指輪師
夜の静寂が街を包み込む頃、父親はギルドの裏手にあるブラドの部屋から出てきたばかりだった。
先ほどブラドから聞かされた息子の魔法訓練の報告。練習用の指輪を使ったにもかかわらず、本人の意識が闇の深淵に呑まれかけたという話は、父親の心に重く重く圧しかかっていた。
(やはり、普通の指輪では抑えきれんか……)
父親は夜道を一人、あてもなく歩くのではなく、明確な目的地へと向かって足を進めた。街の境界に近い、古いレンガ造りの工房。路地の奥でひっそりと明かりを灯すそこは、かつて腕利きとして名を馳せた老指輪師の工房だった。
ドアをノックし、静かに中へ入る。工房の中には金属や薬液の匂いが満ち、棚には無数の工具や鉱石が整然と並んでいた。
「……誰だこんな夜更けに。今日はもう店仕舞いだ」
奥から出てきた白髪の老指輪師は、父親の顔を見るなり、驚きで目を丸くした。
「……おまえか。何年ぶりだ? 彼女の件以来だな」
「……久しぶりだな。無理を言ってすまない」
二人の間には、深い過去の繋がりがあった。かつて父親の亡き妻もまた、溢れ出る闇の力に身体を侵されかけていたのだ。その時、彼女の命を繋ぎ止め、溢れ出す闇を抑え込んで延命させたのが、この指輪師が作ってくれた特別な指輪だった。
「何の用だ。おまえの顔を見れば、ろくでもない理由だってことくらい分かるが」
「指輪を作ってほしい。……あの時、妻に作ったものと同じものを」
指輪師は怪訝そうに眉をひそめた。
「…彼女はもう亡くなったろう。一体誰につけさせる気だ?」
「……息子だ」
父親の言葉に、指輪師は息を呑んだ。息子の存在すら知らなかった老人に、父親は絞り出すような声で語りかけた。
「あの子にも……妻と同じ闇の血が流れている。今日、訓練で魔法を使おうとしたが、練習用の指輪では抑えきれず、深淵に魅入られかけた。このままでは、あの子自身が闇に呑み込まれて壊れてしまう。妻の時のように……あの子を護るための指輪が要るんだ」
工房に重い沈黙が流れる。指輪師は深く溜め息をつき、腕を組んだ。
「事情は分かった。だがな……あの時の指輪はただの装飾品じゃねぇ。強い闇を鎮め、抑え込むための特殊な『鉱石』と、魔力を安定して保持するための高純度な『宝石』が必要だ。今の俺の手元には、それを作るだけの材料が足りねぇよ」
「材料なら、ここにある」
父親は革の袋と、小さな布包みを作業台の上に静かに置いた。
布包みを解くと、そこには一粒の美しい漆黒の宝石が輝いていた。かつて亡き妻が肌身離さず身につけ、彼女が息を引き取った後に父親が大切に保管していた、あの指輪の宝石だった。
「これは……」
「妻の指輪に使われていた宝石だ。これを使ってくれ」
「いいのか? これはおまえにとっちゃ、妻の形見だろ」
「妻も……息子が助かるなら笑って許してくれるさ。それと、これだ」
父親は革の袋の口を開けた。中には、滅多に人手が立ち入らない危険な山奥でしか採れない、不気味な鈍色を放つ希少な鉱石が詰まっていた。
指輪師は目を見張り、父親の手元に視線を落とした。父親の袖口から覗く手には、新しい擦り傷や泥がついていた。息子に悟られないよう、陰で人知れず危険な地へ足を運び、取ってきたものだった。
「……無茶をしやがって。昔と変わらん頑固さだな」
指輪師は呆れたように首を振ったが、その瞳には熱いものが宿っていた。宝石と鉱石を愛おしそうに手にとる。
「分かった。おまえの覚悟、確かに受け取った。息子を守る最高の指輪を仕立ててやる。……完成したら届けてやるから、大人しく待ってな」
「……すまない。助かる」
父親は深く頭を下げ、夜の街へと戻っていった。
息子の未来を遮る暗雲を払うためなら、思い出も、己の身も惜しくはない。父親の背中には、揺るぎない覚悟が満ちていた。
数日後。父親は再び、街外れにある指輪師の工房を訪れていた。
工房の奥へ通されると、作業台の上には一線の狂いもなく研磨された、美しくもどこか静けさを湛えた漆黒の指輪が鎮座していた。
亡き妻の宝石と、父親が命がけで手に入れた鉱石が結晶化し、息子の闇を鎮めるための至高の指輪として生まれ変わったのだ。
父親が愛おしそうにその指輪へ手を伸ばそうとしたその時。
指輪師がその手を制するように、静かに、だが重々しく告げた。
「言っておくが……この指輪を今すぐ息子に嵌めさせようなんて思うなよ」
「……どういうことだ?」
父親が問い詰めると、指輪師は完成した指輪を見つめながら深く息を吐き出した。
「この指輪は、抑えの力が強すぎるんだ。亡き妻の思い出とおまえの想いが乗った鉱石が混ざり合い、生半可な器じゃ弾き飛ばされるほどの強力な呪具になっちまった。肉体も魔力回路も未発達な今これを嵌めさせれば、抑え込むどころか魔力回路が耐えきれずに焼き切れちまう」
「……精神と肉体が耐えられない、ということか」
「そうだ。十五になり、大人の身体と精神の器ができて初めて耐えられるものだ。十五歳の成人を迎え、冒険者としての土台が整うまでは、この指輪は絶対に渡すんじゃないぞ」
指輪師の厳しい言葉に、父親は深く目をつむった。今すぐ手渡して闇の恐怖から救ってやりたい親心と、息子の安全を思う冷徹な事実。
父親は静かに頷き、完成した漆黒の指輪を大事に布で包み込んだ。
「……分かった。それまでは指輪に頼らせず、己の心身を鍛え上げさせよう。ブラドたちとともに、あの闇に負けない強い男になれるようにな」
「ふん、物分かりが良くて助かるよ。……でだ、これを持っていきな」
指輪師はそう言うと、作業台の引き出しから、もうひとつ別の小さな箱を取り出して父親の前に放り投げた。
父親が箱を開けると、そこには先ほどの漆黒の指輪よりも一回り小さく、銀色の金属にほんのりと鈍色の鉱石が混ざり込んだシンプルな指輪が入っていた。
「これは……?」
「おまえが命がけで取ってきた鉱石が少し余ってな。もったいねぇから、子供用にひとつ仕立てておいた」
指輪師は鼻で笑いながら、作業用の工具をいじり始めた。
「先の宝石が入った本物に比べりゃ抑え込む力は格段に劣るし、根本的な解決にはならねぇ。だが、今の魔力を『ほんの少し抑え込む』程度なら十分役に立つはずだ。ギルドの粗末な練習用の指輪よりはマシだし、十五歳になるまでの訓練用としてそれを使わせな」
「……オルガン」
「勘違いするなよ。俺は職人だ。せっかくのいい鉱石を余らせるのが嫌だっただけだ。……持っていけ」
指輪師の不器用で温かい気遣いに、父親の胸の奥が熱くなった。
父親は深く、深く頭を下げた。
「……心から感謝する。ありがとう」
十五歳で手渡す本物の指輪と、それまでの成長を支える練習用の指輪。ふたつの指輪を胸に抱き、父親は夜の街へと戻っていった。




