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寝る前に、必ずおやすみを

妻が亡くなってからも、私は毎晩「おやすみ」と言う。


習慣というものは、簡単には消えない。

まして、四十二年も続けた習慣なら、なおさらだった。


寝る前には必ず、どちらかが言った。


「おやすみ」


すると、もう一人が返す。


「おやすみなさい」


それだけのことだった。


愛している、と毎晩言い合っていたわけではない。若いころならともかく、四十年も夫婦をやっていれば、そんな気恥ずかしいことは滅多に口にしなくなる。


けれど「おやすみ」だけは、なくならなかった。


喧嘩をした日も。

娘が生まれた日も。

その娘が初めて家を出た夜も。

娘が嫁いで、二人きりの家に戻った日も。

妻の病気が分かった夜も。


最後まで、それだけは変わらなかった。


一度だけ、私が腹を立てて言わなかった夜がある。

結婚して十一年目だった。


何が原因の喧嘩だったのかは、もう覚えていない。私は妻に背を向け、そのまま眠った。


翌朝、食卓で妻は珈琲を飲みながら言った。


「昨日、おやすみって言わなかったでしょう」


まだ怒っているのかと思った。

けれど妻は、少し寂しそうに笑った。


「一日の最後くらい、仲直りして終わりたいじゃない」


それ以来、一度も欠かさなかった。

だから妻が亡くなった夜も、私は言った。


「おやすみ、エマ」


返事はなかった。

当然だった。


妻は病院で息を引き取った。

七十四歳だった。

人が一人いなくなるというのは、不思議なものだ。

葬儀のあいだは、まだ分からなかった。


棺があり、花があり、娘が泣き、親戚が来た。誰かが私の肩を叩き、誰かが「気を落とさないように」と言った。


私は何度も頭を下げた。


「ありがとうございます」


「ええ」


「長いあいだ、よく頑張りました」


そんな言葉を繰り返しているうちは、妻が亡くなったという事実は、どこか他人の話のようだった。


本当に妻がいなくなったのだと分かったのは、全部が終わって家へ帰ってからだった。


玄関に入る。

妻の靴があった。

病院へ行く前に履いていた茶色の靴。


もう二度と履く人はいないのに、きちんと揃えて置かれていた。

私はしばらくそれを動かせなかった。


居間へ行けば、ソファの右側に薄い窪みが残っている。

妻はいつもそこに座っていた。


読みかけの本には栞が挟まっていた。

頁は百八十三。

その先を、妻が読むことはない。


台所には、二人分の茶碗に二人分の湯呑み。

冷蔵庫には妻が好きだったヨーグルトが三つ残っていた。

賞味期限は来週だった。


来週。

妻にはもう来週がない。

それがたまらなく悲しかった。


葬儀では泣かなかった。

棺が閉じられたときも。

火葬場で骨を拾ったときも。

娘が泣きながら私に抱きついたときも。


けれど冷蔵庫のヨーグルトを見た瞬間、私は立っていられなくなった。


台所の床に座り込んだ。

声を上げて泣いた。


「エマ」


呼んでも返事はない。

当たり前なのに。

もう一度呼んだ。


「エマ」


冷蔵庫だけが、低い音を立てていた。


数日後、妻の服を片づけようと思った。

できなかった。


クローゼットを開けると、妻の匂いがしたからだ。

慌てて閉めた。


洗面所には歯ブラシが二本。

私は妻のものを捨てられなかった。


食事を作ると、無意識に二人分作った。

味噌汁を二つの椀によそってから気づいたこともある。


買い物へ行けば、妻の好きだった菓子を籠に入れ、レジの前で戻した。


テレビを見ていて面白いものがあると呼びかけた。


「エマ、これ」


そのたび家の中にある空白が、少しずつ大きくなった。


人がいなくなると、家が広くなる。

部屋の大きさは変わらない。

家具の位置も変わらない。


なのに妻がいないだけで家中の距離が、少しずつ遠くなった。


一番つらいのは、夜だった。

二人で使っていた寝室。

大きなベッド。


私は右。

妻は左。


四十二年間そうだった。


妻の枕には、まだわずかに髪の匂いが残っていた。

私は洗えなかった。

洗ってしまえば本当に何も残らなくなる気がした。


妻が亡くなって最初の夜、私は右側に横になった。

左側を見る。

誰もいない。


分かっている。

分かっているのに身体のどこかが、妻が来るのを待っていた。


洗面所から戻ってくる。

「寒い」と言いながら布団へ入る。

眼鏡を外し忘れて、私に笑われる。


そういう、何千回も繰り返した夜の続きを私は待っていた。


もちろん誰も来なかった。

時計が十一時を回った。


灯りを消した。

暗闇の中私は左側へ手を伸ばした。

冷たいシーツに触れた。


その瞬間、ようやく理解した。


もうこの手が妻に触れることはない。


明日も。

来年も。

私が死ぬまで、一度も。


「……エマ」


声にすると、胸の奥が痛んだ。


返事はない。


私は天井を見つめた。

眠れる気がしなかった。


そしていつもの時間になった。


四十二年間一度も欠かさなかった言葉が、自然に口からこぼれた。


「おやすみ、エマ」


返事はなかった。


当然だ。

分かっていた。


それでも私は待った。


いつもならここで妻が言う。


――おやすみなさい。


十秒。


何もない。

私は笑った。

ひどく情けない笑いだった。


「……そうだよな」


死んだんだから返事なんてするはずがない。

目を閉じた。


すると聞こえた。


「おやすみなさい」


私は目を開けた。


暗い寝室。

誰もいない。

心臓が激しく鳴っていた。


「……エマ?」


返事はなかった。

私は起き上がり、灯りをつけた。


妻の枕。

空の左側。

誰もいない。


疲れているのだと思った。


葬儀が終わったばかりなのだから、声くらい聞こえることもあるのだろう。


それでも私は、幻聴でも夢でも何でもよかった。


その夜、妻が亡くなってから初めて少しだけ眠ることができた。


翌日の夜、私はベッドへ入った。

左側は空いている。

いつもと同じ。


けれど昨夜とは違って、私は待っていた。

そんな自分を恥ずかしいと思った。

死んだ妻の声を待つなんて。


それでも灯りを消した。

胸が早鐘を打つ。


「……おやすみ、エマ」


静寂、そして。


「おやすみなさい」


今度ははっきり聞こえた。


妻の声だった。

四十二年間聞き続けた声を、聞き間違えるはずがない。


私は息を呑んだ。

怖いとは思わなかった。


ただ会いたかった人がもう二度と聞けないと思っていた声で、私に返事をしてくれた。

それだけだった。


「エマ?」


「なあに?」


私は口元を押さえた。

涙が溢れた。


「……そこにいるのか?」


「いるわよ」


声は隣の枕元から聞こえる。

けれど、誰もいない。


「どうして見えない?」


妻は少し笑った。

懐かしい笑い声だった。


「死んでいるもの」


私は泣いた。

その夜、何年ぶりか分からないほど泣いた。

妻はずっと、私の名前を呼んでくれた。


それから毎晩、妻と話すようになった。


昼間は声がしない。

夜、寝室の灯りを消す。

私が「おやすみ」と言ったあとだけ、妻は返事をする。


それから眠りにつくまでの短いあいだ、話をすることができた。


「今日は何をしていたの?」


「庭の草を抜いた」


「腰は大丈夫?」


「大丈夫だよ」


「嘘。あなた、昔から痛いときほど大丈夫って言うでしょう」


私は笑った。

間違いない、エマだ。


娘の誕生日も。

初めて二人で旅行した町も。

私が結婚指輪をなくしかけた日のことも。

すべて知っていた。


「寂しい?」


ある夜、妻が尋ねた。


「寂しいよ」


「そう」


「そっちへ行きたいくらいだ」


少しの沈黙。


「まだ駄目」


妻は言った。


「どうして?」


「まだ早いわ」


その言い方まで、エマだった。


一年が過ぎた。

私は七十六歳になった。

娘は、私が一人で暮らすことを心配していた。


「うちに来たら?」


「大丈夫だよ」


「でも、お父さん、最近、夜になると誰かと話しているでしょう」


私は驚いた。


「聞こえるのか?」


「何が?」


「母さんの声」


娘は黙った。


「……お父さん」


「いるんだよ」


私は笑った。


「母さんは、まだここにいる」


娘は泣いた。

私は嬉しくて泣いているのだと思った。


その夜。


「娘が君の声を聞いたらしい」


そう言うと、妻は黙った。


「エマ?」


「……そう」


「明日、話してやってくれないか」


「それはできないわ」


「どうして?」


「あなたにしか聞こえないから」


私は少し寂しく感じた。

けれど、それは特別なことのようにも思えた。


さらに二年が過ぎた。


身体が弱った。

階段を上るだけで息が切れる。

医師には、一人暮らしをやめるよう勧められた。

それでも私は家を離れなかった。


エマがいるからだ。


「もうすぐかな」


ある夜、私は尋ねた。


「何が?」


「君のところへ行くの」


返事はなかった。


「エマ?」


やがて妻は、小さな声で言った。


「あなたは、私のことを覚えている?」


私は笑った。


「当たり前だろう」


「顔も?」


「もちろん」


「声も?」


「四十二年聞いた」


「初めて会った日も?」


「駅前の喫茶店。君は黄色いワンピースを着ていた」


妻は黙った。

長い沈黙だった。


「……そう」


少し悲しそうな声だった。


※


その冬に私は倒れた。


病院へ運ばれたが、数日で家へ戻った。

最期は自宅で過ごしたかった。

娘が泊まり込んでくれた。

けれど寝室だけは一人にしてもらった。


「母さんと話すから」


娘は何か言いたそうだった。

それでも黙って、扉を閉めてくれた。


夜、私はベッドに横たわった。


息をするだけで胸が痛む。

隣の枕を見る。


「エマ」


返事はない。

まだ言っていないからだ。

決まりなのだ。

先に、私が言わなければならない。


そのとき、ふと思い出した。


妻が亡くなる三日前に病室で交わした会話。


「あなた」


痩せた妻が、私の手を握っていた。


「もし死んだあと、私の声が聞こえても、返事をしないでね」


私は笑った。


「何だ、それ」


「約束して」


妻は笑わなかった。


「どうして?」


「昔、おばあちゃんに教わったの」


「何を?」


妻は窓の外を見た。

夕暮れだった。


「死んだ人はね、残された人が自分を忘れるまでは、帰ってこられないんですって」


「じゃあ、私は一生君に会えないな」


「それでいいの」


妻は私の手を強く握った。


「私が死んですぐ、私の声で呼ぶものが来ても、それは私じゃないから」


私は黙った。

妻は続けた。


「私が帰れるのは、あなたが私を忘れたあと」


「忘れるわけない」


「ええ」


妻は微笑んだ。


「だから私は、あなたのところには帰ってこない」


記憶が途切れた。

暗い寝室。

隣の枕。


私は動けなかった。


二年間毎晩話していた。


――おやすみなさい。


誰と?


「……エマ?」


震える声で呼んだ。


返事はない。

まだ、私が言っていないからだ。


寝る前の言葉。

それが合図だった。


私は口を閉じた。

時計の音だけが響いた。


十一時五十分。


十二時。


一時。


声はしない。

私は安心した。


やはり私が「おやすみ」と言わなければ、あれは話せない。


そのとき、隣の布団がゆっくり沈んだ。

誰かが横になったように。


私は息を止めた。

耳元で、妻の声がした。


「どうして今日は、おやすみって言ってくれないの?」


私は目を閉じた。


「君は……誰だ」


沈黙。

そして、妻の声が笑った。


「ひどいわ」


布団の中で、何かが私の手を握った。

冷たかった。

妻の手は、こんなに大きくなかった。


「四十二年も一緒にいたのに」


指が絡む。


一本。

二本。

三本。


人間より、少しだけ多かった。

私は叫べなかった。


「忘れたの?」


その言葉で、ようやく分かった。


妻は言っていた。


――私が帰れるのは、あなたが私を忘れたあと。


そして今。

私は、目の前のものを妻ではないと理解した。


つまり、初めて「エマ」を手放した。

隣の何かが、嬉しそうに息を吸った。


すると、部屋の反対側、妻が生前使っていた鏡の前から、懐かしい声がした。


「やっと、忘れてくれたのね」


私は目を開けた。

鏡の前に、エマが立っていた。


亡くなった日の姿ではなかった。

黄色いワンピース。

駅前の喫茶店で初めて会った、二十一歳のエマ。


泣きながら、笑っていた。


「迎えに来たわ」


私は泣いた。

隣の何かが、私の手を強く握った。

鏡の前の妻が、こちらへ手を伸ばした。


「あなた」


隣からも同じ声。


「あなた」


どちらも、妻の声だった。


私は、どちらの手を取ればいいのか分からなかった。


*


翌朝。


娘が寝室へ入ると、父は眠るように亡くなっていた。


顔は穏やかだった。

左手は、誰かと手をつなぐように宙へ伸ばされていた。


そして右手は、布団の中で何かを強く握っていた。

娘が指を開く。

中には、古い結婚指輪があった。


母が亡くなったとき、棺に入れたはずの指輪だった。


娘は泣いた。


「……お母さん、迎えに来たの?」


誰も答えなかった。


その夜誰もいない家で、寝室の灯りが消えた。


しばらくして男の声がした。


「おやすみ、エマ」


女の声が答えた。


「おやすみなさい」


もうひとつの女の声が重なった。


「おやすみなさい」


翌朝、家は空だった。

ベッドには、三人分の窪みだけが残っていた。

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