世界でいちばん美しい声
世界でいちばん美しい声を持つ少女がいました。
少女の名は、エルシア。
彼女が歌えば、枯れかけた薔薇がもう一度花びらをひらき、泣いていた赤ん坊は母の腕の中で眠りにつきました。
けれどエルシア自身は、自分の声をそれほど好きではありませんでした。
「だって、私には普通に聞こえるもの」
そう言って笑うと、幼なじみのフィンは決まって呆れました。
「世界中でそんなことを言うのは君だけだ」
「フィンは好き?」
「好きだよ」
「どれくらい?」
少年は少し考えます。
「世界で二番目に」
「一番は?」
「母さんの声」
エルシアは頬を膨らませました。
「そこは私って言うところでしょう」
「嘘はよくない」
二人は笑いました。
まだエルシアが歌姫ではなく、ただの少女だったころの話です。
二人が会うのは、いつも村外れの丘でした。
なぜかフィンは村へ降りたがりませんでした。
祭りの日にも、市場の日にも。
「みんなと遊べばいいのに」
そう誘っても、フィンは木陰に座ったまま笑います。
「人が多いところは苦手なんだ」
だからエルシアは、丘へ通いました。
不思議なことに、フィンの家へ遊びに行った記憶はありません。
母親の顔も知りません。
けれど幼いエルシアにとって、それはたいしたことではありませんでした。
フィンはいつも丘にいました。
それだけで充分だったのです。
*
十六歳の春。
エルシアは王都へ招かれました。
噂を聞いた王さまが、彼女を王宮付きの歌姫にしたのです。
宝石を散りばめたドレス。
千人を収める劇場。
降り注ぐ花びらに鳴りやまない拍手。
《天使の声》
《神さまの歌》
人々はそう呼びました。
けれどエルシアがいちばん好きだったのは、故郷へ戻った夜にフィンと二人で丘へ座る時間でした。
「歌って」
「今日は散々歌ったのよ」
「僕は聞いてない」
「お金取るわよ」
「木苺三粒」
「安すぎる」
「四粒は破産する」
エルシアは笑いました。
「じゃあ、先払い」
フィンは困ったように眉を下げます。
「今は持ってない」
「いつもそう」
そう。
考えてみれば、フィンは一度も木苺をくれたことがありませんでした。
それでもエルシアは歌いました。
観客はいません。
拍手もありません。
ただ、夜露を含んだ草の匂いと、虫の声。
歌い終えるとフィンは言います。
「やっぱり綺麗だ」
その一言だけは、千人分の喝采より嬉しかったのです。
「ねえ」
ある夜、エルシアは尋ねました。
「私がおばあちゃんになって、こんな声じゃなくなっても綺麗って言う?」
「言うよ」
「適当」
「本当だよ」
フィンは笑いました。
「だって僕は、君がどんな声になるか知らないから」
妙な言い方でした。
けれどエルシアは、深く考えませんでした。
*
二十歳の冬。
フィンが死にました。
少なくともエルシアは、そう聞いたと思っていました。
王宮へ一通の手紙が届いたのです。
《フィンが亡くなりました》
たった一行。
差出人の名はありませんでした。
流行病だったような気がします。
いいえ。
それを誰から聞いたのか、後になって思い出そうとしても分かりませんでした。
エルシアは王宮を飛び出しました。
雪の中を馬車で走り、故郷へ帰りました。
村人に尋ねることもなく、真っ直ぐ丘へ向かいました。
なぜ墓の場所を知っていたのか。
そのときは疑問にも思いませんでした。
いつもの木の下。
小さな墓がありました。
墓石には《フィン》とだけ刻まれていました。
名字も、生まれた年も、死んだ日すらありません。
「遅いよ」
そんな声が聞こえた気がしました。
エルシアは振り返りました。
誰もいません。
初めてでした。
丘へ来て、フィンがいなかったのは。
その瞬間になって初めて、彼が本当に死んだのだと思いました。
エルシアは墓の前で歌おうとしました。
フィンが好きだった歌を。
けれど声が出ませんでした。
世界でいちばん美しい声は、その日、失われました。
*
医者は喉に異常はないと言いました。
薬師にも、魔術師にも治せませんでした。
一年が過ぎたころ、一人の老婆がエルシアを訪ねました。
「声を取り戻したいかい?」
エルシアは頷きました。
「なら、世界でいちばん美しい声を探しなさい」
エルシアは紙へ書きました。
《私の声ではなく?》
「おまえの声が美しかったのなら」
老婆は笑いました。
「それを作った声が、どこかにあるはずだろう?」
*
エルシアは旅に出ました。
大聖堂の聖歌隊。
砂漠の吟遊詩人。
船乗りを海へ送る恋人。
亡き子に子守歌を歌う母親。
世界中の美しい声を聞きました。
けれど、どれも違いました。
十年。
二十年。
四十年。
やがて、かつて《世界でいちばん美しい声》と呼ばれた少女は、白髪の老婆になりました。
そして六十七歳の冬、エルシアは故郷へ戻りました。
丘にはまだ墓がありました。
《フィン》
文字は不思議なくらい鮮明でした。
五十年近く雨風に晒されているはずなのに。
エルシアは墓石を撫でました。
「見つからなかったわ」
掠れた息しか出ません。
「あなたより綺麗な声なんて、どこにもなかった」
雪が降っていました。
もう疲れました。
ここで眠ってしまおう。
そう思ったとき。
「エルシア」
声がしました。
少女は――いいえ、老婆は顔を上げました。
誰もいません。
「歌って」
胸の奥で、五十年近く止まっていた何かが動きました。
「木苺三粒で」
エルシアは泣きながら笑いました。
声が出ました。
掠れて。
震えて。
かつての美しさなど、どこにもない声。
それでも最後まで歌いました。
「やっぱり綺麗だ」
フィンの声がしました。
その瞬間、エルシアは、すべてを思い出しました。
*
幼いころのエルシアは、ほとんど喋らない子供でした。
母は無口で、父はいませんでした。
村の子供たちからも避けられていました。
だから毎日、ひとりで丘へ行きました。
ある日誰もいない木の下で泣いていると、声がしました。
――エルシア。
顔を上げると、少年がいました。
「どうして私の名前を知ってるの?」
――ずっと聞いていたから。
それが、フィンとの最初の会話でした。
彼は村へ来ませんでした。
誰とも話しませんでした。
食べ物を口にしたこともありません。
雪の日にも足跡を残しませんでした。
そういえば。
手を繋いだ記憶も。
肩が触れた記憶も。
一度もありませんでした。
エルシアはずっと、それを忘れていました。
いいえ、考えないようにしていたのです。
それでも彼は毎日、少女の名を呼びました。
――エルシア。
――おはよう。
――大丈夫。
――ここにいるよ。
誰からも声をかけてもらえなかった少女は、その声を真似しました。
言葉を覚えました。
笑い方を覚えました。
そして、歌を覚えました。
世界でいちばん美しい声。
それは、最初からエルシアの声ではありませんでした。
誰もいない丘で聞いた、存在しない少年の声。
その声を真似して、彼女は自分の声を作ったのです。
「……見つけた」
五十年ぶりに、エルシアは自分の声で言いました。
フィンの返事はありませんでした。
それでも、もう寂しくありませんでした。
エルシアは墓にもたれました。
そして、そのまま静かに息を引き取りました。
*
春になって、墓守がエルシアを見つけました。
彼女の手には、木苺が三粒握られていました。
不思議に思った墓守は、古い教会記録を調べました。
エルシアが五歳だったころの記録が残っていました。
《エルシアという少女について相談あり》
《少女は毎日、村外れの丘でひとり会話をしている》
次の頁。
《本人によれば、相手はフィンという少年》
《村に該当する少年なし》
墓守は頁をめくりました。
そこで手が止まりました。
さらに百三十年前の記録。
《身寄りのない少年を丘へ埋葬》
《姓名不詳》
その下。
後から書き加えられたらしい、小さな文字。
《少年、自らをフィンと名乗る》
墓守は丘へ走りました。
二つの墓が並んでいました。
エルシア、そしてフィン。
昨日まで《フィン》とだけ刻まれていた墓石には、新しい文字が増えていました。
《声をひとつ、もらいました》
その下に。
《だから今度は、返しにいきます》
その夜、町でひとりの赤ん坊が生まれました。
泣きませんでした。
医者が背中を叩いても、母親が呼びかけても、ただ静かに目を開けています。
けれど窓の外から歌が聞こえた瞬間、赤ん坊は初めて声を上げました。
それは世界でいちばん美しい泣き声だったといいます。
そして丘では誰もいないはずの二つの墓のあいだから、少年と少女の笑い声がしていました。
「木苺、三粒」
「今さら?」
「約束したから」
「五十年遅いわよ」
風が吹きました。
春の草が揺れます。
そこには誰もいません。
ただ墓石の上に木苺が三粒。
今度こそ、きちんと置かれていました。




