第213話:【完】究極のM&Aと祝福の胎動
トールが天上の『監視者』を解雇し、星の理そのものを『完全自動の絶対企業』として再構築してから、数年の月日が流れた。
城塞都市、迷宮都市、そして港湾都市を結ぶ『覇道のトライアングル』は、今や大陸全体を飲み込む巨大な経済の心臓として、暴力的なまでの富を全自動で循環させている。
蒸気機関の黒煙は世界を白銀の規格で染め上げ、人々はトールの提供するインフラと魔酒に絶対的な幸福と依存を抱き、狂信的な歯車として日々を謳歌していた。
だが、その完璧な盤面の中で、唯一の「摩擦」が未だに解消されずにいた。
トールの絶対企業と、セレスティア率いるファルサス王国との合弁事業。
互いに相手のシステムを経済の論理で乗っ取ろうと、終わりのない知略の刃を交わし続けた結果、二つの経済圏は極めて複雑かつ不可分に絡み合ってしまったのだ。
トールの工場から吐き出される製品はセレスティアの巨大な物流網なしには流通せず、セレスティアの領地の経済はトールの提供するインフラとエネルギーに完全に依存している。
もはやどちらか一方が倒れれば、世界経済そのものが一瞬でメルトダウンを起こす『巨大な共依存状態』。
トールの隠れ家の最上階。
円卓を挟んで、二人の支配者は今日も冷徹な視線を交錯させていた。
美しく成長した少女――セレスティアは、最高級の絹で仕立てられたドレスに身を包み、優雅に紅茶を傾けている。トールもまた、少年の面影を残しながらも、冷徹な絶対者としての威厳をさらに深めていた。
「……セレスティア。昨四半期のファルサス方面への関税率だが、契約にない不自然な変動が見られる。貴様の商会が意図的に帳簿の決済を遅延させているのではないか」
「あら、人聞きの悪い。システム上の微細なタイムラグよ。あなたの巨大すぎるプラントが吐き出す物量を、私が完璧に捌いてあげているのだから、その程度の『手数料』は当然の権利でしょう?」
「俺の物流網にタダ乗りしておきながら、随分と傲慢な物言いだな」
「タダ乗り? あなたの市場を安定させているのは、私の政治力と販路があってこそよ。少しは感謝の言葉でも口にしたらどうかしら、ブラック上司さん」
互いに一歩も譲らない平行線。
だが、二人の背後に控えるグレンやリーゼは、毎日のように繰り返されるこの不毛な「痴話喧嘩」に、内心で深い溜息をついていた。
相手の思考を読みすぎる二人の天才は、互いを警戒するあまり、決定的な一手を打つことも、引くこともできない「膠着状態」に陥り、ただ無意味に言葉の刃をぶつけ合う日々を重ねていたのだ。
「——もうっ! じれったいたらありゃしない!!」
突如として、執務室の空気が物理的な重量を失い、時間が完全に凍りついた。
空中で傾いたティーカップからこぼれ落ちる紅茶の雫が空中に静止し、背後に控えていたグレンやリーゼも、瞬き一つせず石像のように固まっている。
『管理者権限』を持つトールと、それに比肩する精神力を持つセレスティアだけが、その異常事態の中で辛うじて動くことができた。
「……何だ?」
「時間が、止まっている……?」
部屋の中央、空間が薄青く歪み、そこからむせ返るような純白の霧が溢れ出した。
霧の中から現れたのは、純白の衣を纏った一人の無垢なる少女。
大聖堂に鎮座し、人々の心を癒やす『無名の女神』——ララァであった。
「なっ……女神ララァ!? お前、俺のシステムに無断でアクセスするなと……」
トールが眉をひそめて立ち上がるが、ララァは頬をぷくっと膨らませてトールをビシッと指差した。
「うるさいわね、この唐変木! 毎日毎日、顔を合わせれば『関税』だの『在庫』だの『リスクヘッジ』だの……! ビジネス用語でしかお互いを見つめられないなんて、見てるこっちが恥ずかしくなるわ! 私が手助けするわ!」
「は? 手助けだと?」
「セレスティアもよ! 完璧な計算とか言いながら、彼の前だと素直になれないんだから。せっかく私がこの世界にあなたを呼び込んだというのに、ちっとも甘い展開にならないじゃないの!」
「なっ……! ラ、ララァ様、何を仰っているの! 私は彼を経済で打倒するために……!」
顔を限界まで真っ赤にして反論するセレスティア。
だがララァは、「はいはい、言い訳はそこまで」と無邪気に笑うと、パチン、と指を鳴らした。
「二人の魂の波長が完璧に重なるまで、この絶対隔離空間は解除してあげないわ。せいぜい、二人きりで『本当の交渉』をすることね!」
言うが早いか、ララァの姿は再び光の粒子となって霧散し、後には完全に静止した世界と、二人きりの空間だけが残された。
***
「……まったく、余計なバグ(神)を抱え込んでしまったものだ」
トールは深く溜息をつき、再び革張りの椅子へと身を沈めた。
「ど、どうするのよ。時間が止まったままじゃない!」
セレスティアが焦ったように窓の外を見るが、空を飛ぶ鳥も、煙突から出る黒煙も、すべてが絵画のように静止している。
「……ちょうどいい機会だ、セレスティア。俺も、この非効率な膠着状態には辟易していたところだ」
トールは、引き出しから一葉の豪奢な羊皮紙を取り出し、机の中央へと滑らせた。
そこには、互いの商会と領地の権利に関する、膨大かつ緻密な条項が記されている。
「これは……?」
「この数年、俺たちはお互いの首に経済のナイフを突きつけ合いながら、無駄な『摩擦コスト』を払い続けてきた。お前が俺のシステムに仕掛ける防衛策も、俺がお前を締め上げるための供給制限も、マクロ視点で見れば利益の損失でしかない」
トールは立ち上がり、黄金の瞳でセレスティアの蒼い瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「だから、この非効率を根本から解決するための、究極のソリューション(解決策)を提案する。……互いの資産、権利、そして未来の利益のすべてを、100%統合する『完全なるM&A』だ」
セレスティアの息が止まった。
「……100%の統合、ですって? それはつまり、私があなたに吸収合併されるということ……!?」
「違う。対等な『合弁契約の最終形態』だ。俺が持つ星の理と、お前が持つファルサス王国の巨大な市場。これらを一つの財布(口座)にまとめる。これにより、両国間の関税は完全撤廃され『税制面の優遇』を極限まで享受できる。さらに、互いのインフラを共有することで、いかなる外的要因にも揺るがない絶対的な『リスクヘッジ』が完成する」
トールの言葉は、徹頭徹尾、冷徹なビジネス用語で構成されていた。
だが、その羊皮紙の一番下、契約の署名欄に記されていたタイトルは――。
『婚姻誓約書』。
セレスティアは、その文字を見た瞬間、全身の血が沸騰したように顔を赤く染め上げた。
「こ、これ……! 婚姻、って……! あなた、これがどういう意味か分かって……!」
「俺の提示した『完全なる資本の統合』には、両者の戸籍を同一にする法的手続きが最も合理的だ。これにより、俺とお前は公私ともに最強のパートナーとなる。……これ以上の成長戦略が、他にあるか?」
トールは平然と言い放つが、その視線はいつになく真剣で、どこか隠しきれない熱を帯びていた。
セレスティアは、震える手で羊皮紙を握りしめた。
前世の地獄。誰かに依存することを恐れ、一人で世界と戦うために心を凍らせてきた彼女。
だが、目の前にいるこの顔の見えない絶対者は、彼女の知性を誰よりも理解し、彼女の仕掛ける罠を誰よりも楽しんで受け止めてくれた、唯一無二の好敵手。
愛や感情といった甘い言葉は一切ない。ただ「お前というリソースが俺の人生に不可欠だ」という、彼なりの不器用で、圧倒的なプロポーズだった。
「……本当に、あなたって男は、どこまでもムカつくブラック上司ね」
セレスティアは、色付き眼鏡を外し、本来の美しくも気高い蒼い瞳でトールを睨み返した。
その瞳には、うっすらと涙が浮かび、同時に最高の笑顔が咲いていた。
「いいわ。この『究極のM&A』、受けてあげる。……でも勘違いしないでよね! これは私が、あなたの絶対企業のCEOの座を、合法的に乗っ取るための『最短ルート』なんだから!」
「くくっ……上等だ。せいぜい、俺の寝首を掻く機会を永遠に狙い続けることだな、俺の『共同経営者』」
二人の手が、机の上で固く握り合わされた。
その瞬間。
『――ふふっ、よくできました!』
空間にララァの満足げな笑い声が響き渡り、凍りついていた時間が一気に流れ始めた。
こぼれ落ちる紅茶の雫がカップの縁を叩き、窓の外で鳥が羽ばたく。
驚いて目を丸くするグレンとリーゼの前で、トールとセレスティアは、互いにそっぽを向きながらも、その手は決して離すことはなかった。
***
それから、さらに少しの時が流れた。
新世界の朝。城塞都市を一望できる、領主の館(現在は完全なる二人の居城)の広大なバルコニー。
大河を行き交う蒸気船の汽笛と、鉄道の力強い響きが、二人の築き上げた絶対的な世界の繁栄を謳い上げている。
トールは、隣に立つセレスティアの肩をそっと抱き寄せた。
彼女はふっくらと膨らんだお腹を、慈しむように両手で撫でている。
「……どうだ、我が社の『次期CEO』の調子は」
「相変わらず、元気すぎるわ。さっきから、私のお腹の中でビクッ、ビクッって……まるで、早く外の世界の市場を支配したくて暴れているみたい」
セレスティアが幸せそうに微笑むと、トールもまた、彼女の腹部にそっと手を当てた。
トールの『管理者権限:支配領域』は、彼女の胎内に宿る、小さな、しかし規格外の魔力を持った命の拍動を、確かな「光」として捉えていた。
それは、トールの冷徹な論理と、セレスティアの予測不能な知略を受け継いだ、世界で最も恐ろしく、そして愛すべき『最高のバグの塊』。
「……俺たちの構築したこの完璧なシステムに、とんでもないイレギュラーが誕生しそうだな」
「ええ。あなたのように理屈っぽくて、私のように負けず嫌いな子が生まれたら、この世界はもっと騒がしくなるわね」
二人は顔を見合わせ、声を出して笑い合った。
かつて泥水を啜り、孤独の中で世界を呪った二人の転生者は、今、すべてを掌に収め、共に未来という名の予測不能な相場を心待ちにしている。
「さあ、世界よ。俺たちと、俺たちの新たな『株主』が描く次の盤面を、せいぜい楽しみに待っているがいい」
トールの静かな宣言が、朝の清々しい風に乗って、無限の可能性を秘めた白銀の世界へと響き渡っていった。
【完】
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。




