十三番目の月には窓を閉めて
その国では、ごく稀に、一年に十三度目の満月が昇ります。
十二の月は白く、十三番目だけは、淡い青色。
その夜、人々は日が沈む前に家へ帰り、雨戸を閉め、厚い布で窓を覆いました。
たとえ外から家族の声がしても、赤ん坊の泣き声がしても、どれほど懐かしい人に名前を呼ばれても。決して、窓を開けてはいけません。
昔からそう決まっていました。
理由を尋ねる子供には、大人たちは言います。
「十三番目の月に見つかると、連れていかれるからよ」
どこへ?
そう尋ねても誰も答えてはくれませんでした。
*
リュカが十六歳になった年。
十三番目の月が昇ることになりました。
その知らせを聞いてから、母は落ち着きをなくしました。
窓の鍵を何度も確かめ、屋根裏の小窓にまで板を打ちつけます。
「そこまでしなくても」
リュカが笑うと、母は振り返りました。
「絶対に開けては駄目よ」
「分かってる」
「何が聞こえても」
「分かってるって」
「誰に呼ばれても」
母の声が震えました。
その横顔を見ながら、リュカは姉のことを思い出しました。
エステル。
三つ年上だった姉。
八年前に亡くなりました。
少なくとも、母はそう言っていました。
葬式の記憶はありません。
墓もありません。
覚えているのは、姉がいなくなる前日のことだけ。
庭で二人、林檎を食べました。
姉は皮を細く長く剥くのが得意で、途中で切れなければ願いが叶うのだと言いました。
「何をお願いしたの?」
「秘密」
「教えてよ」
「叶わなくなるもの」
エステルは笑いました。
今思えばあのとき姉が見つめていたのは、林檎ではありませんでした。
台所の窓辺、いつも母が立っていた場所でした。
*
十三番目の満月の夜。
窓の外で音がしました。
こつん。
こつん。
「リュカ」
少年の身体が凍りました。
忘れるはずがありません。
「リュカ。開けて」
姉の声でした。
「エステル?」
母が立ち上がりました。
「聞くな!」
「姉さんなの?」
「違う!」
「大きくなったね」
窓の向こうで姉が笑います。
リュカの胸の奥で、八年間蓋をしていたものが壊れました。
「姉さん!」
窓へ駆け寄ろうとすると、母が腕を掴みました。
その瞬間、窓の隙間から差した青い月光が、母の手を照らしました。
透けていました。
皮膚も。
骨も。
その向こうにある床が見えるほど。
「……母さん?」
母は慌てて手を引きます。
窓の外で、エステルが囁きました。
「思い出して、リュカ」
八年前の夜が戻ってきました。
*
十三番目の月が昇った夜、最初に窓を開けたのは、母でした。
ほんの少しだけなら。
そんな軽い気持ちだったのでしょう。
青い光が部屋へ入り、母は音もなく消えました。
そこだけを世界から切り取られたように。
九歳のリュカは、何が起きたのか理解できませんでした。
十九歳のエステルだけが理解しました。
「お母さん?」
何度呼んでも返事はありません。
床には、母が編みかけていた毛糸だけが落ちていました。
その夜からエステルは母親になりました。
朝食を作りました。
焦がしました。
洗濯をしました。
白いシャツを桃色にしました。
弟の髪を梳きました。
痛いと怒られました。
夜になるとリュカは尋ねました。
「お母さん、いつ帰ってくる?」
「すぐよ」
エステルは笑いました。
「きっと、すぐ」
嘘でした。
何も知りませんでした。
十九歳でした。
本当なら友人と町へ出て、恋をして、綺麗な服を欲しがってもよかった年頃でした。
けれど弟の前では泣きませんでした。
泣く場所がなかったからです。
夜、リュカが眠ってからエステルは母の寝室へ入りました。
枕に顔を埋めました。
まだ母の匂いがしました。
「お母さん」
声を殺しました。
「帰ってきてよ」
十九歳でした。
母親になど、なりたくありませんでした。
強くなんて、なりたくありませんでした。
誰かに「大丈夫」と言ってほしかった。
自分だって母に髪を撫でてもらいたかった。
「私だって、まだ……」
最後まで言えませんでした。
*
七日目の夜、リュカが熱を出しました。
高い熱でした。
「お母さん」
うわ言で何度も呼びました。
エステルは一晩中、弟の額の布を替えました。
「ここにいるよ」
けれどリュカは繰り返します。
「お母さん」
「……うん」
「お母さんに会いたい」
「うん」
エステルは笑いました。
涙を落とさないよう、必死に。
「私も」
そのとき窓の外が青く光りました。
十三番目の月は、まだ空にありました。
そして声がしました。
――返してほしい?
エステルは窓を見ました。
――失ったものを。
震える手で窓へ近づきました。
「お母さんを?」
――願うなら。
「返して」
即答でした。
けれど窓の向こうの声が尋ねました。
――代わりに何をくれる?
エステルは黙りました。
金貨。
宝石。
家。
何でもいいと思いました。
けれど、なぜか分かってしまいました。
月が欲しがっているものを。
自分です。
「……私?」
返事はありません。
それが肯定でした。
エステルは振り返りました。
寝台ではリュカが眠っています。
頬は熱で赤く、小さな手にはエステルの服の裾が握られていました。
「お姉ちゃん」
眠ったまま、今度は母ではなく姉を呼びました。
その一言で、エステルの決意は崩れました。
「……嫌」
初めて言いました。
「嫌よ」
弟のそばへ戻りました。
その手を握りました。
「私だって、いなくなりたくない」
十九歳でした。
生きたかった。
春には新しい靴を買う約束をしていました。
好きな青年もいました。
弟が大きくなるところも見たかった。
いつか結婚して子供が生まれたら母に抱いてもらいたかった。
全部欲しかった。
「怖いよ」
眠っている弟に縋るように、エステルは泣きました。
「リュカ、私、怖い」
弟は答えません。
当然です。
まだ九歳なのだから助けてもらえるはずなどありません。
やがてリュカが苦しそうに寝返りを打ちました。
「……お母さん」
その一言でエステルは泣きながら笑いました。
「そうだよね」
弟の髪を撫でました。
自分の撫で方では、母とは違う。
作るスープも、歌う子守歌も、抱きしめ方も、全部違う。
この子には母が必要なのだ。
そう思いました。
――いいえ。
そう思うことにしたのです。
そうでなければ自分が母に会いたくてたまらないことを、認めてしまうから。
「リュカのためだからね」
誰にともなく言いました。
「私が会いたいからじゃないよ」
何度も、何度も自分に言い聞かせました。
そして窓へ向かいました。
「お願い」
青い月を見上げます。
涙で輪郭が滲みました。
「お母さんを返して」
――代わりに?
唇が震えました。
それでも。
「私をあげる」
青い光が部屋を満たしました。
消える直前、エステルは寝台へ駆け寄りました。
弟の額に口づけます。
「ごめんね」
それからもう一度。
「大好きよ」
最後にほんの少しだけ。
「……お母さんに、会いたかったな」
それが十九歳のエステルがこの世界に残した、最後の言葉でした。
*
翌朝、リュカが目を覚ますと母がいました。
「おはよう」
いつもの声。
いつもの笑顔。
少年は泣きながら抱きつきました。
そして尋ねました。
「お姉ちゃんは?」
母は答えられませんでした。
ただ自分の頬を伝う涙の理由が分からないように、何度も拭いました。
その日から、家には母と息子だけが暮らしました。
姉など最初からいなかったように。
*
「……姉さん」
十六歳のリュカは、窓の前で泣いていました。
すべて思い出しました。
窓の外、十九歳のままのエステルも泣いていました。
「どうして」
リュカは窓硝子に手をつきます。
「どうして俺なんかのために」
エステルは首を振りました。
「違うよ」
「え?」
「あなたのためだけじゃない」
八年前には言えなかったことを、今度はきちんと言いました。
「私も、お母さんに会いたかったの」
リュカは泣きました。
エステルも泣きました。
「会いたかったのよ」
十九歳の少女は笑いました。
「だから、あなたのせいじゃない」
それは弟を救うための嘘だったのか。
八年前の自分を許すための真実だったのか。
もう誰にも分かりません。
「窓を開ければ」
エステルが言いました。
「私は帰れる」
リュカは後ろを見ました。
八年間、自分を育てた母がいました。
本物ではない、姉の記憶から作られた人。
それでも熱を出した夜には手を握ってくれました。
誕生日には菓子を焼いてくれました。
悲しい日は、何も聞かず隣にいてくれました。
愛していました。
「開けなくていいよ」
エステルが言いました。
リュカは振り返ります。
姉は笑っていました。
「今度は、自分で決められるから」
八年前、怖くても、生きたくても、母に会いたくて
、弟をひとりにしたくなくて、全部を抱えたまま、十九歳の少女は月に連れていかれました。
けれど今は。
「私、帰らない」
エステルはそう言いました。
「姉さん……」
「だって」
窓硝子越しに、弟の手へ自分の手を重ねます。
「ちゃんと大きくなったもの」
泣きながら、とても嬉しそうに。
「見たかったなあ」
ぽつりと言いました。
「あなたが大きくなるところ」
その言葉だけはどうしても笑って言えませんでした。
夜明けが近づきます。
青い月が薄れていきます。
「リュカ」
「なに?」
「幸せになってね」
「姉さんも」
エステルは少し驚きました。
それから十九歳の少女らしく、くしゃりと泣きました。
「……なりたかったな」
青い月が沈みました。
姉の姿も消えていきます。
最後まで二人の手は硝子越しに重なっていました。
*
朝、窓の外には白い光が満ちていました。
母は台所で朝食を作っています。
リュカはその背中を、長いあいだ見つめました。
それからそっと抱きしめました。
母は何も尋ねませんでした。
ただ、彼の腕に手を重ねました。
窓硝子には外側から小さな文字が残されていました。
《こんどは、あなたが願って》
その下に。
《自分の幸せを》
リュカは、その文字を生涯消しませんでした。
十三番目の月は、人を連れていくのではありません。
失ったものを返す代わりにその空いた場所へ、別の誰かを置くだけなのです。
だから十三番目の月には、窓を閉めてください。
人は悲しみの中では、自分がどれほど生きたいと思っているのかさえ、忘れてしまうことがあるから。
そして、ときには誰かを愛することと、その人のために消えてしまうことを、同じものだと思ってしまうからです。




