球儀の亀裂へと突き立て、冷徹に悪態をついた。
星の循環を無理やり押さえつけていたオブザーバーが消滅したことで、溜まりに溜まった大龍脈の魔力が、行き場を失った濁流となって暴走を始めたのだ。このままでは、過剰なエネルギーが地殻を突き破り、星そのものが内部から爆発して消滅する。
「だが、この星はすでに俺が買い取った俺の企業だ。……勝手に倒産することは許さん」
少年は、知力と魔力のすべてを解放し、自らの脳髄を星のシステム中枢へ直接同期させた。
「『管理者権限:支配領域』――全域展開」
彼の意識は天上の玉座を離れ、地上の城塞都市、地下の迷宮、そして星全体に張り巡らされたミスリルの超伝導ネットワークへと光速で駆け巡る。
「俺が構築した地上のインフラを、すべて『冷却装置』として流用する。暴走する大龍脈の魔力を、俺の工場のボイラーへ、温浴施設へ、巨大な農業プラントへと強制的にバイパス接続しろ!」
圧倒的な魔力の濁流が、少年の神経を直接通過してインフラへと流れ込む。
肉体が内側から焼き切れそうな凄絶な苦痛。骨が軋み、細胞が悲鳴を上げる。だが、前世の社畜時代にデスマーチを生き抜いた彼の精神は、星の崩壊という絶望的なエラーログを前にしても、ミリ秒単位の冷徹なデバッグ作業を止めることはなかった。
「足らないなら、俺自身が『ハブ』になるまでだ。……星の理よ、俺の論理で上書き(オーバーライド)されろ!」
***
同時刻、地上の王都シュトルツ。
深夜の空は、終末を告げるような赤黒い嵐に染め上げられようとしていた。大気が異常な熱を持ち、石畳が不気味な地鳴りを上げて震えている。
スラムの片隅、隠れ家としていた空き教会の窓辺で、天才令嬢たる少女・セレスティアは、色付き眼鏡の奥の蒼い瞳を戦慄に見開いていた。
「……星の理が、壊れていく。あの怪物が、天上の神様を本当に殺してしまったのね……!」
「お嬢様、空が……! 魔力が暴走しています、このままでは地上は火の海に!」
護衛のリーゼが、恐怖に顔を蒼白にして主を庇う。
少女は、窓枠を強く握りしめた。
前世で経験したどんな政治的陰謀も、この星規模の崩壊に比べれば砂遊びに等しい。圧倒的な次元の力の前に、人間はただ祈り、死を待つしかないのか。
だが――。
「……違うわ。見て、リーゼ。足元を!」
少女が叫んだ瞬間。王都の地下に張り巡らされた『ミスリルの導線』から、目も眩むような青白い光が立ち昇り始めた。
それは、まるで大地そのものが青い血管を浮かび上がらせたかのようだった。
暴走する赤黒い魔力の嵐が、地上から放たれた幾何学的な青いグリッド線によって、強引に、そして精密に絡め取られていく。
「あいつ……あの見えない怪物は、星の崩壊を防ごうとしているんじゃないわ。暴走する神の力を、すべて自分のインフラの『動力源』として強引に飲み込もうとしているのよ……!」
少女の天才的な頭脳は、今この星で起きている事象の正体を完全に解読していた。
空を覆っていた赤黒い嵐が、まるで巨大な機械に吸い込まれるように収束していく。そして、荒れ狂っていた夜空は、透き通るような、そして絶対的な秩序を感じさせる『トール・ブルー』の魔力光に優しく包み込まれ、完璧な静寂を取り戻したのだ。
「……星の理を、自分のシステムで完全に上書きしてしまった。あの少年は、神様を解雇しただけじゃない。彼自身が、この星の新しい『最高経営責任者(CEO)』に就任したのね」
少女の口から、乾いた、しかし底知れぬ畏敬と対抗心を孕んだ吐息が漏れた。
神殺しすらも、巨大な企業買収の一環として成し遂げてみせた絶対者。その恐るべきスケールを前にしても、彼女の反逆の炎は消えるどころか、ますます熱く燃え上がっていた。
***
天上の白亜の空間。
アラートは完全に消え去り、中央の天球儀は、かつての淡い光ではなく、少年の意志を反映した青白い光を放ちながら、静かで力強い自律回転を始めていた。
少年は玉座に深く身を預け、全身から立ち昇る凄まじい熱と疲労を、ゆっくりとした深呼吸で冷ましていった。
「……デバッグ完了だ。旧態依然としたスパゲティコードは、すべて俺の最新規格で書き換えてやった」
少年の視界には、星全体の魔力循環が完璧な効率で駆動しているログが流れ続けている。
「これより、無駄に魔力を飽和させ、迷宮から魔物を吐き出して人間に間引かせるという、非効率なマッチポンプ(旧システム)を廃止する」
少年の冷徹な声が、高次元の空間に新しい理として刻み込まれていく。
「大龍脈の魔力は、すべて俺の工場の動力、インフラの維持、そして民の胃袋を満たす農業プラントへと直接変換する。……この星のすべての生命、魔力、資源は、俺が管理する巨大な生産と消費のサイクル(サプライチェーン)に組み込まれた」
社畜時代、彼が血反吐を吐きながら夢見た「完全自動の不労所得」。
それは今、星そのものを一つの巨大な「企業体」として再定義することで、究極の完成を見た。
「今日、この瞬間をもって、この星は俺の私有地であり、俺が経営する『完全自動の絶対企業』となる」
神は死に、自然の猛威すらもシステムの一部として飼い慣らされた。
誰もが彼の敷いた規格の中で生まれ、彼が与える『極上・琥珀の魔酒』や温熱に依存し、彼のシステムを回すための歯車として幸福に生き、子を産み育て、そして死んでいく。
「さあ、世界よ。俺の掌の上で、永遠にその命の歯車を回し続けろ」
少年は、天上の玉座で不敵な笑みを深く刻み込んだ。
***
それから、数年の月日が流れた。
新世界の朝。
城塞都市は、かつてないほどの輝きを放ち、空には蒸気機関の力強い白煙が真っ直ぐに立ち昇っている。
大河には鋼鉄の蒸気船が絶え間なく行き交い、大地には『白銀の軌条』を走る機関車が、大陸中から無尽蔵の富を運び込み続けていた。
その都市の最も豪奢な商業区の一角。『合弁会社』の重厚な役員室。
美しく成長した天才少女・セレスティアは、最高級の絹で仕立てられたドレスに身を包み、優雅に紅茶を傾けながら、山積みにされた決算報告書に目を通していた。
「……相変わらず、吐き気がするほど完璧な決算ね。星の理を丸ごとインフラに変えたのだから、当然といえば当然だけれど」
「お嬢様。……いえ、セレスティア取締役。隣国からの追加発注がまた記録を更新いたしました」
傍らに控える侍女リーゼが、琥珀色の瞳に柔らかな笑みを浮かべて報告する。
「ええ、分かっているわ。……彼が星の管理者(CEO)になったというのなら、私たちはこの巨大な市場の中で、最も強かで、最も厄介な『筆頭株主』になってやるだけよ」
少女の蒼い瞳には、巨大すぎるシステムの中に微細な「論理の隙」を見つけ出そうとする、終わることのない知略の光が宿っていた。
彼女は決して諦めない。彼が築き上げた絶対企業の裏をかき、経済の論理で彼を出し抜くその日まで。
そして、都市を一望する隠れ家の最上階。
少年の絶対者は、いつものようにクリスタルグラスに注がれた魔酒を揺らし、眼下に広がる完璧な自らの帝国を見下ろしていた。
「……すべては、俺の演算通りだ」
星のすべてを掌握し、一切の手間をかけずに莫大な富が還流する究極のシステム。
だが、その完璧な退屈の中で、彼の視線は、都市の一角にある合弁会社のオフィスへと向けられていた。
「完璧なシステムだ。……だが、あの少女だけは、いつかこの盤面に砂を噛ませようと、今も嬉々として牙を研ぎ続けているのだろうな」
少年の唇に、残酷で、しかしこの上なく楽しげな笑みが浮かぶ。
神の理を超え、世界を一つの企業として買収(M&A)した絶対者。
そして、そのシステムの心臓部に食らいつこうとする不屈の天才少女。
物理と経済が支配する白銀の新世界で、二人の天才による、決して終わることのない甘美で狂熱的な「知略の舞踏会」は、これからも永遠に続いていくのだった。




