第210話:盤上の舞踏会と白銀の合弁(ジョイント・ベンチャー)
城塞都市の正門。
かつて見習い丁稚の麻服に身をやつし、泥にまみれてくぐり抜けたその巨大なアーチを、少女は今、まったく別の形で通り抜けようとしていた。
初夏の陽光を弾く豪奢な馬車。そこに掲げられているのは、隣国ファルサス王国の東部国境を統括する雄、ルーヴェン公爵家の紋章だ。
馬車の窓辺に座る少女――天才令嬢セレスティアは、泥色の染料を洗い落とし、本来の美しく輝く銀糸の髪を高く結い上げていた。極上の絹で仕立てられた公爵令嬢としての正装は、彼女が持つ天性の気品と威厳を何倍にも増幅させている。
「……お嬢様。よろしいのですね」
向かいの席で、完璧な護衛としての威儀を正した侍女リーゼが、琥珀色の瞳で静かに問いかけた。
「ええ。深淵の迷宮で、彼とは約束したわ。……コソコソと床下を這い回ってシステムを壊すのはやめにしてあげる。その代わり、正面から交渉のテーブルに引きずり出し、私の『経済の論理』で、彼の余裕の仮面を引き裂いてやるってね」
セレスティアの蒼い瞳には、迷宮で大龍脈の自爆を共に防いだ時の、あの燃え盛るような知の熱狂が宿っていた。
少年の築いた『覇道のトライアングル』――生産の城塞都市、資源の迷宮都市、物流の港湾都市を結ぶ巨大な経済インフラは、すでに完成の域に達しつつある。もはや物理的な破壊工作など、巨大な歯車の前に投げ込まれた小石にしかならない。
ならば、経済には経済で対抗する。
毒を中和するための、極上の「解毒剤」を突きつけるために。
***
城塞都市、領主の館。
最高級の調度品で飾られた応接室には、重苦しい沈黙と、隠しきれない焦燥感が渦巻いていた。
上座で冷や汗を拭っているのは、この都市の表の顔である領主ボルガ伯爵。そして、彼を補佐するように控えているのが、都市の金流を掌握する大商人グレンだ。
対面のソファで優雅に紅茶を傾けるセレスティアの放つ圧力は、年端のいかない少女のものとは到底思えなかった。
「……ルーヴェン公爵令嬢殿。我が都市の『極上・琥珀の魔酒』や衣服が、ファルサス王国でもご好評いただいているとのこと、大変喜ばしく思います。ですが、本日のご提案は、いささか……」
ボルガ伯爵が、魔酒に濁った目を泳がせながら言葉を濁す。
「喜ばしい? 冗談はおやめなさい、ボルガ伯爵」
カチン、と。セレスティアはティーカップをソーサーに置き、氷のように冷徹な微笑を浮かべた。
「貴方がたが我が国に流し込んでいるのは、笑顔に包まれた『猛毒』よ。安価で質の高い規格パンや衣服、そして理性を溶かす魔酒。これらに依存した我が国の民衆と貴族は、日夜、莫大な金貨をこの城塞都市へと流出させているわ」
グレンの肩が、ビクンと跳ねた。彼女が、自分たちの経済侵略の真の意図を完全に解剖していることに気づいたからだ。
「このままでは、我が国は自国の産業を守るため、貴方がたの商品に対して致死的な『超高額関税』をかけるか、あるいは国境を完全に封鎖する強硬措置を取らざるを得ない。……そうなれば、貴方がたの巨大な工場が吐き出す過剰な生産力は、行き場を失い、自らの首を絞めることになるわよ」
ボルガ伯爵の顔から血の気が引いた。ファルサス王国という巨大な市場を失えば、彼が享受している莫大な利益も水泡に帰す。
グレンは慌てて口を開こうとした。
「お、お待ちください、令嬢殿! そのようなことをされれば、両国間の関係が……」
「言い訳は不要よ。……私は『代理人』と話をするために、わざわざ公爵家の馬車を走らせたわけじゃないの」
セレスティアは、背筋をスッと伸ばし、応接室の奥、固く閉ざされた重厚なオーク材の扉を鋭く睨み据えた。
「そこから見ているのでしょう? 盤面を操作している『絶対者』さん。私が用意した交渉のテーブルよ。……座りなさい」
その宣告が響いた直後。
――ガチャリ。
扉が開き、室内の空気が物理的な重量を伴って冷え込んだ。
「……相変わらず、傲慢で可愛げのない客だな」
現れたのは、月光を吸い込む『蒼黒の鱗羽鎧』を纏い、漆黒の金属棒を肩に担いだ少年の絶対者、トールだった。
彼の黄金の瞳が、セレスティアの蒼い瞳と真っ直ぐに交錯する。
「トール様……!」
グレンとボルガ伯爵が、弾かれたように平伏した。
トールは二人を一瞥もせず、セレスティアの対面のソファへと優雅に腰を下ろした。
「初めて物理的に会うな、天才令嬢セレスティア。丁稚の服も似合っていたが、そのドレスも悪くない」
「お世辞はどうも。……顔の見えない怪物の仮面、ようやく剥ぎ取ってあげたわ」
セレスティアは一切怯むことなく、少年の放つ圧倒的なプレッシャーを真正面から受け止めた。
迷宮の星海で、共に大龍脈の自爆を防いだあの瞬間。互いの知力と底知れぬ狂気を理解し合った二人の間には、もはや小手先の駆け引きなど不要だった。
「国境封鎖だと言ったな」
トールは、運ばれてきた魔酒のグラスを揺らし、冷酷に笑った。
「無駄だ。俺の規格品の味を覚えた民衆は、どんな法を敷こうが密輸ルートを開拓してでもそれを求める。関税をかければ密売組織が肥え太るだけで、お前の国の国庫はいずれ空になる。……俺の『覇道のトライアングル』が完成しつつある今、経済の奔流は誰にも止められない」
「ええ、その通りよ」
あっさりと肯定したセレスティアに、トールは僅かに眉を動かした。
「だから、私は『止める』とは言っていないわ。あなたの流し込む猛毒を、我が国にとっての『極上の栄養』に変換してあげるというのよ」
セレスティアは懐から、見事に製本された分厚い羊皮紙の束を取り出し、トールの目の前に滑らせた。
「これは……?」
「『合弁会社』の設立契約書よ」
前世で培った政治と経済の頂点の知略。セレスティアは、そのすべてをこの一冊に注ぎ込んでいた。
「あなたがファルサス王国に流し込む物資の流通網。それを、グレン商会と我がルーヴェン公爵家で『共同出資』の新たな商会を立ち上げ、管理するのよ。利益は折半。その代わり、我が国は貴方の規格品に対する関税を一切免除し、公爵家の名で『合法的なインフラ敷設』にも全面協力するわ」
トールの黄金の瞳が、僅かに見開かれた。
それは、三十代の社畜として企業間交渉の酸いも甘いも噛み分けてきた彼の脳髄に、強烈な電撃を走らせる提案だった。
「利益の折半、だと? 俺の巨大な生産力に寄生し、上前を撥ねようというのか」
「寄生じゃないわ。これは『互恵関係』よ」
セレスティアは身を乗り出し、不敵な笑みを浮かべた。
「あなたがいかに完璧な自動生産システムを築こうと、他国の市場に食い込むには『政治的な摩擦』というコストが必ず発生する。でも、ファルサス王国の有力貴族である私が『役員』として名を連ねれば、すべての法的障壁は消え去る。あなたの帝国は、血を一滴も流さず、一瞬で我が国全体を『安全な巨大市場』として飲み込むことができるわ」
彼女の狙いは明確だった。
トールのシステムを物理的に止めることが不可能ならば、そのシステムの一部を自国の利益回路に直結させる。トールの莫大な利益の半分をファルサス王国の国庫へと還流させ、自国の経済を衰退させるどころか、トールの成長力に乗っかって共に富を蓄積する。
まさに、経済の猛毒を中和し、力に変える『究極の解毒剤』。
「……なるほど。俺のシステムの『部品』として消費されるのではなく、経営陣の『取締役』として席を寄越せというわけか」
トールは、手元の契約書をパラパラとめくりながら、腹の底からこみ上げる震えを抑えきれずにいた。
かつてこれほどまでに、自分の描く冷徹な「ビジネスの論理」を完璧に理解し、あまつさえその論理を使ってカウンターを叩き込んでくる存在がいただろうか。
社畜時代に喉から手が出るほど欲しかった「対等の知性」。
それを、この少女が平然と提示してきているのだ。
「どう? 悪くない提案でしょ、ブラック上司さん」
セレスティアは、迷宮での共闘の際に口にした皮肉を交えながら、勝気な視線を送る。
トールは、グラスに残った琥珀色の液体を一息に飲み干した。
肺の奥を焼くようなアルコールの熱波が、彼の冷徹な思考回路に心地よい火花を散らす。
「……お前の国を守りつつ、俺のインフラを限界まで利用する。確かに、アナログな感情論を排した、極めて合理的な提案だ。これを蹴れば、俺のシステムの拡張速度は鈍化するだろう」
トールは黒い金属棒の先端で、契約書の羊皮紙を軽く叩いた。
チリッ、と青白い火花が散り、契約書の隅に『承認』を示す魔力の焼き印が刻まれた。
「商談成立だ、セレスティア。ファルサスの市場は、お前との『合弁事業』として俺の盤面に組み込もう」
「……ふふっ。ようやく、あなたから一本取れたわね」
セレスティアは張り詰めていた肩の力を抜き、年相応の愛らしい、しかし誇り高い笑みを咲かせた。傍らのリーゼも、主君の堂々たる勝利に安堵の息を吐いている。
「勘違いするな。お前の提案が優れていたから採用しただけだ。……だが」
トールは立ち上がり、セレスティアに向かって真っ直ぐに手を差し出した。
それは、敵対者に対する降伏の要求ではなく、対等なビジネスパートナーに対する敬意の表明だった。
「俺の帝国に、これほど優秀な役員が加わるのは歓迎する。せいぜい、俺の予想を超える知略で、この盤面を面白くしてくれ」
セレスティアは差し出されたその手を見て、一瞬だけ頬を赤く染めたが、すぐに公爵令嬢としての気高さでそれを握り返した。
「ええ。あなたが道を誤りそうになったら、私がそのシステムごと容赦なく乗っ取ってあげるわ。……覚悟していなさい、トール」
二人の小さな手が、固く握り合わされた瞬間。
それは、世界を喰らい尽くす少年の絶対的な論理と、前世の地獄を乗り越えた少女の予測不能な知略が、正式に結びついた歴史的な特異点であった。
***
「……トール様。本当によろしかったのですか。あのような小娘に、我が商会の利益の半分を……」
セレスティアとリーゼが去った後の執務室で、グレンが未だに納得のいかない様子で尋ねた。
「利益の半分? 構わんさ。彼女がもたらす『ファルサス王国という巨大な市場の安定』は、その程度の額では買えない絶対的な価値がある。……それに」
トールは窓辺に立ち、城塞都市の向こうへと帰っていく公爵家の馬車を見送った。
「俺がこれから仕掛ける『神の領域』の買収(M&A)。星の理を管理する天上の連中との全面戦争において、彼女のような『予測不能なバグ』を味方陣営に引き入れておくことは、最高の保険になる」
初夏の暖かな風が、俺の『蒼黒の鱗羽鎧』を優しく吹き抜け、魔酒の芳醇な香りを遠くへと運んでいく。
敵対から共闘へ、そして合弁という名の対等なパートナーへ。
神の領域すら巻き込んだ戦いの果てに、二人の天才は新たな関係性を築き上げた。
「さあ、地上は完全に掌握した。次はいよいよ、天上の『監視者』どもの玉座を、俺たちの経済と論理で叩き落としに行くぞ」
すべてを掌握した少年の絶対者は、朝日に輝く自らの帝国と、その先にある未来を見下ろしながら、世界を弄ぶ不敵で残酷な笑みを深く刻み込んだのだった。




