日常
すっかり日が暮れ、街の街灯にぽつぽつと明かりが灯る頃、僕は疲れた体を引きずるようにして家に帰り着いた。
木製の手すりを掴みながら階段を上り、重い玄関の扉を開ける。
「ただいま……」
「おかえり。ずいぶん遅かったな」
奥の部屋から聞こえてきたのは、少し掠れた、聞き慣れた父親の声だった。
ランプの温かい光が照らすリビングのテーブルでは、父さんが古い本をめくっていた。元々はしがない文官だったと聞いている父さんは、こうして家で静かに過ごしていることが多い。
僕の母さんは、僕がまだ物心つく前に病気で亡くなっている。だから、この家にはずっと僕と父さんの二人きりだ。
「ブラドさんにしごかれたんだ。日暮れまで手加減なしで木剣を振らされてさ……手がもうクタクタだよ」
僕は苦笑いしながら椅子に腰掛け、テーブルに突っ伏した。
父さんは本から目を離すと、僕の手に目をやり、ふっと柔らかく目を細めた。
「ブラドか。あいつの稽古は昔から容赦がないからな。……で、今日はどんなことを教わったんだ?」
「えっとね、魔法が使えない時の立ち回りとか、冒険者としての心構えだよ。薬草の採取とか、洞窟の探索のことまで。冒険者は魔物を倒すだけじゃないんだぞって、すごく威張りながら言ってた」
「ハハッ、あいつらしいな。……だが、間違ってはいない。剣の腕も大事だが、生き残るための知識こそが冒険者の本当の武器だ」
父さんはお茶を注いだコップを僕の前に置いてくれた。
その言葉の端々に、ただの元文官とは思えない説得力を感じて、僕は温かいお茶をすすりながらふと思い出したことを口にした。
「そういえばさ、父さん。数日前にギルドで魔法適性を調べてもらったんだけど……」
「……ほう。適性か」
「うん。小指に嵌める指輪を使ったんだけど、僕の光……なんだか変だったんだ。黒い色で、なんというか……闇みたいにすごく深くて……」
あの日見た異質な黒い光について尋ねようとした、その時だった。
父さんはコップをテーブルに置くと、ポンと僕の頭に手を置いた。
「まあ、指輪を実際に手にするのは十五になって正式にギルドへ入ってからだ。今からそんな難しいことを考えても知恵熱が出るだけだぞ」
「……そうなのかなぁ…でも…」
「それより、腹が減ったろう。今日はいい肉が手に入ったからな、シチューでも作るか」
そう言って父さんは立ち上がり、素早く台所へ向かってしまった。あからさまに話を逸らされた気がして、僕はぽかんと父さんの背中を見送るしかなかった。
(……やっぱり、何か知ってるのかな)
台所から漂ってくるシチューのいい匂いに鼻をくすぐられながら、僕はそれ以上追及するのをやめ、差し出された温かい夕食に手を伸ばした。
夜も更け、疲れて泥のように眠る息子の寝顔を確認した父は、静かにコートを羽織って家を出た。
静まり返った街の裏通り、明かりの落ちた酒場の裏手影で、二人の男が待っていた。ブラドとアランだ。
「……呼び出してすまん、親父さん」
ブラドが低く重い声で切り出す。元高ランカーである目の前の男に対する敬意と、隠しきれない緊張がその表情に滲んでいた。
「いや、いい。あの子から話は聞いた。……例の光のことだな。まさかとは思ったが」
昼間の温和な父親の顔はそこにはなく、かつて数々の死線を潜り抜けてきた伝説的な凄みが漂っていた。
「ああ。マスターとも話したが、あんな光り方は見たことがねぇ。ただの闇魔法ってレベルじゃねぇぞ。まるで……『呪い』そのものを指輪が宿したかのような歪みだった」
アランが腕を組みながら険しい顔で告げる。
「……あの子の小指には、強い『誓い』が刻まれている。あいつ自身もまだ気づいていないがな」
父は夜空を見上げ、ぽつりと呟いた。
「親父さん、俺達にできることがありゃ言ってくれ。ぼうずは俺達にとっても大切な仲間だ。何があっても守る」
ブラドが胸を叩くと、いつもの柔らかな表情を取り戻し、薄く笑った。
「感謝するよ、二人とも。……だが、過保護にしすぎるな。あの子は俺が思うよりずっと強く育っている。今はただ、十五になるまでしっかりと鍛え上げてやってくれ」
ブラドとアランは目線を交わし応える。
「「おう!」」
二人の強い返事を見届け、再び夜の闇へと消えていった。




