前兆
みしり、と大気が軋むような音がした。
鬱蒼とした木々を力任せになぎ倒し、森の闇から姿を現したのは、身の丈が三メートルはあろうかという巨体——オークだった。
太い豚のような醜悪な顔、ドス黒い皮膚、そして丸太のように太い腕には、血のついた巨大な棍棒が握られている。ゴブリンなどとは比較にならない、圧倒的な暴力の気配が森を満たした。
「グオオオオオオオッ!!」
鼓膜を揺らす咆哮とともに、地響きを立ててオークが突進してくる。
「チッ……なんでこんな浅い森にオークが……! ぼうず、絶対に前に出るな!」
アランさんが叫び、瞬時に踏み込んで剣を振るう。
鋭い一閃がオークの極太の腕を切り裂いたが、分厚い皮脂と筋肉に阻まれ、骨には届かない。オークは痛みに顔を歪めると、鬱陶しそうに巨大な棍棒を横薙ぎに振り払った。
「くっ……!」
アランさんは間一髪で剣を盾にして防いだものの、オークの圧倒的な怪力によって吹っ飛ばされ、背後の太い幹に激しく叩きつけられた。ゴリッという嫌な音が森に響く。
「アランさん!」
「ぐ……はっ……! 逃げろ……ぼうず……早く……!」
口から血を吐きながら、アランさんが必死に声を絞り出す。だが、攻撃を凌ぎ切ったオークの眼光は、すでに動けなくなったアランさんへと向けられていた。巨大な棍棒が、ゆっくりと持ち上げられる。あれが振り下ろされれば、アランさんは一たまりもない。
(嫌だ……! 動け、僕の足……!)
恐怖で金縛りに遭ったように、足が地面に縫い付けられて動かない。
死だ。圧倒的な死の恐怖が、僕の心を冷たく塗りつぶしていく。アランさんが死ぬ。そして僕も、ここで握りつぶされて終わるんだ。
圧倒的な絶望に視界が白く染まりかけた、その瞬間。
胸の奥で、あの日見た夕焼けの丘の景色が、鮮明に弾けた。
『私達の誓いが破られることはない。死が二人を分かつとも、心は共に』
強気に笑う少女の顔。あたたかかった右手の小指の感触。
(嫌だ……こんなところで死ねない……!)
『必ず、迎えに行くから』
(約束したんだ……! 僕は……君のもとへ行くんだ!!)
ドクン!!
右手の小指が、焼夷弾でも弾けたかのような強烈な熱を帯びた。あまりの激痛に叫びそうになる。
見れば、右手の小指の皮膚の表面に、漆黒の光で編まれた不気味な指輪のような紋様が、メラメラと浮かび上がっていた。
ドクン、ドクンと、小指から全身へ向けて、ドス黒い未知の力が激流となって流れ込んでくる。
「ガ……アァァァッ!!」
視界が急速に黒く染まっていく。
思考が吹き飛び、己の意識が深い暗闇の底へと急速に沈んでいくのを感じた。
だがそれと引き換えに、僕の体は信じられないほどの軽さと、世界を破滅させるような凄まじい力を得ていた。
意識が完全に途切れる寸前。
僕の足は地面を蹴り、オークの首元へ向けて人間離れした速度で跳躍していた——。




