第209話:バグとの一時休戦(ジョイント・ベンチャー)
迷宮都市タルタロスの絶対的深淵、第百階層。
無重力の星海を模した暗黒の空間は今、終末の様相を呈していた。
空間の中央に鎮座する紫色の超巨星――迷宮の心臓たる『制御核』が、狂ったような真紅の光を脈動させ、鼓膜を破るほどの高周波をまき散らしている。
それは、星の理を管理する天上の『監視者』が、自らの管理下にある魔力ネットワークを焼き切ってでも少年のシステムを破壊しようと放った、大龍脈の強制自爆シーケンスであった。
「……やってやるわよ! その代わり、この自爆を止めたら、あなたに特大の貸しを一つ作ることになるわよ!」
色付き眼鏡をかなぐり捨てた少女、天才令嬢セレスティアの叫びが星海に響く。
『くくっ……上等だ。せいぜい、俺の期待に応えてみせろ、セレスティア』
空間の歪みから実体化した少年のホログラム――絶対者トールは、不敵な笑みを浮かべ、右手の漆黒の金属棒を虚空へ突き立てた。
『状況は極めて最悪だ。天上の監視者は、俺のファイアウォールを突破できないと悟るや、大龍脈の魔力そのものを限界まで圧縮し、物理的な自爆と論理的な初期化の二重攻撃を仕掛けてきた』
トールの脳髄では、社畜時代に培った極限の並列処理能力が、火花を散らして回転していた。
大気中の魔力、マザー・コアの圧力、ミスリル導線の融点。数百万の変数が彼の網膜の裏で赤黒いエラーログとなって滝のように流れ落ちていく。彼一人の演算能力でも、論理的な初期化コードを抑え込むことは可能だ。だが、それと同時に物理的に暴走するマザー・コアの熱量を逃がす「バイパス処理」を行うには、圧倒的に手が足りなかった。
だからこそ、彼は自らのシステムを破壊しようと侵入してきた「最大のバグ」である少女に、タスクを振るという異常な判断を下したのだ。
『俺が論理的な自爆コードをデコンパイル(分解)して抑え込む。お前はマザー・コアから伸びるミスリル導線の配列を物理的に再計算し、暴走する熱を迷宮の各階層へ分散して逃がせ!』
「無茶苦茶言わないでよ! 私はあなたの組んだ複雑怪奇なシステムの設計図なんて知らないのよ!」
『俺の論理を読め! お前のその頭脳なら、一秒で理解できるはずだ!』
トールのホログラムが金属棒を振るうと、セレスティアの眼前に、マザー・コアと迷宮全体を繋ぐ魔力導線の立体ホログラム(アーキテクチャ)が展開された。
それは、幾何学的な美しさを伴って組み上げられた、恐るべき搾取の回路図だった。
「……これが、あなたの頭の中……!」
少女は息を呑んだ。一瞬で理解した。少年の構築したシステムが、いかに無駄がなく、冷徹で、完璧なロジックによって編み上げられているかを。
だが、完璧であるがゆえに、予測不能な「暴力的なエラー」――今回の監視者による自爆攻撃のような規格外の過負荷に対しては、逃げ道(遊び)が少なすぎるのだ。
(真面目に再計算して熱を逃がそうとしても、間に合わない。論理的な最適解を導き出していては、この星海ごと私たちは宇宙の塵になる……!)
前世の王宮で、数々の暗闘と毒牙をすり抜けてきた天才少女の脳髄が、極限状態の中で「アナログな直感」を弾き出した。
「最適解でシステムを救う必要なんてない。……バグには、バグをぶつけて相殺するのよ!」
セレスティアはホログラムの回路図に両手を突っ込み、仮想の導線を乱暴に掴んで動かし始めた。
「リーゼ! 第三セクターと第七セクターを繋ぐ太いミスリル線を、物理的に叩き斬って!」
「お嬢様!? そんなことをすれば、魔力が逆流して迷宮の下層が崩落します!」
「構わないわ、崩落させて! その崩落の物理的エネルギーに、暴走した魔力の熱を喰わせるのよ!」
少女の指示は、システム管理者である少年からすれば、背筋が凍るような暴挙だった。
だが、リーゼは主の言葉に一秒の躊躇も持たなかった。神速の踏み込みで空間を駆け抜け、双刃の短剣に極限の闘気を込めて、天井から垂れ下がる極太のミスリル導線を十字に斬り裂いた。
ガギィィィィンッ!!
硬質な断裂音と共に、ミスリル線が千切れ、膨大な魔力が火花となって散る。
『おい! 何をしている! 俺の精緻な回路を無茶苦茶に――』
「黙って自分の作業に集中しなさい、ブラック上司! アナログな緊急対応は私の仕事よ!」
セレスティアは少年の怒号を怒鳴り返し、さらに指示を飛ばす。
「リーゼ、切断した第七セクターの導線を、あの第一キルゾーンの排気口へ強引に繋ぎ合わせて! マザー・コアの圧力を、自動防衛ドローンの動力炉へ直接流し込んで過負荷で自爆させ、熱を散らすのよ!」
「承知いたしました!」
リーゼが残像を残す速度で導線を引っ張り、火花を散らしながら物理的なバイパスを強引に形成していく。
それは、トールの「完璧な論理」の隙間を、セレスティアの「予測不能な知略」が強引に縫い合わせるという、前代未聞の共同作業であった。
***
天上の白亜の空間。
玉座に座す『監視者』は、天球儀に表示されるログを見て、黄金の瞳を驚愕に見開いていた。
「な、何が起きている……!? 我の送った自爆コードが、迷宮の内部で『理解不能な経路』を辿って霧散していく……!」
地上の絶対者が構築したファイアウォールを、上から力業で押し潰そうとしていた。だが、その強固なはずのシステムの内部で、突然変異的な「バグ」が幾重にも発生し、自爆のエネルギーを明後日の方向へと逃がしているのだ。
「あの少年一人の演算能力ではない。……別の、まったく異なるアナログな知性が、システムの内側から強引な遅延工作を行っているというのか!?」
完璧な論理を誇る少年と、予測不能な直感を操る少女。
相反する二つの異物が、この一瞬だけ「星の崩壊を防ぐ」という一点において、奇跡的なまでの同期を果たしていた。
***
迷宮第百階層。
『――監視者の自爆コード、論理分解完了。……よくやった、セレスティア! 最後の熱を宇宙へ吐き出すぞ!』
トールのホログラムが、金属棒を星海の天井へ向けて振り上げた。
セレスティアとリーゼが強引に組み上げたアナログなバイパス。そこに蓄積された莫大な熱量を、トールが自らの『雷魔法 Lv.6』で極大のプラズマへと変換し、一気に空間の亀裂へと放出したのだ。
――ドゴォォォォォォォォォォォォォンッ!!!
星海の天井が光の奔流に飲み込まれ、大龍脈の強制自爆エネルギーが、迷宮を破壊することなく天上の次元へと逆流していく。
「きゃあああぁぁっ!」
強烈な衝撃波と光の嵐に、セレスティアの小さな身体が吹き飛ばされそうになる。リーゼが咄嗟に彼女を抱きかかえ、黒曜石の床に身を伏せた。
暴風が吹き荒れ、空間が激しく軋む。
だが、数分後。
耳鳴りだけが残る空間に、ゆっくりと静寂が舞い降りてきた。
狂ったように真紅の光を放っていたマザー・コアは、本来の静かで深淵な紫色の脈動を取り戻し、無重力の星海には、焦げたオゾンの匂いだけが漂っている。
「……はぁっ、はぁっ……」
セレスティアはリーゼの腕の中で、荒い息を吐きながら顔を上げた。
乱れた銀糸の髪。泥と煤に汚れた頬。
だが、その蒼い瞳は、絶体絶命の危機を自らの頭脳で乗り越えたという、強烈な生の輝きに満ちていた。
『……見事な手際だった。俺の組んだ回路をあそこまで無茶苦茶に破壊し、繋ぎ直して熱を逃がすとはな。まさに最悪で、最高のデバッグだ』
空間の歪みから、再びトールのホログラムが実体化した。
彼は漆黒の金属棒を肩に担ぎ、疲労でへたり込む少女を見下ろして、心底愉快そうに、そして深い賞賛を込めて笑った。
「ぜぇっ……はぁっ……。言ったでしょ。……最適解しか出せないあなたには、こういう泥臭いバグ処理は向いていないのよ……」
セレスティアは震える足で立ち上がり、色付き眼鏡のない、むき出しの勝気な瞳で少年のホログラムを睨み返した。
「約束通り、星の崩壊は止めてあげたわ。……これで、私の天才的な頭脳が、あなたのシステムにとってどれほど『致命的』になり得るか、骨の髄まで理解したかしら?」
『ああ。身の毛もよだつほどの悪寒を感じたよ。……同時に、これほど有能な「役員」を失うのは、惜しいとすら思ったがな』
トールの言葉には、一片の嘘もなかった。
社畜時代、彼がどれほど渇望しても手に入らなかった「完全に背中を預けられる対等の相棒」。それを、皮肉にも自分を滅ぼそうとする敵対者の中に見出してしまったのだ。
「勘違いしないで。これはあくまで一時休戦よ。……私があなたと協力したのは、この星が吹き飛べば、私の守るべき領地も民も消えてしまうから。……私たちの戦いは、まだ終わっていないわ」
セレスティアは、泥だらけの服の埃を払い、前世の王妃としての気品を纏って凛と胸を張った。
「地下であなたの心臓を破壊するのは諦めてあげる。その代わり……地上で、私の用意した『交渉のテーブル』に着きなさい。あなたの経済侵略を、真っ向から叩き潰してやるわ」
それは、顔の見えない絶対者に対する、堂々たる宣戦布告だった。
『……くくっ。いいだろう。お前が変装を解き、公爵令嬢として正面から挑んでくるというなら、俺も敬意を以て盤面を用意しよう』
少年のホログラムが、ゆっくりと宙に溶けていく。
『せいぜい、俺の帝国の株価を暴落させるような、極上の知略を用意してこいよ。……楽しみにしているぞ、セレスティア』
青白いノイズと共に、トールの姿が完全に星海から消失した。
後には、静かに明滅する紫色のマザー・コアと、息を整える少女と侍女だけが残された。
「……終わりましたね、お嬢様」
リーゼが短剣を収め、主君の小さな肩をそっと支える。
「ええ。……でも、本当の戦いはこれからよ」
セレスティアは、少年が消えた虚空を睨み据えたまま、不敵な笑みを浮かべた。
神の領域すら巻き込んだ絶望の危機を、二つの天才が共闘して退けた。互いの実力と恐ろしさを、骨の髄まで理解し合った。
(待っていなさい、トール。あなたが星の理すら買収しようとするなら、私はあなたのシステムを経済で縛り上げ、その余裕の仮面を引き剥がしてやるんだから……!)
無重力の星海から、地上へ。
少年と少女の、国家予算と星の理を懸けた『盤上の舞踏会』が、いよいよ熱く幕を開けようとしていた。




