明日を売る店
町のいちばん端に、明日を買う店がありました。
古い時計塔の影、花屋と仕立屋のあいだに挟まれた、ひどく小さな店でした。
扉には金色の文字で、こう書かれています。
――あなたの明日を、一日一枚の金貨で買い取ります。
十二歳の少年ノアがその店を見つけたのは、雪の降る夕暮れでした。
その年の冬はひどく寒く、母は三週間も寝込んでいました。薬屋は「あと金貨一枚」と言いましたが、家中を探しても銅貨が七枚しかありません。
妹のルーシーは、擦り切れた毛布の中で眠っています。
母の咳を聞きながら、ノアは思いました。
明日なんて、いくらでもあるのに。
だから扉を開けました。
店の中には無数の時計がありました。
大きな時計。小さな時計。針のない時計。逆さまに時を刻む時計。
その真ん中に、白い髪の店主が座っていました。
「明日を売りたいのですが」
店主は微笑みました。
「一日でよろしいですか?」
「はい」
「一度売った明日は、お返しできません」
「大丈夫です」
ノアは笑いました。
「僕には、まだたくさんありますから」
店主は少し悲しそうな目をしました。
それでも何も言わず、金貨を一枚差し出しました。
その金貨で薬を買うと、母は春を迎えるころにはすっかり元気になりました。
そして何より不思議だったのは――翌朝が、普通に来たことでした。
窓から朝日が差し、ルーシーが寝ぼけた声で兄を呼ぶ。
ノアは笑いました。
なんだ。明日は、ちゃんと来るじゃないか。
*
それからノアは、ときどき明日を売りました。
ルーシーに新しい靴が必要になった日。
母の誕生日に、赤いショールを贈りたかった日。
学校へ行くための本が買えなかった日。
困るたび、あの店を訪れました。
「今日は二日」
「今日は五日」
やがて、
「一か月」
それでも翌朝は来ました。
二十三歳の春には、花屋で働くエリーという娘に恋をしました。
笑うと目尻が少し下がる、美しい人でした。
「私、おばあちゃんになっても花屋をやりたいの」
川辺を歩きながらエリーが言いました。
「じゃあ僕は、おじいちゃんになっても毎日花を買いに行くよ」
「毎日は困るわ。家が花だらけになるもの」
「綺麗でいいじゃないか」
エリーは笑いました。
ノアは、その横顔を生涯忘れないと思いました。
二人は結婚しました。
娘が生まれました。
小さな指が初めて自分の指を握った夜、ノアは泣きました。
母を看取り、妹の結婚式では誰よりも泣き、娘が家を出る日には「せいせいする」と強がって、エリーに笑われました。
季節は、驚くほど静かに過ぎていきました。
春には庭の林檎が白い花を咲かせ、夏には窓辺で風鈴が鳴り、秋には二人で落ち葉を掃きました。
冬になると、エリーは決まってノアの手を握りました。
「あなたの手、昔から温かいわね」
そのたび、ノアは握り返しました。
「君が冷たいんだよ」
七十歳を過ぎても、二人は同じことで笑いました。
幸せでした。
だからノアは、少年だったころ明日を売ったことなど、とっくに忘れていました。
*
八十歳の誕生日。
家族が集まりました。
娘。 孫。 曾孫。
八十二歳になったエリーが、震える手でケーキを運んできました。
「八十本も蝋燭を立てたら、家が燃えるわ」
「それは困るな」
みんなが笑いました。
夜、二人きりになると、ノアは寝台で妻の手を握りました。
窓の外には雪が降っています。
遠い昔に母の薬を買うため、町を走った夜と同じ雪でした。
「いい人生だった」
ノアが呟くと、エリーは眉を寄せました。
「だった、なんて言わないで」
「じゃあ、いい人生だ」
「そう」
エリーは微笑みました。
「明日もそう言って」
ノアは笑いました。
「ああ。明日も」
目を閉じました。
妻の手の温かさを感じながら。
*
目を開けると、十二歳でした。
薄い毛布。
凍った窓。
隣では、幼いルーシーが眠っています。
ノアはしばらく動けませんでした。
自分の手を見る。
小さい。
皺も、結婚指輪もありません。
「……エリー?」
誰も答えません。
寝台から転げ落ちるように立ち上がりました。
家が違う。
いいえ、覚えている。
ここは子供のころの家です。
奥から母の咳が聞こえました。
激しく、苦しそうな咳。
「そんな……」
ノアは外へ飛び出しました。
雪の中を走ります。
時計塔。
花屋。
仕立屋。
そして、そのあいだにあの店がありました。
扉を開ける。
無数の時計が鳴っていました。
白髪の店主は、八十年経っても同じ姿で座っていました。
「おかえりなさい」
「エリーは?」
店主は答えません。
「娘は? 孫は?」
声が震えました。
「僕の家は?」
「まだ、ありません」
ノアは店主の胸倉を掴みました。
「僕は生きた!」
春の林檎。
娘の小さな手。
母の葬儀。
妹の花嫁姿。
エリーの皺。
八十年、愛した、泣いた、笑った。
確かに生きた。
「全部あった!」
「ええ」
店主は静かに答えました。
「あなたが買うはずだった明日です」
ノアの手から力が抜けました。
「……買う?」
「あなたは私に、明日を売った」
店主は古い帳簿を開きました。
そこには十二歳のノアの字で、売った日数が並んでいます。
一日。
二日。
五日。
一か月。
一年。
やがて。
――残り、すべて。
「最後にあなたは、お母さまの治療費のため、残った明日をすべて売りました」
ノアは思い出しました。
薬は一度では足りなかった。
母を助けたかった。
ルーシーをひとりにしたくなかった。
だから言ったのです。
僕の明日を全部あげます。
母を助けてください。
「じゃあ……あれは?」
「代金を決めるために、あなたが持っていたはずの明日をお見せしました」
エリー、娘、孫。
春の林檎。
八十歳の誕生日。
全部、手に入らない未来だった。
ノアは泣きませんでした。
泣くには、あまりにも美しい人生でした。
「……エリーは、本当にいる?」
店主は少しだけ目を伏せました。
「明日があれば」
それだけでした。
店を出ると、雪は止んでいました。
手の中には金貨がありました。
母の薬を買える金貨。
西の空は赤く染まっています。
ノアは走りました。
薬屋へ。
「これを!」
金貨を差し出します。
薬を胸に抱え、家へ走りました。
母に飲ませると苦しそうだった呼吸が、少しずつ穏やかになります。
「ありがとう、ノア」
母が微笑みました。
ルーシーも笑いました。
ノアも笑いました。
それでよかった。
本当に、それでよかったのです。
窓の外で、最後の夕日が沈み始めました。
ノアは母と妹のあいだに座りました。
目を閉じると、知らないはずの花屋が見えます。
笑うと目尻の下がる少女。
――私、おばあちゃんになっても花屋をやりたいの。
「エリー」
小さく名前を呼びました。
この世界では、まだ出会ってさえいない人。
母が尋ねます。
「誰?」
ノアは少し考えて、笑いました。
「僕の、明日」
夜が来ました。
十二歳の少年には、もう明日はありません。
それでも眠りにつく直前、ノアはもう一度だけ、八十歳の自分が見た夢を思い出しました。
皺だらけの手を握ってくれた人。
――明日もそう言って。
「ああ」
誰にも聞こえない声で、ノアは答えました。
「明日も」
けれど翌朝。
母が目を覚ましたとき、隣にいたはずの少年はどこにもいませんでした。
枕の上には、一枚の金貨だけが残されていました。
そして町の花屋では、その朝。
まだ名前も知らない少女が、なぜだかひどく悲しい夢から目を覚ましました。
夢の中で誰かと、八十年も一緒にいたような気がしたのです。
けれど顔も名前も思い出せません。
少女は理由も分からないまま泣きました。
それから店先に、一輪の花を飾りました。
いつか来るはずだった誰かのために。




