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海の底では、名前を呼ばないで

その町では、海へ還した人の名前を呼んではいけません。


朝でも、夜でも。

どれほど恋しくても。


波打ち際では、決して名前を呼んではいけないのです。


*


海辺の町で生まれたカイには、七つ年上の姉がいました。


名を、リゼットといいました。

夏の海によく似た人でした。


よく笑い、よく怒り、長い髪を潮風になびかせながら、幼い弟の手を引いてどこへでも連れていきました。


「カイ」


姉は、何度も弟の名前を呼びました。


「名前って、不思議よね」


夕暮れの浜辺で、そんなことを言った日があります。


「どうして?」


「呼ばれると、自分がここにいるって分かるでしょう?」


幼いカイには分かりませんでした。

けれど、姉に名前を呼ばれることは好きでした。


転んで膝を擦りむいたときも。

熱を出した夜も。

悪い夢に泣いた朝も。


「カイ」


そう呼ばれるだけで、自分は世界から見つけてもらえたような気がしたのです。


だから、姉が死んだとき、いちばん苦しかったのは、もう二度と名前を呼んでもらえないことでした。


リゼットは十七歳でした。


夏の終わり、崖道から海へ落ちました。

遺体は三日後に見つかりました。

白い布に包まれた姉を、町の人々は小舟へ載せました。


この町では昔から、海で死んだ者は海へ還します。


棺はありません。

墓もありません。


花をいっぱいに載せた舟を沖へ流し、二度とその人の名前を呼ばない。


それが決まりでした。


「どうして名前を呼んじゃ駄目なの?」


カイが尋ねると、母は泣き腫らした目で海を見ました。


「帰ってきてしまうからよ」


「帰ってきたら、いいじゃない」


母の顔が歪みました。


「帰ってくるものは、もう同じものじゃないの」


カイには理解できませんでした。


姉は、姉です。


声も、顔も、笑い方も。

全部同じならそれでいいではありませんか。


*


七日目の夜、カイはひとりで浜辺へ行きました。


月が海に細長い道を作っていました。

波は穏やかで、寄せては返すたび、銀色の泡を砂へ残しました。


カイは裸足で水際まで歩きました。

冷たい海水が爪先に触れます。


「……リゼット」


小さく呼びました。

何も起こりません。


ほら、やっぱり迷信だ。


そう思ったとき沖の暗闇から声がしました。


「なあに?」


カイは息を止めました。

姉の声でした。


「リゼット?」


「なあに、カイ」


涙が溢れました。


「どこにいるの?」


「ここよ」


「帰ってきて」


少しの沈黙。

それから姉は、優しく言いました。


「もう少し呼んで」


*


次の夜も、カイは海へ行きました。


「リゼット」


「なあに?」


昨日より、声が近い。


三日目。


「リゼット」


「ここよ」


波の向こうに、人影が見えました。


四日目。


白い足が、海面の下に見えました。


五日目。


姉は腰まで海から出ていました。

月明かりに濡れた黒髪。

白い寝衣。

十七歳のままの顔。


「お姉ちゃん」


カイは泣きながら駆け寄ろうとしました。


「まだ駄目」


リゼットが言いました。


「どうして?」


「まだ遠いの」


「すぐそこじゃないか」


姉は悲しそうに笑いました。


「だから、もっと呼んで」


カイは毎晩、名前を呼びました。

呼ぶたび姉は近づきました。


そして十三日目。


波打ち際に、リゼットが立っていました。


「カイ」


姉が両腕を広げます。

カイは飛び込みました。


温かい。

海から帰ってきたのに、姉の身体は生きていたころと同じように温かかった。


「会いたかった」


「私も」


「もういなくならない?」


「ええ」


リゼットは弟の髪を撫でました。


「今度は、ずっと一緒よ」


*


翌朝、母は姉を見て悲鳴を上げました。


「違う!」


「お母さん?」


リゼットは傷ついた顔をしました。


「私よ」


「違う!」


母はカイを抱き寄せました。


「その子を返して!」


リゼットは寂しそうに笑いました。


「ひどいわ」


声も顔も、姉でした。

右の耳の後ろにある小さなほくろまで同じです。


「お母さんがおかしいんだ」


カイは姉の手を握りました。

母は泣き崩れました。


その夜、カイは奇妙な音で目を覚ましました。


ぴちゃん。

ぴちゃん。


廊下に水が落ちています。

姉の部屋へ続いていました。


扉が少し開いています。


中を覗くとリゼットは鏡の前に座っていました。


髪を梳かしています。

長い黒髪から海水が滴っていました。


鏡には姉が映っていませんでした。


代わりに暗い海が映っていました。


海底いっぱいに、人が立っていました。


男。

女。

老人。

子供。


何百人。

何千人。


全員が上を向いています。

カイを見ていました。


リゼットが鏡越しに笑いました。


「見つけた」


カイは後ずさりました。


「……何を?」


「あなた」


その瞬間、海底の人々が一斉に口を開きました。


――カイ。


自分の名前でした。

何千もの声が。


――カイ。

――カイ。

――カイ。


耳を塞ぎました。


「やめて!」


リゼットが振り返ります。


「どうして?」


姉の口から海水が溢れました。


「あなたが先に呼んだのに」


*


カイは母の部屋へ逃げました。

母はすべてを悟ったようでした。


「何回呼んだの?」


「分からない」


「何回!」


「毎晩……」


母は顔を覆いました。

そして初めて、本当の決まりを教えました。


海へ還すのは、死者ではありません。

この町では、死者は土へ埋めるのです。


海へ流すのは、死んだあと名前を呼ばれて帰ってきた者。


「お姉ちゃんは?」


カイの声が震えました。

母は泣きました。


「一度、帰ってきたの」


リゼットが海へ落ちた翌日の夜。

母は耐えられず、浜辺で娘の名前を呼びました。


そして帰ってきた。


同じ顔。

同じ声。

同じ記憶を持って。


母は三日間、その娘と暮らしました。


けれど夜になると、海へ向かって誰かの名前を囁いた。


カイの名前を。

だから母は、もう一度娘を海へ還したのです。


「名前を呼ぶと、死者が帰ってくるんじゃない」


母はカイを抱きしめました。


「海に、自分の名前を教えてしまうの」


廊下から声がしました。


「カイ」


リゼットです。


「駄目!」


母がカイの耳を塞ぎます。


「返事をしないで!」


「カイ」


優しい声。

熱を出した夜と同じ声。


「お姉ちゃんよ」


涙が出ました。

分かっている。

あれは姉ではない。


それでも。


「カイ」


ずっと大好きだった声で。


「こっちへおいで」


呼ばれた。


名前を呼ばれると、自分がここにいると分かる。

姉はそう言っていました。


けれど今は違いました。


呼ばれるたび、自分がここから少しずつ消えていくのが分かりました。


母の腕の温度が遠くなる。

床が冷たくなる。

潮の匂いが濃くなる。


「返事しないで!」


母が泣いています。


だけどカイは最後に、一度だけ姉の声を聞きたかった。


「カイ」


「……なあに?」


母が叫びました。


*


翌朝、家には母ひとりしかいませんでした。


床には濡れた子供の足跡が残っていました。


玄関から浜辺へ。

そして海の中へ。


その夜、母は海辺に立ちました。


呼んではいけない。

分かっています。


それでも沖の暗闇を見つめながら、唇が震えました。


息子の名前が、喉まで上がってきます。


そのとき、海の底から少年の声がしました。


「お母さん」


母は口を押さえました。


「名前を呼んで」


泣きながら首を振ります。


「お願い」


愛している。

だから呼びたい。


愛している。

だから呼んではいけない。


母は夜が明けるまで、ただ海を見ていました。


やがて朝日が昇ります。

水面が金色に輝きました。


その美しさの下、深い、深い海の底でリゼットとカイは手を繋いでいました。


二人の周りには、数え切れない人々。

みんな静かに待っています。


いつか自分を愛していた誰かが、寂しさに耐えられなくなる日を。


そして自分の名前を呼んでくれる日を。


カイは海面を見上げました。

もう母の顔は見えません。


それでも少年は微笑んで、何度も同じ言葉を繰り返しました。


「お母さん」


「僕の名前を呼んで」


海はその声を抱いたまま、今日も穏やかに波打っています。


だからこの町では今も、愛する人を海へ還すとき、誰も名前を呼びません。


忘れたからではありません。

忘れられないからこそ、呼ばないのです。

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