魔法
森での惨劇から、半年という月日が流れていた。
あの日、オークに襲われて気を失って以降、僕の右手の小指が熱を持つことも、あの不気味な黒い光が溢れ出すこともなかった。
あの強烈な激痛や体中の悲鳴も、今となっては遠い出来事のように思える。僕は変わらず、ブラドさんとアランさんのもとで剣術の鍛錬と冒険者としての心構えを学ぶ日々を送っていた。
そして今日、僕は訓練場の裏手にある広い空き地に連れてこられていた。
「よしぼうず、今日からは剣だけじゃなく、本格的に『魔法の扱い方』を覚えていくぞ」
腕組みをしたブラドさんが、力強い声で僕に向き直る。腰の木剣を脇に置き、僕は姿勢を正した。
「魔法の扱い方……ついに教えてもらえるんだね!」
「おう。と言っても、魔法ってのは人それぞれ適性がある。俺が得意なのは『炎』だ。まずは見本を見せてやる」
ブラドさんが右手を前に差し出し、ぐっと拳に力を込める。
すると次の瞬間、彼の掌からボッと音を立てて真っ赤な炎が立ち昇った。揺らめく火炎はブラドさんの意思に従うように形を変え、小さな球体となって空中でピタリと静止する。
肌を刺すような熱気が押し寄せてきて、僕は思わず目を見張った。
「す、すごい……! 手の上で火が燃えてるのに、熱くないの?」
「自分の魔力で作った炎だからな。魔力の流れをコントロールしてりゃ、自分を焼くことはねぇ。……これが基本の『制御』だ。イメージした通りに魔力を練り、出し入れを調整する」
ブラドさんは手をキュッと握り締め、炎を一瞬でかき消してみせた。
「だがな……ここからが問題だ」
ブラドさんは厳めしい顔で腕を組み、深く息を吐き出した。
「お前の適性は『闇』だ。……正直言って、闇属性の適性を持つ人間ってのは歴史上でも滅多に現れねぇ。俺たち冒険者ギルドでも、闇魔法をまともに扱える奴なんて一人も知らん」
「適性者が少ない……だから教えられないの?」
「そうだ。炎や水、風なら効果的な呪文や練り方のコツを教えてやれるが、闇魔法がどんな性質を持っていて、どんな現象を引き起こすのかは俺にも分からん。下手に真似させようとすれば、事故が起きかねねぇからな」
ブラドさんの言葉に、僕は自分の右手を見つめた。あの日、指輪が見せてくれた暗闇より深い黒。確かに、あの光は炎や風のように分かりやすいものではなかった。
「じゃあ、僕は魔法を使えないの……?」
「バカ言え、使えないわけじゃねぇ。教えられねぇなら、基本徹底だ」
ブラドさんが僕の頭をぽんと叩く。
「魔法の属性が違おうが、根本にある『魔力の制御』は同じだ。体の中にある魔力を意識し、必要な分だけを指先に集め、無駄なく抑え込む。闇の力をどう使うかは後から探せばいい。まずは己の魔力に振り回されない土台を作るんだ」
「自分の魔力に振り回されない土台……」
「そうだ。お前の中に眠る力は小さくねぇ。だからこそ、制御を誤れば自分や周りを傷つける。……いいかぼうず、まずは体内の魔力を指先に集めるイメージから始めるぞ」
ブラドさんはポケットから、銀色に光るシンプルな金属の指輪を取り出した。
「本来、指輪がなくても魔法自体は使える。だが、指輪を通さねぇ魔法ってのは制御が格段に難しく、魔力が安定しねぇんだ。だからまずは、このギルドにある練習用の指輪を使え」
受け取った少し大きめの指輪を、右手の小指に嵌める。カチリと音がして、指輪が僕の小指のサイズへとしっくり馴染んだ。
「指輪に魔力を通すイメージだ。よし、やってみろ」
ブラドさんの言葉に頷き、深く息を吸い込んだ。
目を閉じ、体の中に流れる温かな魔力の奔流に意識を澄ませる。体内の奥底から魔力を手繰り寄せ、右手の小指——嵌めた指輪へとゆっくり集めていく。小さな川の流れを一点に絞り込むような感覚だ。指輪を経由することで、あばれる魔力が少しだけ扱いやすくなるのを感じる。
「そうだ、良い感じだぞぼうず。そのまま焦らず、少しずつ出力を上げてみろ」
ブラドさんの低い声が聞こえる。僕は頷き、体内の魔力の蛇口をもう一段階、ぐっと押し開いた。小指に集まっていた魔力が膨らみ、小指から手のひら全体へとじわじわと広がっていく。
そして、そっと瞼を開けた。
「っ……!」
自分の右手のひらの上に、それはあった。
ボッと音を立てて燃え上がるブラドさんの炎とはまるで違う。熱も、風も、光すらも発していない。
ただ、そこにあったのは「絶対的な黒」だった。
手のひらの中心にぽつんと浮かんだ拳大の球体。それは光を反射するのではなく、周囲の光を呑み込み、輪郭すらぼやけさせるほどの深い闇だった。濃度の違う黒が幾重にも重なり合い、うねりながら渦を巻いている。
「これが……僕の、魔法……」
静かに揺らめく黒い球体を見つめていると、不意に視界の端々が暗くなっていくような感覚に襲われた。
周囲の森の音も、風のさざめきも、すべてが遠のいていく。
耳の奥で、微かな囁き声のような、重く静かな波音が響き始めた。手のひらの上の闇が、まるで生き物のように僕の意識を引きずり込もうとしている。
(綺麗だ……。もっと……もっと深く……)
吸い込まれる。この黒の中には何があるのだろう。もっと魔力を注ぎ込めば、この闇の先に行けるかもしれない。
自我が薄れ、吸い込まれていく快感に身を委ねそうになった。手のひらの黒い球体が、一気に倍の大きさに膨れ上がり、ドス黒い不気味な気配を撒き散らし始める。
「おい! ぼうず!!」
どすん、と強烈な衝撃が肩に走り、視界が無理やり弾け飛んだ。
「はっ……!?」
ハッと我に返ると、目の前に顔を強張らせたブラドさんが立っていた。彼のぶ厚い手が、僕の肩を力任せに掴んでいた。
ハァハァと荒い息を吐き出しながら自分の右手を見ると、すでに黒い球体は消え去り、汗ばんだ手のひらが残されているだけだった。
「あ……ブラド、さん……?」
「……馬鹿野郎。引きずり込まれかけてたぞ」
ブラドさんの声は怒っているというより、どこか冷や汗をかいているようだった。よく見ると、彼の額から一筋の汗が伝っている。
「自分が作った魔法に魅入られてどうすんだ。魔力に飲まれかけただろ」
「ご、ごめんなさい……。なんだか、あの黒いところを見つめてたら、頭がぼーっとして……引き戻せなくなっちゃって……」
自分の手が小さく震えていることに気づく。恐ろしいほどの吸引力だった。もしブラドさんが止めてくれていなかったら、自分はどうなっていたのだろう。
「チッ……やっぱり一筋縄じゃいかねぇな。闇ってのはただの属性じゃねぇ。人の精神そのものを侵食しかねねぇ劇薬だ」
ブラドさんは固い表情で腕を組み、僕の手のひらをじっと見つめた。
「今日のところはここまでだ。出力を上げるのはまだ早い。まずはあの闇に意識を呑まれない『強い心身』を作るのが先決だ」
「……うん。ごめんなさい……」
「謝るな。自分の魔法の危険性が分かっただけでも収穫だ。……さあ、戻るぞ」
ブラドさんの背中を追いかけながら、僕は自分の右手をもう一度見つめた。
あの深く恐ろしい黒。その奥に潜む底知れぬ力に、背筋を冷たい悪寒が駆け抜けていった。




