影をひとつ、くださいな
影売りの少女が町へ来るのは、月のない夜だけでした。
銀色の鈴を鳴らしながら、古びた手押し車を引いてやってきます。
車には瓶がいくつも並んでいました。
細長い瓶。
丸い瓶。
青い硝子瓶。
その中では黒いものが、水草のようにゆらゆら揺れています。
少女は石畳の広場に着くと、赤い布を広げ、小さな声で歌いました。
「影をひとつ、くださいな」
「いらない影を、くださいな」
「代わりに願いを、ひとつだけ」
町の人々は誰も近づきませんでした。
影を売ってはいけない。
昔から、そう言われていたからです。
理由を尋ねても、大人は決まって答えました。
「影は、あなたが生きている証だから」
けれど十二歳のミラには、どうしても叶えたい願いがありました。
弟を生き返らせたかったのです。
*
弟のニコは、冬の初めに死にました。
七歳でした。
朝にはまだ笑っていたのに、夜にはもう息をしていませんでした。
高い熱でした。
母は泣きました。
父は何も言わなくなりました。
ミラは泣けませんでした。
泣いたら、本当に弟が死んでしまうような気がしたからです。
ニコの寝台も、小さな靴も。
途中まで読んでいた絵本も全部そのままなのに、ニコだけがいません。
それがどうしても納得できませんでした。
だから影売りの少女が「願いをひとつだけ」と歌った夜に、ミラは家を抜け出しました。
雪の積もった広場。
少女はひとりで待っていました。
年齢はミラと同じくらいに見えました。
真っ白な髪。
夜のように黒い瞳。
そして、不思議なことに少女の足元には影がありませんでした。
「願いを叶えてくれるの?」
ミラが尋ねると、少女は笑いました。
「影をくだされば」
「何でも?」
「何でも」
ミラは迷いませんでした。
「弟を生き返らせて」
少女の笑顔が、ほんの少しだけ消えました。
「死んだ人を?」
「うん」
「本当に、それでいい?」
「いい」
「あなたの影は、もう戻らないよ」
ミラは雪の上に伸びた自分の影を見ました。
月はないのに、街灯の明かりを受けて、黒い影が足元に寄り添っています。
生まれてからずっと一緒だったもの。
けれど弟と比べれば、そんなもの。
「いらない」
ミラは言いました。
「ニコを返して」
少女はしばらくミラを見つめていました。
やがて、銀色の小さな鋏を取り出しました。
「では」
しゃきん。
奇妙な音がしました。
痛くありませんでした。
ただ、足元が少し寒くなりました。
少女は切り取った影を丁寧に畳み、小さな硝子瓶へ入れました。
瓶の中で影は暴れました。
まるでミラのところへ戻りたがっているように。
「これでいいの?」
「ええ」
少女は瓶に蓋をしました。
「朝になれば、願いは叶うよ」
*
翌朝。
「お姉ちゃん」
その声で目を覚ましました。
ミラは飛び起きました。
寝台の横に、ニコが立っていました。
「ニコ!」
抱きしめました。
温かい。
頬も手も、髪も。
全部覚えている弟でした。
「苦しいよ、お姉ちゃん」
「ごめん」
ミラは泣きながら笑いました。
母も父も駆け込んできました。
母は悲鳴を上げました。
そしてニコを抱きしめました。
「ニコ……!」
家族みんなで泣きました。
ミラも泣いていました。
嬉しかった。
これで元通り。
そう思いました。
けれど母が顔を上げました。
ミラを見ます。
「……あなた」
ミラは笑いました。
「お母さん」
母は眉を寄せました。
「誰?」
笑顔が止まりました。
「何言ってるの?」
父もミラを見ました。
知らない人を見る目でした。
「どうやって家に入った?」
「お父さん?」
「君は誰だ」
ニコだけが不思議そうにミラを見ていました。
「お姉ちゃん?」
ミラは弟に縋りました。
「ニコは分かるよね?」
「うん」
ほっとしました。
けれどニコは首を傾げました。
「でも」
「なに?」
「お姉ちゃんって、誰だっけ?」
*
ミラは家を追い出されました。
町を歩きました。
パン屋のおばさん。
学校の先生。
隣家のおじいさん。
誰もミラを知りませんでした。
学校の名簿から名前が消えていました。
家族写真からも。
誕生日に父からもらった木箱から、刻まれていた《ミラへ》の文字さえ消えていました。
ミラはようやく理解しました。
影は、生きている証ではなかった。
この世界に、自分がいたという証だったのです。
影を失った人間は、世界から少しずつ忘れられる。
ミラは走りました。
夜になるまで待ちました。
月のない広場へ。
「影売り!」
叫びました。
「返して!」
鈴の音がしました。
少女がいました。
「返してよ!」
ミラは泣きながら、その胸倉を掴みました。
「そんなこと聞いてない!」
少女は静かに言いました。
「言ったよ」
あなたの影は、もう戻らない。
「でも……!」
「願いは叶えたでしょう?」
遠くに、自分の家が見えました。
窓から暖かな光が漏れています。
父と母とニコ。
三人が食卓を囲んでいました。
笑っています。
幸せそうでした。
そこには最初から娘などいなかったように。
ミラは膝をつきました。
「……私も、あそこにいたかった」
初めて弟を取り戻したことを、少しだけ後悔しました。
その気持ちが恐ろしくて、ミラは声を上げて泣きました。
「どうしたらいい?」
少女は答えません。
「どうしたら、戻れるの?」
長い沈黙のあと少女は言いました。
「新しい影をもらえばいい」
ミラは顔を上げました。
「どこで?」
少女は、瓶の並んだ手押し車を撫でました。
「誰かから」
「……誰か?」
「ひとつの影には、ひとりぶんの居場所がある」
少女は微笑みました。
「誰かの影をもらえば、その人の居場所へ入れるよ」
ミラは家を見ました。
窓辺にニコがいます。
弟の足元には、小さな影。
それをもらえば私は家へ帰れる。
一瞬。
本当に、一瞬だけそう思いました。
けれどミラは首を振りました。
「いらない」
少女は少し驚きました。
「いいの?」
「ニコが、私みたいになるから」
「そうね」
ミラは泣きながら笑いました。
「だったら、いらない」
少女は長い間、ミラを見つめました。
そして初めて優しく笑いました。
「あなた、いいお姉ちゃんね」
その言葉だけが世界から消えかけたミラを、まだ誰かが覚えている証のように思えました。
*
それから何年も経ちました。
月のない夜に町へ影売りがやってきます。
銀色の鈴。
古い手押し車。
たくさんの瓶。
それを引いているのは、二人の少女です。
ひとりは白い髪。
もうひとりは、茶色い髪。
二人とも足元に影はありません。
「影をひとつ、くださいな」
「いらない影を、くださいな」
「代わりに願いを、ひとつだけ」
茶色い髪の少女は、ときどき町外れの家を見ます。
窓辺には、もう大人になった青年がいます。
名前はニコ。
彼には姉はいません。
少なくともそういうことになっています。
けれど不思議なことに、月のない夜だけニコの足元には、影が二つ伸びるのです。
ひとつは彼のもの。
もうひとつは少し背の高い少女の形。
ニコはその影を見るたび、なぜか胸が苦しくなります。
誰かを忘れているような。
とても大切な誰かに、ずっと会えていないような。
けれど名前が分かりません。
だからニコは、その影を踏まないように歩きます。
理由など知らないまま、大切なもののように。
そっと。
そっと。
その夜も遠くで、銀色の鈴が鳴りました。
「影をひとつ、くださいな」
声を聞いたニコは、なぜだか窓を開けました。
そして暗い道の向こうへ、小さく呟きました。
「……おやすみ」
影のない少女は足を止めました。
振り返りはしませんでした。
ただ誰にも見えない場所で、泣きながら笑いました。
世界中が彼女を忘れてしまっても。
弟の影だけはまだ、姉を忘れていなかったのです。




