神さまを飼っています
わたしの家では、神さまを飼っています。
神さまは、白くて、小さい。
最初に見つけたときは、わたしの掌にすっぽり収まるほどでした。
雪の降った翌朝。
庭の林檎の木の下で、羽のようなものを身体に巻きつけ、震えていたのです。
「寒いの?」
尋ねると、神さまは小さく頷きました。
だからわたしは、誰にも見つからないよう部屋へ連れて帰りました。
温めたミルクを小皿に注ぐと、神さまは両手で抱えて飲みました。
飲み終えるころには頬が薄桃色になっていました。
「かわいい」
頭を撫でると、鈴を転がすような声で笑いました。
そして言ったのです。
「お礼に、ひとつ叶えてあげる」
「なにを?」
「あなたの願い」
そのころ、お母さんは病気でした。
寝室から毎晩、苦しそうな咳が聞こえていました。
だから、迷う理由なんてありませんでした。
「お母さんを元気にして」
神さまは笑いました。
「いいよ」
翌朝、半年も寝込んでいたお母さんが台所に立っていました。
窓から差し込む朝日の中で、パンを切っていました。
「おはよう、ミリア」
その声を聞いた瞬間、わたしは泣きました。
お母さんに抱きつきました。
温かかった。
本当に、本当に温かかった。
その夜、神さまは猫くらいの大きさになっていました。
*
次に願ったのは、お父さんのことでした。
戦争へ行ったきり、二年間帰ってこなかったからです。
「お父さんを帰して」
「いいよ」
翌朝、扉が叩かれました。
開けると、お父さんが立っていました。
痩せて、髭だらけで、片足を引きずっていました。
それでも笑いました。
「ただいま」
お母さんが泣きました。
わたしも泣きました。
三人で抱き合いました。
その夜、神さまは子牛ほどになっていました。
「大きくなったね」
「食べたから」
「ミルクを?」
神さまは笑いました。
「うん」
わたしも笑いました。
*
願いは少しずつ増えました。
隣の家の赤ちゃんが助かりますように。
今年の麦がたくさん実りますように。
洪水が起こりませんように。
戦争が終わりますように。
そのたび、奇跡が起きました。
赤ちゃんの熱は下がりました。
麦畑は黄金色になりました。
雨雲は村を避けました。
遠い戦場から兵士たちが帰ってきました。
村人たちは言いました。
「今年は神さまが見てくださっている」
わたしだけが知っていました。
本当にいるのです。
わたしの家の納屋に。
そのころには、神さまは馬より大きくなっていました。
白い身体は月明かりのように淡く輝き、背中から伸びた翼は納屋いっぱいに広がっていました。
「ねえ」
ある夜、わたしは尋ねました。
「願いを叶えると、お腹がいっぱいになるの?」
神さまは首を傾げました。
「反対」
「反対?」
「願いを叶えるほど、お腹がすくよ」
少し怖くなりました。
「何を食べてるの?」
神さまは微笑みました。
「いらなくなったもの」
意味は分かりませんでした。
*
十六歳になった年に村に疫病が流行りました。
ひとり、またひとりと倒れました。
わたしは神さまのところへ走りました。
「みんなを助けて」
神さまは、もう納屋には入りきりませんでした。
白い翼が夜空を覆っていました。
「みんな?」
「うん」
「ひとりも死なないように?」
「お願い」
神さまは、少し悲しそうな顔をしました。
「いいよ」
翌朝、病人は全員治っていました。
死者はひとりもいませんでした。
村中が泣いて喜びました。
けれど、その日か森の向こう側がなくなりました。
道を歩いても、途中から真っ白なのです。
山も。
隣町も。
その向こうにあった国も。
最初から存在しなかったように消えていました。
「神さま」
わたしは震えました。
「何をしたの?」
巨大な瞳が、わたしを見下ろしました。
「願いを叶えたよ」
「山は?」
「食べた」
「町は?」
「食べたよ」
「どうして?」
神さまは不思議そうでした。
「必要だったから」
そこで初めて、神さまは教えてくれました。
未来は一本ではないのだと。
お母さんが治る未来と、死ぬ未来。
お父さんが帰る未来と、帰らない未来。
赤ちゃんが助かる未来。
助からない未来。
戦争が終わる未来。
続く未来。
世界は本来、数え切れないほどの可能性へ枝分かれしている。
「あなたがひとつ選ぶたび」
神さまは言いました。
「ほかは、いらなくなるでしょう?」
だから食べた。
お母さんが死んだ世界を。
お父さんが帰らなかった世界を。
赤ちゃんを失った母親が泣いている世界を。
戦争の続いた世界を。
病気で村人が死んだ、無数の世界を。
「だって、あなたは望まなかったから」
わたしは何も言えませんでした。
悪い未来をなくした。
みんなを幸せにした。
そのはずなのに。
神さまの身体の中には、わたしが選ばなかった世界が、星より多く沈んでいました。
そこで生きていた人たちごと。
*
「戻して」
わたしは言いました。
神さまは首を振りました。
「食べたものは戻せないよ」
「じゃあ、もう願わない」
「そう」
神さまは微笑みました。
「それがいい」
初めて見る、安心したような笑顔でした。
けれど遅かったのです。
世界はもう、とても小さくなっていました。
村と、わたしの家と、麦畑。
それだけ。
空の向こうには何もありません。
海も、外国も、知らない誰かの町も。
全部、わたしが幸せを願うたび消えていました。
「ごめんなさい」
わたしは泣きました。
「知らなかったの」
神さまは巨大な指先で、そっと涙を拭いました。
「知っていても、きっと願ったよ」
その言葉が、いちばん悲しかった。
お母さんを見殺しにはできなかった。
お父さんを諦められなかった。
泣いている人がいれば、助けてと願ったでしょう。
何度やり直しても、きっと。
*
「お腹、すいてる?」
最後に尋ねました。
神さまは長いあいだ黙っていました。
「うん」
「あと、どれくらい?」
白い顔が、空を向きました。
もう何もない空。
そして神さまは、わたしを見ました。
「ひとつだけ」
分かりました。
残っている世界は、もうここだけなのです。
お母さんが庭で洗濯物を干しています。
お父さんが薪を割っています。
麦畑では子供たちが走っています。
みんな笑っています。
わたしが願った通りの世界。
誰も病気ではない。
誰も戦争へ行かない。
誰も泣いていない。
とても、とても幸福な世界でした。
だからわたしは神さまの鼻先に触れました。
「これも食べるの?」
神さまは答えませんでした。
代わりに尋ねました。
「最後に、願いはある?」
わたしは振り返りました。
お母さん。
お父さん。
村のみんな。
守りたかったものが、全部そこにありました。
しばらく考えてから、笑いました。
「みんなが、ずっと幸せでありますように」
神さまは泣きました。
初めてでした。
白い頬を、光る涙が流れました。
「それを願ったら」
神さまは囁きました。
「この世界以外を、全部なくさなくちゃいけない」
わたしは首を傾げました。
「でも」
神さまの向こう。
世界の果てには、もう何もありません。
「ほかには、何が残ってるの?」
神さまは答えませんでした。
ただ、わたしを見ていました。
そのとき、ようやく分かりました。
最後に残っていた可能性。
みんなが永遠に幸せではない未来。
病気になるかもしれない。
喧嘩するかもしれない。
いつか死ぬ。
悲しいことも起こる。
それでも明日が続いていく世界。
それこそが、最後に残された世界だったのです。
神さまは口を開きました。
夜空より大きな、真っ白な口でした。
わたしは目を閉じました。
その瞬間まで、お母さんの笑い声が聞こえていました。
*
そして世界には、不幸がなくなりました。
病気もありません。
戦争もありません。
別れも、涙も、死もありません。
なぜなら。
幸福になる人間も、もうひとりも残っていないからです。
何もないところに、白い神さまだけが浮かんでいました。
お腹はいっぱいでした。
それでも神さまは、ずっと泣いていました。
掌の上にかつて小さな少女からもらった、空っぽのミルク皿を載せたまま。




