過去
ふたりと別れた父は、冷たい夜風に吹かれながら静かな足取りで自宅へと戻った。
鍵を静かに回して扉を開け、足音を立てないように息子の部屋の前へと向かう。そっとドアを少しだけ開き、覗き込んだ。
ベッドの上では、昼間の激しい訓練で疲れ果てた息子が、小さな寝息を立てて泥のように眠っている。右手の小指を少しだけ丸めたその寝顔は、まだ幼さを残していた。
父の表情が一瞬だけ柔らかく緩む。だが、その寝顔を数秒見つめた後、静かにドアを閉めると、その顔からは温もりが消え去っていた。
廊下の突き当たりにある小さな部屋——普段は鍵をかけてある書斎へと向かう。
小さなカチリという音とともに鍵を外し、暗がりの中へ足を踏み入れた。ランプに火を点けると、淡い橙色の光が部屋の奥にある文机を照らし出す。
そこには、一輪の押し花とともに飾られた一葉の写真があった。
幼い息子を抱きかかえ、心底幸せそうに微笑む亡き妻の姿。
父はゆっくりと歩み寄り、愛おしむように指先で写真のフレームを撫でた。そのまま妻の柔らかい笑顔を見つめ……やがて、その視線は妻の手元、写真に写る彼女の小指へと注がれる。
一筋の重苦しい静寂が書斎を支配した。
父の瞳に宿るのは、元高ランカーとしての鋭さすら超えた、底知れぬ懸念と過去の記憶。
「……まさか、な……」
絞り出すような低い呟きが、静かな部屋の暗闇の中にポツリと落ち、消えていった。
翌朝。眩しい朝の光が窓から差し込み、昨夜の重苦しい空気を取り払うようにリビングを照らしていた。
「父さん、行ってきます!」
元気に仕度を整えた息子が、木剣を背負って元気よく玄関に向かう。
「ああ、気をつけてな。ブラドのしごきに負けるなよ」
「うん! 絶対に強くなって見せるよ!」
無邪気に笑いながら扉を開け、息子は朝日が眩しい街へと駆け出していった。その力強い後ろ姿を、父は扉の隙間からいつまでも見送る。
息子の姿が通りの角を曲がって完全に消えると、父はゆっくりと扉を閉め、静かな家の中にたたずんだ。
視線を上へと向け、昨夜入った書斎の扉の奥——そこに眠る亡き妻の写真へと想いを馳せる。
(……どんな運命が待ち受けていようと、あの光が何を意味していようと関係ない)
父の瞳に、かつて数々の死線を越えてきた強い決意の光が宿る。
(お前の遺してくれたあの子は、俺が絶対に守ってみせる。……何があってもだ)
心の中で静かに誓いを立てると、父は力強く拳を握りしめ、再び息子が帰ってくる温かな家を守るために立ち上がった。




