↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
14/60

影をひとつ、くださいな

影売りの少女が町へ来るのは、月のない夜だけでした。

銀色の鈴を鳴らしながら、古びた手押し車を引いてやってきます。

車には瓶がいくつも並んでいました。


細長い瓶。

丸い瓶。

青い硝子瓶。


その中では黒いものが、水草のようにゆらゆら揺れています。


少女は石畳の広場に着くと、赤い布を広げ、小さな声で歌いました。


「影をひとつ、くださいな」


「いらない影を、くださいな」


「代わりに願いを、ひとつだけ」


町の人々は誰も近づきませんでした。


影を売ってはいけない。


昔から、そう言われていたからです。

理由を尋ねても、大人は決まって答えました。


「影は、あなたが生きている証だから」


けれど十二歳のミラには、どうしても叶えたい願いがありました。

弟を生き返らせたかったのです。


*


弟のニコは、冬の初めに死にました。


七歳でした。


朝にはまだ笑っていたのに、夜にはもう息をしていませんでした。


高い熱でした。

母は泣きました。

父は何も言わなくなりました。


ミラは泣けませんでした。


泣いたら、本当に弟が死んでしまうような気がしたからです。


ニコの寝台も、小さな靴も。

途中まで読んでいた絵本も全部そのままなのに、ニコだけがいません。


それがどうしても納得できませんでした。


だから影売りの少女が「願いをひとつだけ」と歌った夜に、ミラは家を抜け出しました。


雪の積もった広場。

少女はひとりで待っていました。

年齢はミラと同じくらいに見えました。


真っ白な髪。

夜のように黒い瞳。


そして、不思議なことに少女の足元には影がありませんでした。


「願いを叶えてくれるの?」


ミラが尋ねると、少女は笑いました。


「影をくだされば」


「何でも?」


「何でも」


ミラは迷いませんでした。


「弟を生き返らせて」


少女の笑顔が、ほんの少しだけ消えました。


「死んだ人を?」


「うん」


「本当に、それでいい?」


「いい」


「あなたの影は、もう戻らないよ」


ミラは雪の上に伸びた自分の影を見ました。


月はないのに、街灯の明かりを受けて、黒い影が足元に寄り添っています。


生まれてからずっと一緒だったもの。

けれど弟と比べれば、そんなもの。


「いらない」


ミラは言いました。


「ニコを返して」


少女はしばらくミラを見つめていました。

やがて、銀色の小さな鋏を取り出しました。


「では」


しゃきん。


奇妙な音がしました。

痛くありませんでした。

ただ、足元が少し寒くなりました。


少女は切り取った影を丁寧に畳み、小さな硝子瓶へ入れました。


瓶の中で影は暴れました。

まるでミラのところへ戻りたがっているように。


「これでいいの?」


「ええ」


少女は瓶に蓋をしました。


「朝になれば、願いは叶うよ」


*


翌朝。


「お姉ちゃん」


その声で目を覚ましました。


ミラは飛び起きました。


寝台の横に、ニコが立っていました。


「ニコ!」


抱きしめました。


温かい。

頬も手も、髪も。

全部覚えている弟でした。


「苦しいよ、お姉ちゃん」


「ごめん」


ミラは泣きながら笑いました。

母も父も駆け込んできました。

母は悲鳴を上げました。

そしてニコを抱きしめました。


「ニコ……!」


家族みんなで泣きました。

ミラも泣いていました。


嬉しかった。

これで元通り。


そう思いました。

けれど母が顔を上げました。


ミラを見ます。


「……あなた」


ミラは笑いました。


「お母さん」


母は眉を寄せました。


「誰?」


笑顔が止まりました。


「何言ってるの?」


父もミラを見ました。

知らない人を見る目でした。


「どうやって家に入った?」


「お父さん?」


「君は誰だ」


ニコだけが不思議そうにミラを見ていました。


「お姉ちゃん?」


ミラは弟に縋りました。


「ニコは分かるよね?」


「うん」


ほっとしました。

けれどニコは首を傾げました。


「でも」


「なに?」


「お姉ちゃんって、誰だっけ?」


*


ミラは家を追い出されました。

町を歩きました。


パン屋のおばさん。

学校の先生。

隣家のおじいさん。


誰もミラを知りませんでした。

学校の名簿から名前が消えていました。


家族写真からも。


誕生日に父からもらった木箱から、刻まれていた《ミラへ》の文字さえ消えていました。


ミラはようやく理解しました。

影は、生きている証ではなかった。


この世界に、自分がいたという証だったのです。

影を失った人間は、世界から少しずつ忘れられる。


ミラは走りました。

夜になるまで待ちました。


月のない広場へ。


「影売り!」


叫びました。


「返して!」


鈴の音がしました。

少女がいました。


「返してよ!」


ミラは泣きながら、その胸倉を掴みました。


「そんなこと聞いてない!」


少女は静かに言いました。


「言ったよ」


あなたの影は、もう戻らない。


「でも……!」


「願いは叶えたでしょう?」


遠くに、自分の家が見えました。

窓から暖かな光が漏れています。


父と母とニコ。

三人が食卓を囲んでいました。


笑っています。

幸せそうでした。


そこには最初から娘などいなかったように。


ミラは膝をつきました。


「……私も、あそこにいたかった」


初めて弟を取り戻したことを、少しだけ後悔しました。

その気持ちが恐ろしくて、ミラは声を上げて泣きました。


「どうしたらいい?」


少女は答えません。


「どうしたら、戻れるの?」


長い沈黙のあと少女は言いました。


「新しい影をもらえばいい」


ミラは顔を上げました。


「どこで?」


少女は、瓶の並んだ手押し車を撫でました。


「誰かから」


「……誰か?」


「ひとつの影には、ひとりぶんの居場所がある」


少女は微笑みました。


「誰かの影をもらえば、その人の居場所へ入れるよ」


ミラは家を見ました。

窓辺にニコがいます。

弟の足元には、小さな影。

それをもらえば私は家へ帰れる。


一瞬。

本当に、一瞬だけそう思いました。


けれどミラは首を振りました。


「いらない」


少女は少し驚きました。


「いいの?」


「ニコが、私みたいになるから」


「そうね」


ミラは泣きながら笑いました。


「だったら、いらない」


少女は長い間、ミラを見つめました。


そして初めて優しく笑いました。


「あなた、いいお姉ちゃんね」


その言葉だけが世界から消えかけたミラを、まだ誰かが覚えている証のように思えました。


*


それから何年も経ちました。


月のない夜に町へ影売りがやってきます。


銀色の鈴。

古い手押し車。

たくさんの瓶。


それを引いているのは、二人の少女です。


ひとりは白い髪。

もうひとりは、茶色い髪。


二人とも足元に影はありません。


「影をひとつ、くださいな」


「いらない影を、くださいな」


「代わりに願いを、ひとつだけ」


茶色い髪の少女は、ときどき町外れの家を見ます。


窓辺には、もう大人になった青年がいます。

名前はニコ。

彼には姉はいません。


少なくともそういうことになっています。


けれど不思議なことに、月のない夜だけニコの足元には、影が二つ伸びるのです。


ひとつは彼のもの。

もうひとつは少し背の高い少女の形。


ニコはその影を見るたび、なぜか胸が苦しくなります。


誰かを忘れているような。

とても大切な誰かに、ずっと会えていないような。

けれど名前が分かりません。

だからニコは、その影を踏まないように歩きます。


理由など知らないまま、大切なもののように。


そっと。

そっと。


その夜も遠くで、銀色の鈴が鳴りました。


「影をひとつ、くださいな」


声を聞いたニコは、なぜだか窓を開けました。

そして暗い道の向こうへ、小さく呟きました。


「……おやすみ」


影のない少女は足を止めました。

振り返りはしませんでした。


ただ誰にも見えない場所で、泣きながら笑いました。


世界中が彼女を忘れてしまっても。

弟の影だけはまだ、姉を忘れていなかったのです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。