闇と愛
深い、深い闇の底に沈んでいた。
息もできず、光も届かない冷たい黒の泥の中で、ただ緩やかに落ちていく感覚。
けれどその時、見えない何者かの手が僕の胸元を強く掴み、力任せに上へと引き引っ張り上げた。
「……っ!?」
ガバッと跳ね起きると同時に、強烈な光が視界に飛び込んできた。
荒い息を吐き出しながら周囲を見渡すと、見覚えのあるギルドの医務室だった。ベッドの上に寝かされていたらしい。
「……お、目を覚ましたか。ぼうず」
声のする方を見ると、顔や腕に包帯を巻いたアランさんが、ベッドに腰掛けて僕を見ていた。
「アランさん……! 大丈夫なんですか!?」
「おう、見ての通りピンピンしてるさ。……それよりお前だ。体の具合はどうだ?」
「う……っ……!」
言われて体を動かそうとした瞬間、全身の筋肉と関節に、経験したこともないような激痛が走った。まるで骨の芯まで磨り潰されたかのような痛みに、思わず顔を歪める。
「うう……痛い……身体中が悲鳴をあげてるみたいです……」
「ハハッ、そりゃそうだ。初めての実戦でゴブリンと戦って、挙句にあんな巨大なオークと遭遇したんだからな。全身の緊張と疲労が一気にきてるだけだ。命に別状はねぇよ」
アランさんは快活に笑い飛ばしたが、僕は頭を抱えた。必死に記憶を辿ろうとするけれど、頭の中に靄がかかったように思い出せない。
「あの……アランさん。僕、オークが襲いかかってきて、アランさんが倒れて……そこからの記憶が全くないんです。僕たち、どうやって助かったんですか?」
「ああ、それか。運が良かったんだよ。たまたま近くを通りかかった腕利きの冒険者パーティがいてな。俺たちのピンチに気づいて、あっという間にオークを倒してくれたんだ。お前は恐怖のあまり気を失っちまってたんだよ」
「そう……だったんだ……」
自分の不甲斐なさに、少し胸がキュッと痛む。あんなに威勢よく実戦に臨んだのに、結局は恐怖で気を失い、誰かに助けられただけだったなんて。
僕は自分の右手をそっと見つめた。小指には傷ひとつなく、あんなに不気味に感じた熱も嘘のように消えている。気のせいだったのだろうか。
その夜。息子が家に帰り、疲れて再び深い眠りについた頃。
ギルドの奥深くにあるギルドマスターの執務室には、重苦しい空気が立ち込めていた。
テーブルを挟んで向かい合うのは、ギルドマスターとブラド、アラン。そして、報せを聞いて駆けつけた少年の父親だった。
「……親父さん。ぼうずには『通りがかりの冒険者に助けられた』と伝えてある」
アランが掠れた声で切り出す。その手は、怪我の痛みからではなく、直面した恐怖で僅かに震えていた。
「……何があった」
父親の低い声が部屋に響く。
「言葉にするのも恐ろしい惨状だった……」
アランは顔を歪め、記憶を反芻するように重い口を開いた。
「ぼうずの小指から溢れ出た漆黒の光が、一瞬でオークの巨体を呑み込んだ。……いや、呑み込んだだけじゃねぇ。まるで空間そのものを引き裂くような圧倒的な暴力で、オークを原形すら留めねぇほど八つ裂きにしたんだ。あの気圧されるような暗闇……俺すら殺されかねないと死を覚悟した」
ブラドとマスターも、固い表情で黙り込んだままアランの言葉に耳を傾けている。
「死に瀕したことで、全てが溢れ出てしまったんだな……」
父親は静かに目を閉じ、深く重い息を吐き出した。
「あの子には、いくつもの重なり合った『契り』が存在する。幼い頃にあの少女と交わした未来への誓い。そして……亡き妻が最期に、あの子を護るために小指を結んで遺した、深い愛の誓いだ」
父の脳裏に、幼い息子を抱きしめながら小指を交わらせて息を引き取った、亡き妻の姿が鮮明に蘇る。
「少女との約束と、母の庇護。その二つの強い想いが、あの子の中に眠る底知れない『闇の適性』と最悪の形で噛み合ってしまった。命の危機に晒されたことで、それらが混じり合い、その暴走を引き起こしたんだ」
「誓いが強すぎるがゆえに、身を喰らう呪いとなったわけか……」
マスターが苦々しい表情で呟く。
「……親父さん、これからどうするつもりだ?」
ブラドの問いかけに、父親はゆっくりと目を開けた。その瞳には、元高ランカーとしての鋭さと、父親としての揺るぎない覚悟が宿っていた。
「あの子には、まだ何も知らせないでくれ。己の中に眠るその力を自覚させるには、あまりにも危険すぎる。……俺達であの子の力を抑え込みながら、正しく扱えるように鍛え続けていくしかない」
「任せとけ、親父さん。ぼうずは俺たちの弟子でもあるんだ。どんな呪いを背負っていようが、絶対に自分を見失わねぇ強い冒険者に育て上げて見せるさ」
ブラドがドンと己のぶ厚い胸を叩くと、アランも包帯の巻かれた顔で力強く頷いた。
「ああ。俺も命を救われたようなもんだからな。ぼうずがその手に呑み込まれないよう、全力で支え続けてやるよ」
「感謝する、二人とも……」
頼もしい二人の言葉に、父親は静かに目を細めた。
少年を取り巻く過酷な運命と、大人たちの秘めた決意を乗せて、夜の闇は静かに深まっていった。




