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春を待ってはいけない

その村には、春がありませんでした。

一年じゅう雪が降っていました。


屋根にも、道にも、森にも。


朝になると世界は新しい白に塗り替えられ、夜には月明かりを吸った雪原が、青い硝子のように輝きました。


村の子供たちは、春を絵本でしか知りません。


《春になると雪が融けます》


《土から花が咲きます》


《鳥が帰ってきます》


ノアは、その頁がいちばん好きでした。


「お母さん。花って、本当にこんな色なの?」


「昔はね」


母は暖炉の前で編み物をしながら答えました。


「お母さん、見たことある?」


その瞬間だけ、母の手が止まりました。


「……ないわ」


「じゃあ、どうして昔って分かるの?」


「大人は、いろいろ知っているのよ」


それ以上、母は話しませんでした。

村には、昔からひとつだけ決まりがありました。


――雪の中に黄色い花を見つけても、決して摘んではいけない。


理由を尋ねても、大人たちは答えません。

ただ、「春を呼んではいけないから」と言いました。


ノアには、それが不思議でなりませんでした。


春は暖かい。

花が咲く。

鳥が歌う。

絵本の中では、誰もが春を喜んでいる。


なのにどうして、この村だけは春を怖がるのでしょう。


*


ノアが十二歳になった冬のことでした。


森へ薪を拾いに行った帰り、雪の中に小さな色を見つけました。


黄色。


初めて見る、本物の黄色でした。

雪を押し退けるように、一輪の花が咲いています。


ノアは息を呑みました。


絵本より、ずっと綺麗でした。

薄い花びらが風に震えています。


まるで、『――見つけて』と言っているようでした。


母の言葉が浮かびます。

摘んではいけない。


けれどノアは思いました。

たった一輪くらい。


指先で茎に触れました。

ぷつり。


その瞬間、足元で雪が融けました。


「……え?」


白の下から、黒い土が現れます。

そこから緑色の草が顔を出しました。


一つ、二つ。

十。

百。


雪が音を立てて森の奥へ退いていきます。


木々に若葉が芽吹きました。

凍っていた小川がほどけ、水が歌うように流れ始めます。


鳥が鳴きました。


ノアは立ち尽くしました。

頬を撫でた風が、温かい。


「春……」


胸がいっぱいになりました。


「春だ!」


ノアは村へ走りました。


*


春は、少女を追いかけるようにやってきました。

ノアが走った場所から雪が消えます。


黄色、桃色、青、紫。

見たこともない花々が次々と咲きました。


「みんな!」


ノアは笑いました。


「春が来たよ!」


けれど村人たちは笑いませんでした。


家から出てきた大人たちは、青ざめた顔で花を見ています。


誰かが籠を落としました。

老人が膝をつきました。


「ノア」


母が裸足のまま家から走ってきました。


「その花……」


ノアは嬉しそうに差し出しました。


「見て! 本物だよ!」


母は花を叩き落としました。

ノアは目を見開きました。


「お母さん?」


母は娘を抱きしめました。

痛いほど強く。


「どうして摘んだの」


声が震えていました。


「だって……」


「どうして!」


初めて母に怒鳴られました。

ノアの目に涙が滲みます。


「春を見たかっただけなのに」


母は何も言えなくなりました。


その背後で、鐘が鳴り始めました。


祝いの鐘ではありません。

村に災いが訪れたときの鐘でした。


老人たちは泣きながら呟きました。


「また春が来た」


*


その夜、村中に花が咲きました。


屋根にも、井戸にも、寝室の窓辺にも。

甘い香りで息が苦しくなるほどでした。


そして最初に変わったのは、パン屋のおじさんでした。


夕食の途中、胸が痛いと言いました。


家族が駆け寄ると、シャツの下から白い花が一輪、顔を出していました。


翌朝には身体中から咲いていました。

パン屋のおじさんは、笑っていました。


「暖かいなあ」


それが最後の言葉でした。

昼には身体が動かなくなりました。

足は土へ沈み、指先は細い枝になりました。


三日後、そこには一本の美しい白い木が立っていました。


次は学校の先生。

その次は粉屋の娘。


春が深まるほど、人々の身体から花が咲き始めました。


ノアは泣きながら母に尋ねました。


「どうして?」


母は答えませんでした。


「春って、こういうものなの?」


長い沈黙のあと、母は古い絵本を持ってきました。


ノアが何度も読んだ春の頁。

母は、その頁を破りました。


すると下に、もう一枚の頁が隠れていました。

そこには花畑が描かれていました。


いいえ。

花畑ではありません。


無数の人間が土に立ち、その身体から花を咲かせている絵でした。


「私たちはね」


母は泣きながら言いました。


「人ではないの」


ずっと昔、この土地に人間がいました。

彼らは、不思議な植物を育てました。


冬には人の姿を取り、歩き、話し、愛し合う植物。

そして春になると根を張り、花を咲かせ、種を残す。


人間たちはとうに滅びました。


残った植物だけが、自分たちを人間だと思って暮らしてきたのです。


「じゃあ……私たちも?」


母は答えませんでした。

その沈黙が答えでした。


*


日に日に、村人は減りました。

代わりに花が増えました。


村は美しくなりました。


息を呑むほど。残酷なほど。


ある朝、ノアが目を覚ますと、母は寝台にいませんでした。


庭にいました。


大きな銀色の木になって。

枝いっぱいに、淡い青の花を咲かせていました。


「お母さん」


ノアは幹に抱きつきました。


温かかった。

耳を当てると、微かな音がしました。


とくん。

とくん。


まだ母の心臓が鳴っているようでした。


「ごめんなさい」


何度も謝りました。


「春なんて、見たいって言わなければよかった」


風が吹きました。

青い花びらが、ノアの髪へ落ちました。


まるで母が頭を撫でているようでした。


ノアは泣きました。


*


それから三日後。村にはノアだけが残りました。


家々は花に覆われています。

道には草が生え、小川には魚が泳ぎ、蝶が舞っています。


世界は、ノアが夢見た春そのものでした。

少女は母だった木の下に座りました。

胸が、少しかゆい。



服の襟を開きました。

胸元から、小さな黄色い蕾が出ていました。

あの日摘んだ花と同じ色でした。


ノアはしばらく見つめました。

不思議と、怖くありませんでした。


身体の奥が暖かい。

眠る前のような心地よさ。


「そっか」


ノアは笑いました。


「私にも春が来たんだ」


立ち上がります。

足が土へ沈みました。

痛くありません。


指先が細い枝へ変わっていきます。

髪の間から花が咲きました。

視界が少しずつ高くなっていきます。


最後にノアは、母の木へ枝を伸ばしました。

触れることはできませんでした。


ほんの少し、届きませんでした。


「お母さん」


風が吹きます。

青い花びらが舞いました。


ノアは目を閉じました。


「春って、綺麗だね」


*


それから長い年月が過ぎました。


村があった場所には、広大な花畑ができました。


春になると、白、青、桃色、紫。


数え切れない花々が咲きます。


その中央には、二本の木が並んで立っています。

銀色の木と、黄色い花を咲かせる、小さな木。


枝と枝は、あと少しのところで届きません。


けれど風が吹くたびに互いの花びらだけが、相手の枝へ降り積もります。


まるでずっと手を伸ばし続けているように。


やがて冬が来れば、花は枯れます。

木々は眠ります。


そして雪の下でたくさんの種が、人の形を作り始めます。


小さな手。

小さな足。

閉じた瞼。


春の記憶を、何ひとつ持たない子供たち。

いつか彼らも目を覚ますでしょう。

雪しか知らない村で。


そして大人たちは、きっと教えるのです。


――雪の中に黄色い花を見つけても、決して摘んではいけません。


なぜなら、この村では春は毎年やってくるものではありません。


誰かが、思い出してしまったときにだけ来るものなのです。

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