第208話:大龍脈のバグと深淵の迷宮へのダイブ
天上の特権使徒が撃退された、あの狂乱の夜から数日後。 少女とリーゼは、少年の絶対者が敷設した『白銀の軌条』を走る鋼鉄の貨物列車に密航し、西へ百五十キロ離れた迷宮都市タルタロスへと辿り着いていた。
かつてのタルタロスは、一攫千金を夢見る命知らずたちが泥と血にまみれて絶望と隣り合わせの日々を送る吹き溜まりだった。 しかし今のこの都市は、甘美で頽廃的な狂熱に完全に支配されていた。
「おい! 今日は二十階層で『鋼鉄の装甲熊』を仕留めたぜ! この極上の魔石で、一番いい酒と、あの『電気風呂』を頼む!」 「ひゃははっ! 俺なんか宝箱から王都の国宝クラスの剣を引き当てたぜ! 今夜は朝まで飲むぞォ!」
巨大な『帰還者複合施設』の前に集う冒険者たちは、血走った眼と異常なまでの高揚感を顔に貼り付けている。 彼らは迷宮での死の恐怖を、帰還後の圧倒的な癒やしと『極上・琥珀の魔酒』によって脳髄ごと溶かされ、稼いだ富を一晩で使い果たしては、翌朝には「またあの快楽を味わいたい」と自ら喜んで死地へと飛び込んでいく。 それが、少年の絶対者が構築した「帰還の快楽ループ」という名の、完璧な無限搾取システムであった。
その熱狂の渦から少し離れた路地裏。 粗末な革鎧に身を包み、身の丈に合わないショートソードを腰に差した新米冒険者――に偽装した天才令嬢の少女は、色付き眼鏡の奥の蒼い瞳で、その光景を冷徹に睨み据えていた。
「……見事なものね。暴力で脅すのではなく、快楽という見えない鎖で彼らの魂を縛り上げ、命を削ってエネルギーを掘り出させている。あの少年が王都の空で見せた、星そのものをハッキングするような異常な魔力……その源泉は、間違いなくこの都市の地下深く、迷宮の底にあるわ」
少女の隣には、同じく使い込まれた傭兵風の装備で身を固めた護衛のリーゼが、周囲の喧騒に一切の隙を見せず影のように控えている。
「お嬢様。……王都で神の使徒すらも『配当』で買収してのけたあの怪物の心臓部に、我々だけで潜入するなど、まさに飛んで火に入る夏の虫では……」
「分かっているわ、リーゼ」
少女は、小さな拳を強く握りしめた。
「彼は、天上の監視者すらもシステムから解雇し、星の大龍脈を我が物顔で吸い上げている。その圧倒的な論理の前には、どんな大軍も意味をなさない。……だからこそ、彼が『ただの歯車』だと見下している人間の、アナログな知略が生きるのよ。行きましょう。このシステムの急所を、直接切断してやるわ」
二人は冒険者の群れに紛れ、ポッカリと黒い口を開ける迷宮の入り口――深淵への階段へと足を踏み入れた。
***
同時刻。王都シュトルツを見下ろす隠れ家の最上階。
アンティークの執務机に深く身を沈めた少年の絶対者・トールは、青白いホログラムモニターに映し出される無数のデータログを、氷のような瞳で処理していた。
『管理者権限:支配領域 Lv.5』。
大気中の魔力を神経網として展開されるその全知のレーダーは、王都の生産ライン、大河の物流、そしてタルタロスからのエネルギー還流を、一つの巨大な生態系として完璧に統括している。
天上の『監視者』が差し向けた特権使徒すらも、民衆の欲望という株主総会で退けた。
システムの盤石さは、もはや神の干渉すら許さない次元に到達している。
「……だが、退屈だな」
少年は、漆黒の金属棒を指先で弄りながら、クリスタルグラスの琥珀色の液体を喉に流し込んだ。
すべてが想定通りに動き、ミリ秒単位で富が蓄積されていく。社畜時代に血反吐を吐きながら夢見た「完全自動の不労所得」の完成形。
しかし、その完璧な静寂の中で、彼の脳裏を過るのは、大聖堂の死角から見事なハッキングを仕掛けてきた、あの泥まみれの天才令嬢の挑発的な瞳だった。
「俺のアルゴリズムをすり抜けた逃亡者……セレスティア。俺が天上と喧嘩をしている隙に、大人しく引き下がったわけではあるまい」
少年が唇に冷酷な笑みを刻んだ、その時だった。
『――警告。迷宮都市タルタロス、第二十階層の最奥部にて、封鎖区画への未承認アクセスを検知』
脳内に展開されたホログラムの一角が、微かな赤いノイズを点滅させた。
「……迷宮の深層だと?」
少年は目を細めた。
冒険者たちに開放しているのは第二十階層まで。それ以降は、自動防衛ドローンである『ミスリル・ガーディアン』が巡回し、魔物を全自動で処理して魔石を抽出する、俺だけの絶対不可侵プラントだ。
並の冒険者が足を踏み入れれば、一瞬で防衛システムにミンチにされるだけの領域。
「……なるほど。あの時のように、俺のシステムの『盲点』を突いて、心臓部に潜り込むつもりか」
少年は金属棒を机に突き立て、立ち上がった。月光を吸い込む『蒼黒の鱗羽鎧』が、硬質な金属音を鳴らす。
「いいだろう。お前が自ら俺の『胃袋』に飛び込んでくるというなら……その知性が俺の論理のどこまで通用するか、最高難易度の負荷試験をしてやる」
***
迷宮都市タルタロス、第二十一階層。
一般の冒険者たちが絶対に足を踏み入れない、滑らかな黒曜石で構成された無機質な空間。
そこは、魔物が湧き出すそばから高電圧のグリッドで炭化させられ、魔石だけが自動でベルトコンベアに乗せられていく、血も涙もない「全自動の屠殺場」であった。
「……なんておぞましい光景。命を、ただのエネルギーの塊としてしか見ていないわ」
少女は、岩陰に身を潜めながら、規則正しく稼働するコンベアと、無言で作業を続ける銀色の兵器たち――『ミスリル・ガーディアン』の群れを見つめていた。
「お嬢様、あの銀色のゴーレムたち……動きに一切の隙がありません。一つ一つの関節が、完全に最適化された殺人鬼のそれです」
リーゼが、息を殺しながら短剣の柄を握りしめる。
「ええ。あいつらは、あの少年が迷宮の防衛システムをハッキングして書き換えた『アンチウイルス・ドローン』よ。……でも、完璧なプログラムで動いているなら、必ず『パターンの法則性』があるはず」
少女の天才的な脳髄が、ガーディアンたちの巡回ルート、視界の角度、そして魔物を処理する際の待機時間を、ミリ秒単位で解析していく。
「……三、二、一……今よ! 左のコンベアの影へ!」
少女の囁きと同時に、二人は音もなく空間の死角を駆け抜けた。
リーゼの極限の隠密術が少女の気配を覆い隠し、ガーディアンの無機質な視線が通り過ぎるコンマ数秒の隙間を、まるで踊るようにすり抜けていく。
「見事です、お嬢様。……彼らの論理の死角が、手に取るように分かります」
「油断しないで、リーゼ。ここはまだ浅層よ。あの少年の魔力の根源……星の血液(大龍脈)とシステムを繋ぐ『マザー・コア』は、このずっと奥、恐らく第百階層というあり得ない深淵にあるはず」
二人は、迷宮が仕掛ける即死のトラップや、巡回するガーディアンの群れを、少女のアナログな知略とリーゼの超人的な身体能力によって、一つ一つ確実にクリアしながら深層へと下っていった。
第三十階層、第五十階層、第七十階層……。
階層を下るごとに、空間の魔力濃度は粘りつくような熱を帯び、壁面に張り巡らされた『ミスリルの導線』が、太い血管のように脈動を始めている。
「……間違いない。この導線が、地下の魔力プラントから莫大なエネルギーを吸い上げ、地上の都市へと送り込んでいるんだわ」
第七十階層の巨大な冷却区画。
少女は、壁に固定された極太のミスリル導線に手を触れた。
「これを物理的に切断するか、論理的にショートさせれば、あの少年の帝国はエネルギーを失って致命的な打撃を受けるはずよ」
だが、彼女が腰から取り出した特殊な魔導ノコギリを導線に当てようとした、その瞬間だった。
『――不法侵入の深度が許容値を超過しました。これより、手動デバッグを実行する』
空間全体を震わせる、氷のように冷たく、絶対的な支配者の声。
「っ……!?」
少女とリーゼが頭上を仰ぎ見ると、天井の闇が青白いプラズマの光で割れ、そこに一人の少年のホログラムが実体化した。
蒼黒の鎧を纏い、漆黒の金属棒を肩に担ぐ、顔の見えない絶対者・トール。
『ここまで俺の自動防衛をすり抜けてくるとはな。褒めてやるよ、天才令嬢。……だが、俺のインフラ(血管)に直接メスを入れるのは、さすがに見過ごせない』
少年のホログラムが金属棒を振るうと、空間の壁がひび割れ、そこから赤黒い魔力を纏った三体の『特化型ミスリル・ガーディアン』が現れた。通常の個体とは違う、四本の刃腕と、異常なまでの魔力炉心を搭載した処刑特化モデル。
「リーゼ! 離れて!」
「お任せをッ!」
リーゼが神速の踏み込みで一体のガーディアンの懐に飛び込み、短剣で関節の隙間を狙う。
ガキィィィンッ!!
火花が散るが、刃は浅く弾かれた。
「硬い……! これまでのドローンとは装甲の密度が違います!」
『当然だ。そいつらは、天上の天使どもを解体した際のバグデータを組み込んだ、対イレギュラー用の最新パッチだ。お前たちの物理的な暴力で、どうにかできる仕様じゃない』
少年が残酷な笑みを浮かべる。
二体のガーディアンが、少女へ向けて死の刃を振り下ろした。
「……くっ!」
少女は色付き眼鏡の奥で必死に演算を回す。だが、絶対的な物理スペックの差と、死の恐怖が彼女の思考を焼き切ろうとしていた。
(ここまでなの……? 結局、私は彼の盤面の中で足掻くただの虫ケラ……!)
少女が絶望に目を閉じかけた、まさにその刹那だった。
――ズゴォォォォォォォォンッ!!
迷宮の空間全体が、これまでにない異常な震動に見舞われた。
少女を襲おうとしていたガーディアンの動きがピタリと止まり、壁面のミスリル導線が狂ったように明滅を始める。
『……何だ?』
少年のホログラムが、初めて不快そうに眉をひそめた。
「……え?」
少女が目を開けると、迷宮の床――さらに下の深淵から、真っ赤な警告光が空間全体を染め上げていた。
『警告。マザー・コアに対する極大の物理的過負荷を検知。……天上の管理者による、大龍脈の強制自爆シーケンスが起動しました』
無機質なシステムアナウンスが響き渡る。
「……星の管理者? 自爆、ですって……!?」
少女は息を呑んだ。
少年が天上と喧嘩をし、星の理を買収(M&A)しようとした結果。オブザーバーは、少年からシステムを奪い返すことを諦め、この迷宮の心臓部――ひいては星の魔力循環そのものを「爆破」して、地上の生態系ごと初期化しようと目論んだのだ。
『……チッ。あの無能な管理者め。俺の買収防衛策として、基盤ごと自爆する気か』
少年のホログラムが、苛立たしげに舌打ちをした。
「ちょっと、どういうことよ! このままじゃ、迷宮ごと地上の都市も吹き飛ぶじゃない!」
少女が叫ぶ。
『その通りだ。このままじゃ俺の資産が丸ごと灰になる。……おい、天才令嬢』
少年の視線が、真っ直ぐに少女を射抜いた。
『お前、俺のシステムを論理的にハッキングする気でここに来たんだろう。……お前のそのアナログな直感と頭脳、今すぐ俺に貸せ』
「……はぁ!?」
『俺の演算能力だけじゃ、天上からの物理的な自爆コードを完全に相殺しきれない。俺が論理で抑え込む間に、お前がマザー・コアの物理バイパスを直接書き換えて、爆発の熱を逃がせ』
少年は、敵であるはずの少女に対し、信じられない提案を突きつけた。
「わ、私が、あなたと協力するって言うの!? ふざけないで、私はあなたのシステムを壊しに来たのよ!」
『俺ごと吹っ飛んでお前の領地や民が消滅してもいいなら、そこで大人しく見ていろ。……だが、お前はそんな無能じゃないはずだ』
その言葉は、挑発であり、絶対的な好敵手に対する強烈な「信頼」の証でもあった。
少女の胸の奥で、再びあの狂熱的な動悸が激しく跳ねた。
神の領域すら巻き込む絶対絶命の崩壊の危機。
その中で、完璧な論理の化身である彼が、自分という「バグ」の力を必要としている。
「……ほんっと、ムカつくブラック上司なんだから!」 少女は色付き眼鏡をかなぐり捨て、サファイアの瞳に不屈の炎を燃やして叫んだ。
「やってやるわよ! その代わり、この自爆を止めたら、あなたに特大の貸しを一つ作ることになるわよ!」
『くくっ……上等だ。せいぜい、俺の期待に応えてみせろ、セレスティア』
少年のホログラムが漆黒の金属棒を振り下ろすと、第七十階層の黒曜石の床が青白く発光し、空間を激しく歪ませる転移の魔法陣が出現した。
『ここからではマザー・コアの物理バイパスに届かない。俺の権限で第百階層への直通ポータルを開く! 飛び込め!』
「行くわよ、リーゼ!」 「はっ!」
星の崩壊という絶対的な絶望を前に、少年の完璧な論理と少女の予測不能な知略が交差する。
本来、互いの存在を喰らい合うはずの絶対者と天才令嬢。
彼女たちは一秒の躊躇もなく、青白い光の渦へとその身を投じた。空間がぐにゃりと反転し、二人は一気に迷宮の最深淵・第百階層へとワープしていく。
高次元の修正プログラムに対抗するための、前代未聞の「一時休戦」が、深淵の迷宮で熱く幕を開けたのだった。




