第207話:特権使徒の降臨と企業買収の防衛(プロキシファイト)
天頂の彼方。物理法則を拒絶した白亜の空間は、かつてないほどの激しい震動に見舞われていた。
少年の絶対者・トールが地上から放った『極大天雷』。それは単なる物理的な破壊の光ではなく、高次システムのファイアウォールをデジタルの論理で粉砕し、星の理そのものを簒奪しようとする、極めて暴力的なハッキングの楔であった。
「……あり得ぬ。地上のエラー・コードごときが、我が玉座の管理者権限を直接買収(M&A)しようというのか……!」
無限の白の中央で、星の循環を映し出す巨大な天球儀のホログラムが、真っ赤な警告光を撒き散らして明滅している。玉座に座す『監視者』の黄金の瞳には、かつてない焦燥と、システム崩壊に対する根源的な恐怖が浮かんでいた。
物理的な過負荷攻撃(DDOS)たる大寒波は、少年の張り巡らせた温熱インフラによって完全に相殺された。外部からの干渉が通じない以上、監視者に残された手は一つ。
システムの内部――少年の帝国を構成する「部品」たちを直接操作し、内側から崩壊させることだ。
「……高次元の隔離領域より『特権使徒』を降臨させよ。地上の民衆の意識へ直接介入し、神の威光をもって奴のインフラを破壊させよ。物理的排除が叶わぬなら、信仰という論理で奴の基盤を解体するのだ」
監視者の氷のような宣告と共に、白亜の空間から十二枚の光の翼を持つ、最も高位の修正プログラムが地上へ向けて射出された。
***
地上の城塞都市。
激しい防衛戦の熱がまだ冷めやらぬ夜明け前、空は突如として黄金の光に塗り潰された。
「……な、何だあれは!?」
「空から……神の使いが……!」
早朝の交代に向けて歩いていた『都市防衛自警団』の者たちが、空を指差して悲鳴を上げた。
都市の中央にそびえ立つ『遠雷の大聖堂』。その上空に、目も眩むような純白のオーラを纏った巨大な存在――特権使徒が、音もなく降臨したのだ。
使徒には顔がなかった。ただ、滑らかな白磁のような仮面から、絶対的な神の威圧感を都市全体に放散している。
『――迷える地上の子羊たちよ。目を覚ますのです』
声は空から降ってきたのではない。都市に住む数万の民衆の脳髄へ、直接「神の啓示」として響き渡った。
『あなた方が依存しているその温もりは、星の理を喰い潰す悪魔の業。その酒は、魂を腐らせる猛毒です。今すぐ、黒煙を吐く工場を打ち壊しなさい。悪魔のパイプを掘り起こしなさい。さもなくば、星の怒りがこの都市を灰燼に帰すでしょう』
神の言葉は、原始的な恐怖となって人々の精神を激しく揺さぶった。
少女の天才令嬢セレスティアが以前仕掛けた「信仰のストライキ」は、あくまで平和的な怠業に過ぎなかった。だが、今空に浮かぶ特権使徒が煽っているのは、明確な「破壊衝動」と「暴動」である。
「お嬢様……! あれは、本物の神の使いです! 人々が、神の恐怖に操られようとしています!」
スラムの空き教会で、護衛のリーゼが蒼白な顔で空を見上げた。
「……くっ! まずいわ。これでは街が完全に壊れてしまう!」
少女は窓枠を強く握りしめ、歯噛みした。
彼女の目的は、少年のシステムの心臓部を暴き出し、その論理をハッキングして盤面をひっくり返すことだ。都市のインフラや民衆の命を物理的に殲滅することではない。
前世の亡霊(腐敗貴族)を利用した時以上の最悪の事態が、天上からの介入によって引き起こされようとしていた。
『神が、怒っておられる……!』
『俺たちのせいで、星が滅びるんだ! 工場を……工場を壊さなきゃ!』
使徒が放つ精神干渉の波動に呑まれた民衆たちが、松明やハンマーを手に、巨大な食品加工工場や蒸留所の方角へと雪崩を打って歩み始めようとしていた。
***
同時刻。隠れ家の最上階。
アンティークの執務机に身を沈めた少年の絶対者・トールは、青白いホログラムモニターに映し出される暴動の兆候を、氷のように冷徹な瞳で見下ろしていた。
「……なるほど。外部からの攻撃が通じないと見るや、今度は直接『株主(民衆)』に接触して暴動を扇動し、経営陣の解任とインフラの破壊を狙ってきたか」
社畜時代、彼は幾度となく企業間の血で血を洗う権力闘争を見てきた。
経営を乗っ取るため、取締役会を通さずに直接株主に委任状を求め、内部から組織を転覆させる敵対的買収の防衛策――いわゆる、『プロキシファイト(委任状争奪戦)』だ。
「神という名の絶対的な権威を利用して、株主の支持を集めようという魂胆か。……だが、ビジネスの基本を分かっていないな、天上の監視者殿」
少年は、漆黒の金属棒を指先で弄びながら、不敵な笑みを深く刻み込んだ。
「株主が最終的に求めるのは、空虚な『大義』や『祈り』ではない。今ここにある、圧倒的な『現世の利益(配当)』だ」
少年は立ち上がり、『管理者権限:支配領域 Lv.5』を脳髄に全開にした。
彼が狙いを定めたのは、空に浮かぶ特権使徒ではない。大聖堂の祭壇で、突然の事態に祈りを捧げていたシスター・クレアだった。
「クレアの『慈愛の聖域』……その波長を、俺の権限でスピーカーとしてジャックする」
少年は、大聖堂の女神ララァ像に組み込まれた共鳴回路をフル稼働させ、クレアの放つ光の波動に自らの「論理」を乗せた。
***
『――神は祈れと言うが、明日食うパンをくれるのか?』
暴動へ向かおうとしていた群衆の足が、ピタリと止まった。
脳内に響いた特権使徒の啓示を上書きするように、今度は大聖堂の方角から、少年の重厚で絶対的な声が、都市中をビリビリと震わせて響き渡ったのだ。
『神の理に従えば、お前たちは再びあの凍てつく冬の路地裏で、泥水を啜りながら餓死と凍死を待つだけの生活に戻る。……だが、俺のシステムはどうだ?』
少年が金属棒を振るう。
その瞬間、都市の地下に張り巡らされたミスリルの温熱インフラが、限界まで出力を上げた。
初夏の冷たい夜明け前にもかかわらず、足元の石畳から、凍えた身体を包み込むような心地よい「熱」がじんわりと立ち昇ってきた。
さらに、少年は蒸留プラントとメガ・ベーカリーの排気ファンを一斉に開放した。
風に乗って、街中に暴力的なまでの『極上・琥珀の魔酒』の芳醇な香りと、焼きたての規格パン、そして脂の乗った極上肉の匂いが津波のように押し寄せる。
『腹を満たし、疲労を癒やし、明日への活力を与えるのは、神の空手形ではない。俺が構築したこのインフラだ。……さあ、株主総会の決議を取ろうか』
少年の冷徹な声が、人々の脳髄を直接揺さぶる。
『目に見えない神の恐怖を選ぶか。それとも、今ここにある、確実な俺の【配当】を選ぶか。……工場を壊したければ壊せ。だがその瞬間、お前たちの手からパンも酒も温もりも、永遠に失われるぞ』
その言葉は、特権使徒の放つ精神干渉を、圧倒的な「現実の利益」で強引に塗り潰していった。
松明を握りしめていた男の手が、プルプルと震え始める。
彼の鼻腔には、大衆ビアホールで煽った、あの喉を焼くような炭酸と琥珀の酒の記憶が鮮烈に蘇っていた。
「……嫌だ」
誰かが、ポツリと呟いた。
「神様が星を滅ぼすって言うなら……それでもいい。俺はもう、あの寒くて腹を空かせた生活には戻りたくねえ……!」
「そうだ! 俺たちに肉と酒をくれたのは神様じゃない、トール様だ! 工場を壊すなんて絶対に嫌だァッ!」
松明が次々と石畳に投げ捨てられ、ハンマーが地面に転がる。
民衆の瞳に宿っていた神への畏怖は、彼ら自身の胃袋と快楽の記憶によって、完全に上書きされてしまったのだ。
『な……馬鹿な。ニンゲンどもよ、我は高次システムの執行者なるぞ。なぜ、神の啓示に従わぬ……!?』
特権使徒の脳内に、理解不能なエラーコードが溢れ返る。
彼らは数千年にわたり、人間を「信仰と恐怖」で管理してきた。だが、少年の構築した『経済と依存のシステム』は、神への信仰心すらも、現世の利益という強力な接着剤で完全に上書きしてしまっていた。
株主(民衆)の支持を失った特権使徒のプロパガンダは、完全に無効化された。
「……株主の委任状は、俺のシステムが勝ち取ったようだな」
隠れ家の最上階から、少年は漆黒の金属棒を空に浮かぶ使徒へと向けた。
民衆の暴動という盾を失い、空中に孤立した使徒は、もはや単なる的でしかない。
「退場しろ。時代遅れの修正プログラム」
少年の冷酷な宣告と共に、極大の青白い雷霆が、下から上へと夜空を真っ二つに引き裂いた。
――バギィィィィィィィィィッッ!!!
直撃を受けた特権使徒は、悲鳴を上げる間もなく、その純白の光の翼ごと一瞬にして炭化し、夜明けの空に光の塵となってデコンパイル(分解)されていった。
街の空には、再び黒煙を吐く煙突のシルエットと、平和な日常の喧騒が戻ってきた。
***
「……信じられない。神の啓示すらも、現世の利益で買収してしまったというの……?」
スラムの空き教会。
窓からその一部始終を見届けていた少女は、色付き眼鏡の奥の蒼い瞳を、限界まで見開いていた。
物理的な暴力だけでなく、人間の心という最も不確かな領域すらも、「配当」という経済の論理で完全にコントロールしてみせた見えざる絶対者。
その底知れぬ合理性と強欲さに、少女の背筋には恐怖の悪寒と、それを上回る強烈な熱が駆け巡っていた。
「……ええ、そうよ。こうでなくちゃ面白くないわ」
少女は、泥に汚れた丁稚服の袖を強く握りしめた。
「彼が神の座すらも買収(M&A)するというのなら、私はその完璧な企業体の心臓部に最も致命的なバグを仕込んで、その余裕の仮面を引き裂いてやる」
天上の神すら退けた少年の絶対企業。その完成が秒読みとなる中、すべてを掌握する少年と、知略の牙を研ぐ天才少女の戦いは、さらなる高みへとそのスケールを拡大していくのだった。




